第037話:緊急事態
職員室に戻った
カップに入れたままの温くなったコーヒーを一口含んだところで、再び誰かに名前を呼ばれる。しかも、かなりの切迫感に溢れている。
うんざりした表情で声の出所に向かって振り返る。
「磯神先生、大変です。
大声で叫んだのは
「飛び降りたのか。場所はどこだ、
盛大にむせて苦しんでいる磯神に代わって、隣にいた数学教師の
「屋上です。まさに飛び降りようとしているところなんです。今は
言外に早く助けてくれ、助けに来てくれと叫んでいる。
そこに
「真泉君、済まないが校長室に走ってください。中にいる二人を大至急連れて、そのまま屋上に向かってください」
細かく聞く必要はない。二人を呼び出して屋上へ行く。それだけだ。
「わかりました」
汐音が即座に走り出す。
次に宮永校長は、職員室の奥で半ば固まっている
宮永校長は
「人命に優るものはない。すぐに電話しなさい。できないなら役職を外す」
若宮教頭が慌てふためき電話に飛びついている。これで安心できるわけではない。時間との勝負だ。
「
「承知しました。不謹慎ですが、待っていました」
「私も行きましょう」
手を挙げてくれたのは、こういう場面で誰よりも頼りになる
「河原崎先生、よろしくお願いいたします」
切羽詰まった宮永校長の口調とは対照的に、河原崎のそれは至って穏やかで落ち着き払っている。
「授業は中断です。磯神先生は私と一緒に。他の先生たちは屋上と校庭に生徒たちを絶対に出さないよう制御してください。頼みましたよ」
職員室内を見渡す。全員の顔が緊張に満ちている。宮永校長は信頼をこめて大きく頷くと、磯神を引き連れて屋上へと急いだ。
彼が
「
はぐらかされたわけではないのだろう。
(俺は何を求めているんだろう。自分勝手な想いのあまり、鞍崎さんに優季奈ちゃんを重ねているだけじゃないのか。常識的に考えて、彼女が優季奈ちゃんであるはずがないんだ)
どのように折り合いをつけていいのかわからない。
「鞍崎さん、一般論として尋ねてもいいですか」
「ああ、もちろんだとも」
「優季奈ちゃんは三年前のあの時、天に召されました。私は葬儀にも参列しました」
鞍崎が小さく首を縦に振る。美那子の兄として、彼もまた葬儀に参列していた。織斗が言わんとしていることは理解できる。
凪柚と優季奈、二人が同一人物である可能性だ。
優季奈の身体が冷凍保存されているなど、万に一つの可能性もない。いったいどこのSF小説だ、になってしまう。現代科学において、火葬までした死者の身体が蘇るなど、あり得ないのだ。
「織斗少年、凪柚は」
続きを言いかけたところで扉が激しくノックされた。返事を待たずして扉が開かれる。
「誰も入れるなと」
「いきなり失礼します。すぐに屋上まで来てください。鞍崎さんが飛び降り自殺しそうなんです」
汐音が中に入らず、扉の外から
「屋上だな。織斗少年、全速力で駆け上がるぞ。心臓はどうだ」
どうして、と理由を問いかける必要もない。
「問題ありません。伊達に鍛えているわけではありませんから」
上等だとばかりに鞍崎は不敵な笑みをもって
汐音を押しのけるようにして鞍崎が真っ先に飛び出していく。織斗も遅れまいとすかさず後を追った。
「汐音、ありがとう」
すれ違いざまに言葉をかける。先導するはずだった汐音は、二人の迅速すぎる行動に
「あれ、俺が一番最後に。おい、待てよ、織斗」
慌てて二人を追いかける汐音だった。
脇目も振らずに全速力で走りながら、鞍崎が追いついてきた汐音に問いかける。
「君の名前は。鞍崎凪柚は、今どうなっている」
汐音が自分の名前を告げ、手短に今の状況を説明した。二人を呼びに来たのは宮永校長の指示だともつけ加えた。
校長室は一階の最奥に位置している。屋上へと向かう階段は校舎中央にあり、休まず全力で走っても二分以上は要する。もし、この間に凪柚が飛び降りでもしたら。考えるだけで鞍崎は吐き気がしてくる。
(凪柚、私が行くまで絶対に飛び降りるな。凪柚の夢は、この私が必ず叶えてやる)
並走する汐音が織斗に尋ねてきた。
「織斗、あの人は誰なんだ。お前とは親しそうだったけど」
二人は息を切らすことなく走り続けている。どちらかと言えば、鞍崎の方が限界に近そうだ。
「あの人は鞍崎さんと言って、この学校の副理事長なんだ。凪柚さんの関係者でもある」
「なるほど」
汐音からの返答はそれだけだった。今度は織斗が問い返す。
「それよりも汐音、飛び降り自殺ってどういうことなんだ。鷹科さんも一緒だったのに」
「途中までは普通に話をしていたんだ。俺が隠れていた位置からは内容まではわからない。それが突然」
ようやく屋上へ繋がる扉が見えてきた。最後の階段を上りきるだけだ。
「行けばわかる。織斗、覚悟しておけよ」
「覚悟って、何だよ」
一気に駆け上がり、屋上に出た。さすがに息が切れている。少し遅れて鞍崎もやって来る。
「さすがに君たちには勝てなかったか。歳を感じるな」
ここまで全速力の三人が、等しく肩で息をしている。
「真泉、風向、来てくれたか」
「副理事長、息が上がっていますよ。大丈夫ですか」
ひと足先に到着していた磯神と宮永校長が、それぞれに声をかけた。
「私は、大丈夫です。それよりも、どうなっていますか」
「行きましょう。直接、ご覧になってください」
五人が立っている場所は、凪柚と綾乃のいるところからは死角になっている。小屋の向こう側に移動しなければ状況が把握できない。
またも先陣を切ったのは鞍崎だ。誰よりも早く走り出すと、小屋を通り過ぎて反対側の空間に踏み込んだ。他の四人も遅れじと続く。
鞍崎は眼前の光景にただただ言葉を失った。
「鞍崎さん、お願いだからすぐに下りてきて。そんなことをして、どうなるというの」
綾乃の言葉は通じない。聞く耳を持たない状態だ。今の凪柚がどうなっているのか。
凪柚は屋上フェンス最上部に両手をかけ、腰より上の身体を外に乗り出しているのだ。
屋上フェンスの高さは二メートルある。建築基準法施行令百二十六条で安全上必要な高さが一.一メートル以上の手すり壁、柵、金網の設置が義務づけられている。響凛学園高等学校ではそれを上回る高さをもって、生徒の安全を守っている、はずだった。
綾乃はとにかく刺激だけは与えないように説得を続けている。
「鷹科さん、来ないで。少しでも近づいたら、ここから飛び降りるから」
凪柚は目の前に広がる空だけを見つめ、大声を張り上げた。その声は震えている。
振り返る余裕などない。たったそれだけの動作でバランスを崩す恐れもある。無我夢中だったとはいえ、よくここまで上がってこれたものだ。
安定しない身体を両腕二本だけで支えている。既に腕が
綾乃には飛び降りると強がってみたものの、凪柚は怖くて下を見ることさえできなかった。
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