第039話:待ち望んだようやくの再会

 河原崎かわらざき医師からの通話を切った宮永みやなが校長が鞍崎慶憲くらさきよしのりに近寄り、用件を伝える。



「副理事長、河原崎医師からです。鞍崎凪柚くらさきなゆ君の腕が限界に近づいています。これ以上、長引けば」


「わかっています。わかっていますが、ここは織斗おりと少年に委ねたのです。今の私たちにできることは何もありません。見守るしかないのです」



 鞍崎慶憲は視線を二人に据えたまま、断腸だんちょうの思いで言葉を吐き出す。



「万が一に備えて、校庭にはセーフティエアクッションを設置しています」



 下は下でやるべきことをやってくれている。鞍崎は宮永校長に目だけで感謝を伝えた。



(上は上でやるべきことをやる。織斗少年、時間がないぞ。頼む。急いでくれ)




「絶対に叶わないとあきらめていた。この三年の間、毎日悪夢に悩まされてきた。でも、俺の心の中にはずっと君がいた。片時も忘れたことはない。だからこそ、ここまで耐えてこられたんだ。そしてあの日、君が目の前に現れたことで悪夢の内容が少しずつ変わり始めたんだ」



 全ての者がもくして織斗の言葉に聞き入っている。汐音しおん綾乃あやのも初めて聞く内容だった。



(どういうことだ、織斗。鞍崎さんの正体を知っていたのか)



 汐音は頭をひねりながらも、眼前で繰り広げられている光景から一瞬たりとも目が離せない。



「死んだ人間は決して生き返らない。俺にとって、掛け替えのない親友、汐音と鷹科さんがいても、君のいない世界は灰色に染まったままだった。でも、ようやく色づき始めようとしているんだ。君があの桜に、神月代櫻じんげつだいざくらに色と匂いを見出みいだしたように」



(お願いだから、もうそれ以上は言わないで。そうじゃないと、私は、私は)



「三年前、天に召されたはずの君がなぜ俺の前に再び現れたのか。理由なんてどうでもいいんだ。今まさに君がいる。俺にとって、それだけが真実であり、全てなんだ」



 織斗は想いをそのまま言葉にしてぶつけている。



「あの時、窓から見た風景は今でも脳裏に鮮明に浮かび上がるんだ。その場所に立って、君と一緒に見たい。君の十四歳の誕生日に指切りしたね。果たせなかった約束を、今度こそ果たさせてほしいんだ」



 周囲は静寂そのものだ。凪柚の動きも完全に止まっている。


 それを好機ととらえたか。織斗の横を目にも止まらぬ速さで鞍崎慶憲が追い抜いていった。織斗も時間切れを感じ取っている。長々と話をしている余裕もない。



 まもなくその時が訪れる。



「凪柚、もう少しの辛抱だ。今すぐ助ける。耐えてくれ」



 鞍崎が悲痛な想いで声を張り上げる。



 遅かった。


 凪柚の両腕は限界を超えてしまっていた。極度の震えが身体の安定感を瞬時に奪い去っていく。前のめりになっていた凪柚の腰より上が大きく揺らいだ。



「凪柚」



 鞍崎が叫ぶ。



(ごめんなさい。私、もう、だめ)



 両腕が折れる。支える力を完全に失った身体がどうなるか。自明の理だ。そこに微風が後押しする。



(織斗君、さようなら。最後に)




