第038話:鞍崎凪柚の正体

 鞍崎凪柚くらさきなゆの自殺騒動は瞬時に学校内に広まっていった。生徒たちを抑えるのに教師陣が四苦八苦している。



 一方で校庭では着々と準備が整いつつあった。



嘉田かだ先生、今です」


河原崎かわらざき先生、了解しました。よし、出番だ。行け、お前たち」



 とても高校生とは思えないほどに立派な図体ずうたいをした四人がいっせいにけ出していった。もう一人が四人を誘導している。


 彼らが校庭に展開しようとしているのは高所降下用救助器具、いわゆるセーフティエアクッションと呼ばれるものだ。二十メートルからの落下にも耐えられる。



 河原崎は一人、屋上を見渡せる位置に移動していた。


 右手に双眼鏡、左手にスマートフォンを持ち、さらにヘッドセットを装着している。フェンス最上部に身体を乗り出している凪柚の姿を確認、位置を正しく嘉田に伝えた。



 セーフティエアクッションの配置、さらに展張てんちょうも完了、わずかにずれている位置を微調整していく。



「嘉田先生、一メートル東へ移動です」



 河原崎からの指示を受け、嘉田が生徒たちを即座に動かす。展張済みのセーフティエアクッションは重量が百キログラムを軽く超えている。それを悠々とかつぐ生徒たち、恐るべし膂力りょりょくだ。



「先生、準備が完了しました。ここで待機します」



 リーダー格とおぼしき男子生徒が嘉田に応える。



「よし。ここからが正念場だ。頼んだぞ」



 校庭から屋上までの高さ、それにフェンスの高さを加えても二十メートル足らずだ。落下したら、空気抵抗や落下する者の体重を考慮するまでもなく一瞬、たった二秒ほどで地面に到達する。



(落下を始めたら我々にできることは何もない。落下しないことを祈るばかりだ。したとしても、エアクッションの中央部に背中から落ちてくれよ)



 嘉田が心で祈りつつ、五人の生徒たちとともに鞍崎凪柚の一挙手一投足を見つめている。


 河原崎もまた双眼鏡の倍率を最大にして、凪柚を追い続けている。



「危ないですね。そろそろ限界を迎えそうです」



 河原崎は嘉田との通話をいったん切ると、急ぎ宮永みやなが校長のスマートフォンを鳴らした。




 屋上は最大の緊迫感に包まれている。



「よせ、凪柚。そんなことをしてどうなる。何のためにここまで来たんだ」



 綾乃の背後から、絶句状態から立ち直った鞍崎慶憲くらさきよしのりが叫んだ。決して冷静さだけは失わない。とにかく凪柚を興奮させてはいけない。言葉だけで説得を続けながら、凪柚が自発的に下りてきてくれることを願うしかない。



 鞍崎慶憲の声を聞き間違えるはずもない。凪柚の身体が跳ねた。その拍子にフェンスが揺れ、凪柚もまた揺さ振られる。



「副理事長、大声で刺激してはいけません」



 福永校長は言葉を発しながら、鳴動しているスマートフォンを取り出し、静かに耳に当てた。河原崎医師からだった。二言、三言、短く言葉を交わし、すぐに通話を切る。



「ごめんなさい、私、迷惑ばかりかけて」



 凪柚の声が震えている。



「迷惑などではない。それにいくらでもかけてくれて構わない。だから、頼む。そこから下りてきてくれ」



 凪柚は首を横に振るだけだ。



「ありがとう。いつも私の味方でいてくれて。でも、もうだめなの。私がいる意味なんてないの。やっぱり、私は、私は」



 何としてでも説得してみせる。鞍崎慶憲はその想いだけで言葉をかけ続ける。



「だめだ。それ以上は口にしてはいけない。口にしたが最後、凪柚は、そんなことになれば私も耐えられない。私以上に、あの二人も悲しむ」



 織斗おりとは凪柚と鞍崎が先ほどから交わしている言葉に違和感をいだかずにはいられない。


 具体的な名前が一切出てこないのだ。あえて隠している、けているとしか考えられない。校長室でもそうだった。鞍崎慶憲は凪柚との関係を一切口外しなかった。もし、それが分かってしまえばどうなるというのか。



「織斗、お前なら気づいているだろう。この二人の会話、違和感だらけだぞ」


「ああ、汐音しおんの言うとおりだ。俺も気づいたよ」



 鞍崎が束の間振り返る。あたかも織斗に合図を送っているかのようでもあった。目が合う。鞍崎が小さくうなづいた。



(そうか。そうだったんだ。二度と叶わないと想っていたのに。その夢が、今)



「私は存在してはいけなかったの。転入して来たその日から、私は彼に迷惑をかけてしまった。そんなつもりは全くなかったのに。私、何も知らなかったの。彼があんなことになっていたなんて。だって、だって」



