第036話:織斗の客人の正体

 綾乃あやの凪柚なゆ、二人が教室を出ていく。汐音しおんも迷わず後を追うことに決めた。


 階段を静かに上がっていく二人の間に、会話は一切ない。綾乃が前に立ち、そのすぐ後ろに凪柚がついていく形だ。



(屋上に向かっているな。一触即発は避けられたけど、鷹科さん、どうするつもりなんだ)



 今の時間帯、屋上の扉は解錠されている。


 二人は難なく外に出ると、最も日当たりのよい場所、中央部まで進んでいった。



 屋上には物置を兼ねた小屋が一つあるだけで、それ以外の建造物はない。汐音は二人に見つからないよう、密かに扉をくぐると、小屋の物陰に隠れて様子をうかがうことにした。



「今日はいい天気ね。少しだけ風が冷たいけど、日差しは温かい」



 あなたはどう。振り返りながら綾乃が目で問いかける。



「そうね。それで、鷹科さん、こんなところまで私を連れてきて何の話をするのかな」



 綾乃は凪柚の顔を凝視している。凪柚も真っ向から受け止めている。


 心理的な駆け引きが続いている。遠目から見守る汐音でさえ、二人の間に漂う不穏な空気をひしひしと感じ取っていた。



「私、言わなかったかな。風向かざむかい君のことだって」


「風向君って、確か私が転入してきた日に倒れた男の子だよね」



(最初の時より感情が抑えられている。この子、意外にやるわね。でも、私だって)



 凪柚は劣勢に立たされつつあることに気づいている。主導権はずっと綾乃が握ったままだ。このままではだめだと思ったところに、綾乃の質問が来た。



「鞍崎さん、あなた、いったい何者なの。風向君を以前から知っているのよね」



 単刀直入にぶつけた。私の目は誤魔化されない。そう言っているに等しい。


 凪柚は黙りこんでしまっている。発すべき言葉を考えあぐねるあまり、沈黙を強いられている。



「そう。まあいいわ。正直、鞍崎さんが何者なのかなんて、私はどうでもいいの」



 あっさりと綾乃が引き下がる。


 肝心なのはここからだ。綾乃は凪柚の目をしかと見つめ、ひたむきな想いをこめて言葉をつむいだ。



「私が見ているのは、風向君ただ一人だけだから」



 真っすぐな綾乃の言葉が胸に突き刺さる。凪柚は打ちのめされていた。凪柚の直感もまた正しかったのだ。



(鷹科さん、やっぱり好きなんだ。いやだ。そんなの絶対にいやだよ。三年も待って、ようやくここまで来られたのに。誰にも渡したくないよ)



 凪柚の全身が震えている。複雑すぎる感情が渦巻き、心が乱れに乱れている。今にも胸が張り裂けそうだ。



「風向君とあなたとの間に何があったのか私は知らない。知るすべも、権利もない。でも、これだけははっきり言っておくわね」



(決してあなたを傷つけるつもりはないの。あなたと同じよ。私にも譲れないものがあるから。そう、これは私の我がままなの)



 想いを強く言葉に乗せる。



「あなたの存在そのものが風向君を苦しめているの。それがわからないかな」



 耐えきれなかった。この瞬間、凪柚の心は破裂した。




◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 織斗は磯神いそがみに連れられて校長室の前に来ていた。磯神が扉をノックする。



宮永みやなが校長、風向を連れてきました」



 扉の奥から校長の声が聞こえてくる。磯神は素早く扉を開けて中に入った。織斗もすぐ後ろに続く。



「失礼します」



 二人の声が重なる。


 校長室に入るのは、これが四度目となる。最初は両親とともに心臓の持病と失声症について話をする時だった。二度目と三度目は学年末、優秀生徒表彰式後に行われる特別面談時だ。



 広々としたちり一つない空間に、豪華な調度品が配置されている。大企業の社長室と言われても何ら不思議ではない。織斗自身、実際に見たことはないので、あくまで想像の域にすぎない。



 五十代半ばの宮永校長は年齢以上に若々しく見え、校長らしからぬカジュアルな服装だ。


 頭まで収まるいかにもな椅子に腰を下ろし、柔和な目をこちらに向けてきている。そして、もう一人だ。宮永校長の左横に背の高い男が立っている。



「あれがそうだ。高級スーツ」



 磯神が指差しながら、耳打ちでささやきかけてきた。人を指差すのは失礼だとの指摘はもちろんしない。


 その人物は背を向けて、窓の向こうを静かに眺めている。



「風向君、よく来てくれたね。急に呼び出したりして済まなかったね」



(何となく見覚えがあるような)



