第040話:夢が叶った瞬間

 路川みちかわに声をかけたのは屋上から駆け下りてきた綾乃あやのだ。横には汐音しおんもいる。



鷹科たかしなさん、助かるわ。風向かざむかい君、彼女さんの利き手はどちらなの」



 質問の意図がわからないまま、織斗は優季奈ゆきなを見上げる。



「右手だよ」



 織斗に代わって優季奈自身が答える。



「了解よ。私が力の強い利き手を引っ張るから、鷹科さんは左手をお願いするわ。強引にしなくていいから私の言うとおりに動いて」



 路川の言葉に素直にうなづく。何しろ、ここは彼女の専門領域だ。



「彼女さん、両手を私に向かって伸ばして。力は入れなくていいよ」



 優季奈の視線が路川に向けられる。無愛想ぶあいそうに見える路川は、綾乃とはまた違う意味で美少女だ。



「どうかしたの。何か気になることがあれば遠慮なく言ってくれていいよ」



 じっと見つめてくる優季奈を不思議に想ったのだろう。路川はわずかに首をかしげている。




(助けようとしてくれている気持ちはとても嬉しいの。でも、私には触れられない。どうしよう。どうしたら)



 優季奈は躊躇ためらわずにはいられない。たとえ腕を伸ばしたところで、路川も綾乃も決して触れられないに違いない。もしそんなことになれば、二人はどう想うだろうか。



 優季奈の葛藤が織斗にも伝わっていく。織斗は察すると、耳元にごく自然に顔を近づけ、優季奈だけに聞こえるようにつぶやく。



「大丈夫、俺に任せて」



 すぐに織斗の顔が離れていく。



「路川さん、申し訳ないんだけど鞍崎くらさきさんの代わりに俺を引っ張ってくれないかな。全く力の入らないこの状況では彼女の負担が増すばかりだと想うんだ。どうだろう、だめかな」