「鞍崎さん」



 一同が言葉を呑む中、綾乃の悲鳴だけが耳朶じだを刺激していった。最初に立ち直った汐音が綾乃の手を素早く取った。




 織斗は約束の言葉を口にしたと同時、既に全速力で駆け出している。




優季奈ゆきなちゃん、二度と離してたまるものか」




 何もできないまま、まさに落下しかけている優季奈の耳は、確かに織斗の声を捉えていた。



「やっと、見つけて、くれた」



 涙とともに優季奈の口からこぼれ落ちた。



 鞍崎慶憲は咄嗟とっさの判断で優季奈に手が届かないことを悟ると、すぐさま頭を切り替えた。



「来い、織斗少年」



 両の手のひらを重ね、内側を足場代わりとして織斗の前に差し出す。



 既に織斗は目前に迫り、跳躍動作、まさに蹴りの動作に入っている。鞍崎慶憲はまさに理想どおりの最適な位置に立ってくれていた。



 織斗の右脚が鞍崎の構えた手のひらに軽やかに乗った。



「放り上げてください」


「承知」


 二人共に正しい軌道は見えている。以心伝心だった。




「俺たちも行くよ」


「い、行くって、どこに」



 手を握ったまま引っ張り出す汐音に、たまらず綾乃が抗議の声をあげる。



「決まってるだろ。校庭だよ。俺たちも織斗を見守らないと。河原崎先生と約束しただろ」




 落下を始めたら優季奈は約二秒後、校庭に叩きつけられる。セーフティエアクッションがあるとはいえ、身体の向きはもちろんのこと、落ちる場所が悪ければ命の保証は一切できない。



 鞍崎は腰を落とした姿勢から全身をばねと化して勢いを殺すことなく、フェンス最上部めがけて一気に織斗を放り上げる。



「行け、織斗少年」


「ありがとうございます」



 織斗は今ほど空手をやっていてよかったと感じたことはない。加賀に、美那子に、そして鞍崎慶憲に最大限の感謝を送る。




 優季奈が落ちる寸前、鞍崎慶憲の放り上げによって軌道を変えた織斗の身体はフェンス最上部に到達していた。


 両腕を最大限に伸ばして優季奈をつかまえようと試みる。



 すり抜ける。


 すんでのところで間に合わない。それよりも先に優季奈の身体は完全に倒れこみ、落下を始めてしまっていた。



 織斗は一切の躊躇ためらいもなく身体を下方向に倒し、さらに左脚でフェンスのふちを力いっぱい蹴って軌道修正、瞬時に落下に入る。



(たった二秒、だめだ、届かない)



 ほんのコンマ数秒だ。わずかの遅れが致命的だった。必死に足掻あがいて腕を伸ばす。



(優季奈ちゃん、俺はまた)



 その時だ。織斗は信じられない光景を目の当たりにした。



 地球上にいる限り、重力に逆らうことなど誰にもできない。追いつく可能性は皆無だったはずだ。



(これは、そんな、まさか)



 忘れられない色と匂いが鼻腔びくうに飛びこんでくる。刹那せつな、織斗の視界に全ての色が蘇った。



「優季奈ちゃん」



 あらんかぎりの声で叫ぶ。



 いつしか織斗の身体が優季奈を追い越そうとしている。地上までもはや一秒を切っている。織斗は両腕を優季奈の頭と背中に添えて強引に抱えこんだ。



「間に、合え」



 自分はどうなっても構わない。優季奈だけは絶対に守る。それだけを心で念じながら、織斗は懸命に自らの背を下に向けようと自由の利かない空中で身体をひねった。



 ほぼ同時だ。


 セーフティエアクッションが破裂音にも似た大きな音を立て、中央部からわずかにずれた部分を激しくへこませていった。



 織斗の背はぎりぎりのところでしっかり真下を向いていた。優季奈の頭と背中を両腕で支え、すっぽりと包みこんでいる。



(よかった。俺、優季奈ちゃんを守れたんだ。今度こそ守れたんだ。よかった、本当に)



 織斗の腕の中で優季奈は大きく震えている。



「優季奈ちゃん、もう大丈夫だから。怪我は、どこか痛むところは」


「織斗君、ごめんね、ごめんね、ごめんね」



 号泣する優季奈が必死にしがみついてくる。たどたどしく、小さな子供のように同じ言葉を繰り返すばかりだ。



 織斗は大きく息をついて、優季奈の背を優しくでる。泣き止むまでずっと続けるつもりだった。この時間がずっと続けばいい。そう想うほどにだ。



「ああ、風向君、お取込み中ということは重々承知なわけだが。大変申し訳ない。俺たちもレスキュー部として、二人の安否確認が必要でね。協力してもらえるなら大変ありがたい」