 立ったままの男の背を見つめていた織斗は、校長の声に慌てて視線を戻す。



「いえ、大丈夫です。磯神先生から、私に客人が、と聞きました」



 さすがに校長の前では一人称を変える。


 宮永校長が口を開くよりも早く、もう一人の男が言葉を発した。



「失声症は治ったようだな。喜ばしいことだ。あれからおよそ三年か。随分久しいな、織斗少年」



 振り向いた男と目が合う。


 見覚えがあるどころではない。はっきりと覚えている。


 男が言ったとおり、約三年前だ。あの時同様、似たような高級スーツをまとった男は、確かにベッドそばに立っていた。忘れもしない。何しろ暴言を吐いた張本人なのだから。



「あなたはあの時の。美那子みなこさんのお兄さんでしたね。お名前は聞けないままでした」



 口角がわずかに上がり、こちらに近づいてくる。



「立ち話も何だな。そこに座りたまえ。磯神君、ご苦労だったね。済まないが、ここからは織斗少年と二人にしてもらいたい」



 磯神は一刻も早く退出したかったのだろう。理由など問う必要もない。男の言葉はまさに渡りに船だった。



「では、これで私は失礼いたします。風向、しっかりやれよ」



 微妙な言葉を残し、磯神はそそくさと出て行ってしまった。



「私もこの辺で。風向君は我が校の大切な生徒です。くれぐれも」


「宮永校長、私も大人です。それぐらいはわきまえていますよ。ご懸念には及びません。約束します」



 織斗が見る限り、宮永校長の方が年上にもかかわらず、年下のような態度で接している。美那子の兄が何者なのか、皆目見当がつかない。



 宮永校長が織斗の肩を軽く叩き、ゆっくりと扉に向かって歩いていく。男も織斗も、宮永校長の背中が見えなくなるまで無言だった。



「さて、二人きりになったということで、早速始めようか。まずは、織斗少年が私を覚えていてくれてよかった。円滑に進められるだろう」



 あまりに豪華すぎるソファはかえって居心地が悪い。織斗は身体を何度も動かしている。



「少し前のめりになるといい。それにしても、この場にそぐわないソファだな」



 何と答えるべきか迷う。



「美那子の兄ということだけで、自己紹介がまだだったな。鞍崎慶憲くらさきよしのりだ。縁があって私立響凛きょうりん学園高等学校の副理事長を務めている」



 失礼を承知で、織斗は思うままに言葉を口にしていた。



「鞍崎って、まさか、鞍崎凪柚なゆさんの」


「察しがよくて何よりだ。凪柚は私の」



 なぜか鞍崎はそこで切り、先を言いあぐねている。



「娘さんではないのですか。まさか、でも、そんなこと、あり得ない」



 織斗は自覚している。突拍子もないことを言っている。頭ではあり得ないことだとわかっている。感情がそれを許さない。



「織斗少年、凪柚は君が想像したとおり、私の娘ではない。では、いったい誰なのか」



 誰なのかと問われたところでわかるはずもない。心の中にある答えを頭がひたすらに否定してくる。ここで不毛な論議をするつもりはない。



「その前に私の質問に答えていただきたいです。娘さんでもない凪柚さんを、どうしてこの学校に転入させたのですか。鞍崎さんは副理事長だとおっしゃいました。その権力を行使すれば、転入など簡単なことでしょう」



 鞍崎は織斗を見直していた。



(感情がやや優先しているが、冷静さは失っていない。どうやら強くなっているようだな)



 優季奈が亡くなった直後の織斗は、見るにえなかった。たまらず暴言まがいの言葉も吐いた。その行為自体に後悔はないものの、少なくとも彼が優季奈に寄せる想いは本物だと感じた。



(親子の血は争えないな。縁とは不思議なものだな。今の織斗少年なら、もしかしたら)



「全てを私の口から語ることはできない。それがあの子、凪柚との約束だからだ」



 織斗は呼吸を整えると、鞍崎を見据えて一度だけうなづいてみせた。

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