 織斗の提案を受けて路川がしばし思案に入っている。思考すること五秒ほどか。路川は織斗に向かって軽く頷いてみせた。



「そうね。風向君なら遠慮なく力を入れて引っ張れるし、この状態なら彼女さんも満足でしょうから」



 余計なひと言をあえて口にする路川に対して、三人が何とも言いがたい表情になっている。


 織斗はひたすらに苦笑だ。優季奈は恥ずかしさと嬉しさが半々といったところか。綾乃はあきらめにも似た境地かもしれない。



 路川が三者三様の顔を観察しつつ、織斗の右腕を素早く取った。




「風向君、私と鷹科さんで引っ張り出すから安心して。それと彼女さんには気を配ってあげて」



 織斗の頭には疑問符が浮かんでいる。気を配って、と言われたところで、自分としては十分にそうしているつもりだ。これ以上、どうしろと言うのだろう。



にぶいわね。二人で力いっぱい引っ張るとなると、風向君の姿勢も乱れるのよ。そうなると彼女さんのスカートもまた乱れて、まくれ上がる可能性だってあるの」



 指摘されてようやく気づく織斗だった。



「それとも何、見たいの」



 路川が鋭い突っ込みを入れてくる。


 織斗は顔から火が出そうなほど真っ赤になりながらも、素早く上着を脱ぐと、慌てて優季奈のスカートを覆うように被せる。



「何だ、見たかったんじゃなかったの」



 優季奈がいささか軽蔑めいた眼差しを向けてきているのは気のせいだろうか。優季奈もまた頬を赤く染めながら、すぐにそっぽを向いてしまう。



「ちょっとめてくれよ、路川さん。全く何を言ってるんだよ。ゆ、鞍崎さん、誤解だよ」


「冗談よ。少しぐらいの痛みは我慢してね。いくわよ」




 路川は右手で万歳状態の織斗の右ひじ下を包み込み、さらに左手を肩の下側に添えた。綾乃に同じようにしろと目で促す。



「路川さん、準備できたわ」



 手持ち無沙汰ぶさたの汐音にわずかに視線を傾けた路川に、汐音が小さく頷き返す。綾乃に視線を戻した路川が両腕に力をこめ、ゆっくりと織斗の右腕を引っ張り始めた。



「鷹科さん、私があなたに合わせるから自分のペースでいいわよ」



 路川はとても同じ高校生とは思えないほどに落ち着き払っている。冷静に綾乃と優季奈、二人の状況を見極めつつ、ゆっくりと織斗の身体を引っ張り出していく。


 ものの数秒だ。織斗の上半身はセーフティエアクッションの外まで出てきていた。



「もう大丈夫ね。ここからは風向君に任せるわ。彼女さんを下ろしてあげて」



 路川の両手が、次いで綾乃の両手が離れる。



 織斗は言われるがままに、優季奈の細い腰に両腕を回す。そこで思いとどまる。



 この場でこれをするのはかなり恥ずかしい。それでも織斗には優季奈にしてあげたかったことがある。今の今までは絶対に叶わない夢だった。



「優季奈ちゃん、俺もすごく恥ずかしいんだけど」


「えっ」



 織斗はあっという間に優季奈を抱きかかえると、先にゆっくりと大地に足をつける。



「あらあら、私はお姫様抱っこしてあげて、なんて言わなかったんだけど。風向君って意外に大胆なのね」



 路川が少しばかり見直したと言いたげな視線を向けてきている。



「お、織斗君、恥ずかしいよ」



 織斗は落とさないように気を配りつつ優季奈の顔をのぞきこむ。



「優季奈ちゃん、いやだったかな。ごめんね」




 頬を染めたまま、ゆっくりと首を横に振る優季奈がいとおしい。織斗は思いきり抱きしめたい衝動を抑えつつ、優季奈を優しく大地に下ろした。



「優季奈ちゃん、立てるかな」



 両膝が震えるあまり、思わず織斗の腕にしがみついてくる。倒れそうな優季奈を咄嗟とっさに受け止める。



「ごめんね。迷惑ばかりかけて」



 織斗は何度も首を横に振ってみせる。


 ようやくの安堵感に満たされ、織斗は胸をで下ろした。




 二人が落ち着いたところで綾乃が声をかけてくる。幾ばくかの葛藤は胸に仕舞ったままだ。



「鞍崎さん、ごめんなさい。私の言葉があなたを追い詰めてしまった。謝って済む問題じゃないのはわかっているけど」



 頭を下げる綾乃の気持ちが優季奈には痛いほどにわかる。二人は本質の部分で同じだからだ。



「優季奈ちゃん、鷹科さんを許してあげてほしいんだ。悪いのは俺なんだ。俺からも謝罪するから」



 織斗に言われるまでもない。



「織斗君、何も言わないで。私、許すも何も、鷹科さんに何もされていないから。少しだけ言葉の行き違いがあっただけなの。そうだよね、鷹科さん」



 綾乃は思わず顔を上げてしまった。面食らうしかない。素直に受け取っていいものだろうか。綾乃にしては珍しく、迷いが顔にはっきりと出てしまっている。




「鷹科さん、いいんじゃないか。鞍崎さんがこのように言ってくれているんだから。それに、これ以上、事を大きくしたくないのはみんな同じだろ。鞍崎さんの名前からしてもな」



 汐音が綾乃、織斗、凪柚なゆこと優季奈の順で顔を見回していく。誰もが異論なく頷く。



「鷹科さん、正直に言うとね、怒っていないと言えば嘘になるの。でも、鷹科さんのお陰でもあるから。そこは素直にありがとう、と言いたいの」



 優季奈は地上に立っていることに心から感謝し、また安らぎにも包まれている。


 多くの人たちに迷惑をかけ、そして多くの人たちによって助けられた。



「路川さん、鷹科さん、助けてくれて本当にありがとうございました。ご迷惑をおかけしました。本当にごめんなさい」




 深々と頭を下げている優季奈を横目にしながら、汐音は織斗に視線を向けた。



「とにかく無事でよかったな。織斗、大丈夫だったか。随分と無茶をしたな」



 優季奈の全体重を受け止めていた織斗は、一人になった今、なぜか物足りなさを感じている。


「ありがとう。汐音がいてくれてよかった。本当によかった。それにしても、色がついた汐音、ここまでとは」



 織斗は鮮やかな色をまとった汐音を初めて見た。男の織斗から見ても抜群の格好よさだった。



「よせよ。そんなこと言われると照れるじゃないか。って、お前、色も戻ったのか。これで全部取り戻せた、ということでいいのか。あとで洗いざらい聞かせろよな」


「全部話すよ、汐音。本当にありがとう。心から感謝しているよ」




 汐音はこちらの様子を興味深そうに眺めている路川にも声をかける。



沙希さき、助かったよ。ありがとうな」



 路川は表情一つ変えずに小さく頷くだけだ。



「礼など不要だよ、汐音。私は私の仕事をしたまでだから」



 実はこの二人、幼馴染おさななじみで幼稚園からずっと通う学校も一緒、いわば腐れ縁だったりする。姓ではなく名を呼び合っている二人に、綾乃は驚きの声を上げた。



「えっ、路川さんと真泉まいずみ君って仲がよかったの」



 微妙な間合いで見つめ合っている二人の視線がそろって綾乃に向けられた。



「さあ、どうだろう」



 見事なまでに声が重なっていた。



「息ぴったりじゃない」



 一人つぶやく綾乃を見て、優季奈は複雑な想いを抱く。



(鷹科さん、こんな表情を見せるんだ)




 沙希と汐音が話しこんでいる最中、ようやく戻ってきた部長の瀬南和寿せなみかずとしが路川に声をかける。



「路川副部長、女子生徒を救護したら遅滞なく保健室に連れていく。私はそのように指示しておいたはずだが」



 路川がやや焦りながらも言葉を返す。



「瀬南部長ですか。ええ、これから鞍崎さんを保健室に連れていきます。ここにいる四人、何かと複雑なようなので様子を見ていました」



 瀬南が一同をぐるっと見回す。納得する部分があったのだろう。



「そうか。では、路川副部長、あとはよろしく頼んだぞ」



 それだけ告げると瀬南は織斗たちに向けて軽く右手を挙げ、再び嘉田かだの待つところへ戻っていった。



「路川さんも瀬南君も、それにみんなも、本当にすごいね」



 しみじみと言葉にする優季奈に路川が、さあ行きましょうとばかりに腰に手を添えて保健室の方へと歩み出す。


 優季奈も抵抗することなくついていく。歩きかけたところで振り返る。



「織斗君、鷹科さん、真泉君、私を救ってくれてありがとう」

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