 凪柚は振り返らない。物理的に振り返れないのが不幸中の幸いだ。



 鞍崎は素早く手帳を取り出すと、ペンで殴り書き、そのページを無造作に破り取った。視線を凪柚かららすことなく、左手に持ったそれを後ろ向きで織斗に突きつけてくる。



「汐音、行ってくるよ。俺が呼ばれているんだ。鷹科たかしなさんをあのままにしてはおけないし」


「織斗、鞍崎さんも鷹科さんも、お前に任せていいんだな。一人で大丈夫なんだな」



 力強く頷いた織斗が鞍崎のそばに駆けていく。



 差し出された紙を即座に受け取り、目を走らせた。そこには短く、こう書かれていた。



<察したな。君にかっている>



 十分すぎるぐらいに察した。二人の会話の違和感、そこに思い当たる具体的な名前を当てはめれば、謎は一気に氷解する。



 織斗は鞍崎慶憲にだけ聞こえる小声で言葉を発した。



「凪柚さん、いえ、優季奈ゆきなちゃんは私が必ず助けます。万が一の時に備えて、お願いがあります。鞍崎さんにしかお願いできません。フェンスが二メートル強、私の跳躍力では一気に飛び越えられません。三角跳びの補助を頼めませんか」



 冷静さを保っている鞍崎が思わず目を見張った。



「そこまで覚悟してくれているのか。ああ、任せろ。最適な位置に入ろう。織斗少年、凪柚を、いや、優季奈をどうかよろしく頼む」



 深々と頭を下げてくる鞍崎に、織斗は一言「してください」と告げ、綾乃あやののもとへ、凪柚のもとへ歩を進めていった。



「鷹科さん、あとは俺がやるから。汐音たちのところまで下がってくれないか」



 説得できないまま呆然ぼうぜんと立ち尽くしている綾乃をまずはねぎらう。



風向かざむかい君、ごめんなさい。私、鞍崎さんにひどいことを言ってしまったの。それで彼女は、彼女は」



 二人の間にどんな会話があったかなど容易に推察できるものの、この際どうでもよい。



「鷹科さんは何も悪くないよ。謝るのは俺の方だから。この一件が片づいたら、俺の話を聞いてほしいんだ」



 かつてないほどの真剣な眼差しを向けられ、綾乃は小さく頷くことしかできない。織斗が優しく綾乃の両肩を叩き、元気づける。



「ごめんね、鷹科さん。さあ、早く汐音のところへ」


「わかったよ。風向君、私がこんなことを言う資格はないけど。無茶をしないでね」



 綾乃の気遣いが嬉しい。



「大丈夫だよ。ありがとう」



 心の中で謝罪する。約束はできない。むしろ、無茶をすることが決まっている。


 綾乃が悲しげな瞳で織斗を見つめ、それから汐音の方に向かって走り出した。



 織斗は助走距離と角度を、さらには鞍崎慶憲が必ず立ってくれるであろう位置までを考慮したうえで、ぎりぎりのところまで凪柚に近づいていく。



 心を落ち着かせるために深呼吸を一度、それから織斗はゆっくりと言葉を発した。



「鞍崎凪柚さん、風向かざむかいです。こうして話をするのは初めてですね」



 凪柚の動きが見事なまでに制止した。


 織斗は迷った末に優季奈ではなく、凪柚と呼んだ。



(う、嘘、どうして。どうして、ここに)



 今すぐ下りていって近くで顔を見たい。そして抱きしめてほしい。



(無理なの。私からは決して名乗れない。私が誰なのか正しく認識して、私の本当の名前を呼んでくれない限り、私からは触れることさえできない。それがここに存在できる条件だもの)



「下りてきてくれませんか。ゆっくり話がしたいんです。お願いします」



 できるものならそうしたい。先に綾乃の言葉を聞いてしまっている以上、凪柚はここにいる意味を失っている。



「ごめんなさい。私のせいで、あなたに迷惑をかけてしまいました。鷹科さんにも指摘されました。私の存在があなたを苦しめているって。それが真実なら、私は耐えられません。だからお願いです。もう一人にしてください」



 あまりに他人行儀な口調に織斗は苦しくて仕方がなかった。


 薄々は感じていた。今の凪柚の言葉でに落ちた。どうして飛び降りようとまで思い詰めたのか。続く言葉でそれは確信に変わった。



「鷹科さんから責められました。二人は恋人同士なのでしょう。だから、私になど構わず、早く鷹科さんの傍に戻ってあげてください。お願い」



 一番口にしたくない言葉を自ら発する。最後の言葉は流れ落ちてくる涙で途切れる。


 心が潰れそうなほどに辛い。早く解放されたい。そんな想いはだめだとわかっていながら、意思を無視して言葉だけがれ出ていく。



「こんなに苦しくて、辛くて、悲しい想いをするぐらいなら、私は、私は戻ってなんか来なければよかった」



 感情がたかぶってきている。比例して両腕の震えも大きくなってきた。



「そんなことはない」



 織斗が発した怒声にも近い大声に、あらゆる動きが止まった。

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