 瀬南和寿せなみかずとしが控え目に声をかけてくる。先ほど嘉田かだと話をしていたリーダー格の男子生徒で、レスキュー部の部長を務める三年生だ。織斗や汐音とも仲がよい。



「瀬南君、そうだね。ごめん。迷惑をかけてしまって。彼女も俺も無事だよ。本当にありがとう。レスキュー部のみんなのお陰で命が助かったよ」



 織斗は瀬南をはじめ、少し離れた位置に立つ部員の四人にも心から感謝の意をこめて礼を述べる。本当ならここから降り立って、改めて頭を下げるべきだろう。


 今は優季奈がいる。未だに優季奈を抱きしめたままだ。片時も離したくない。その気持ちが何よりも優先した。



「風向君、無事で何よりだ。そちらの女子生徒の名前を聞かせてもらいたいんだが」



 織斗は優季奈だけを見て、無我夢中で飛び降りた。周囲の状況を観察する余裕など皆無だった。



(ああ、そういうことか。これからの方が大変かもしれないな)



 若宮教頭からの要請で駆けつけたパトカー三台、救急車一台が赤色灯を点灯させながら待機している。当然、複数の警察官と救急隊員もあちらこちらで動き回っている。若宮教頭がひたすら頭を下げながら警察官と話をしているのが印象的だった。



「彼女は、さ、あ、えっと、鞍崎凪柚さんです」



 思わず優季奈の本名を答えそうになってしまった。織斗は今の彼女の名前を告げ、瀬南に小声で耳打ちした。



「鞍崎さんはこの学校の副理事長の娘さんなんだ。瀬南君、できれば穏便に済ませられたらありがたいんだけど」



 嘘も方便、この際仕方がない。


 瀬南は織斗や汐音には及ばないものの、学年で上位十位に入る秀才だ。織斗の意図を即座にくみ取った。瀬南は複雑な笑みを浮かべつつ、うなづいてくれた。



「わかった。俺のできる範囲で何とかしてみよう。ただし、事情聴取だけは避けられないだろうな」



 織斗は納得するしかなかった。四人を残して、瀬南だけが離れていく。嘉田に状況報告を行い、指示を仰ぐのだろう。



 いつしか優季奈の号泣は収まっていた。



「やっと、やっと名前が呼べる。触れられる。嬉しい。織斗君、私を見つけてくれてありがとう。本当にありがとう」



 織斗の胸に顔をうずめていた優季奈がわずかに顔を上げた。泣き腫らして真っ赤になった瞳で織斗を見つめてくる。



(ああ、この天使の破壊力、忘れられるはずもない。遂に、俺は)



「あの時と変わっていない。間違いなく、俺の心の中にいる優季奈ちゃんだ」



 優季奈の事情はこれからゆっくり聞いていけばよい。なぜ三年経った今、ここに現れたのか。さらには鞍崎凪柚と名乗っていたのかも含め、聞く時間は十分にある。この時の織斗はそう想っていた。



「いつまでも織斗君とこのままでいたい。でも、そうもいかないよね」


「そうだね。ここから下りないといけないけど、身体を起こせるかな。両腕、力が入らないんじゃない」



 優季奈の両腕は痙攣けいれんしたかのように小刻みに震えている。



「うん、織斗君にしがみつくだけで精一杯だよ。私一人じゃとても」



 優季奈は織斗の上に乗った状態だ。優季奈が自力で動けないとなると、強引にいくしかない。



(となると上下反転だけど、いや、待て待て待て。それはあまりに恥ずかしすぎる)



「お困りのようね。私が力を貸すわ。私の手を取って」



 織斗の視線が声の主に吸い込まれていく。まさしく救世主現る、だった。



「助かるよ、路川みちかわさん。大丈夫、彼女はレスキュー部の副部長だよ。とても信頼できる人だから」



 路川と呼ばれた女子生徒は表情をほとんど変えず、小さく頷くだけだ。外見だけでは、とてもレスキュー部副部長を務めているようには見えない。



「風向君、そんなに褒めても何も出ないよ。それよりも彼女、腕に力が入らなさそうだけど」



 どうしようかと目で問うてくる。



「路川さん、私も手伝うよ」



 助け舟は思わぬ人物からだった。

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