第035話:対峙する綾乃と凪柚

 始業式から二週間が経過していた。週末からの大型連休突入を間近に控える教室は、どことなく緊張感が薄れている。


 織斗おりとは順調に回復の兆しを見せていた。声はもちろん、精神的にも落ち着いてきている。発声はところどころでぎこちなさが残るものの、日常会話において不自由はなくなった。



 常にそばにいてくれる綾乃あやの汐音しおんの影響が大きいのは間違いない。二人は影陽向かげひなたとなって、織斗のための助力を惜しまなかった。


 とりわけ、綾乃の献身的な支えは、冗談半分、やっかみ半分で「お前たち、いつから夫婦になったんだ」と、主に綾乃狙いの男子生徒たちから言われるほどの徹底ぶりだった。



 学校一の美少女とうたわれる綾乃の人気はすさまじい。しかも、上位三位以上の成績を入学以来ずっと維持している。


 ちなみに、私立響凛きょうりん学園高等学校で成績上位三位以内がどういうものかというと、最難関国立大学医学部現役合格が確実視されているレベルだ。そして、今の綾乃の第一志望は入学前とは異なり、医学部だったりする。



 昼休みも終わりに差しかかろうとしている。



「鷹科さん、変な噂は気にしなくていい。騒ぎ立てる奴らがいたら、俺が黙らせてくるから。それよりも勉強は順調なのか。ここしばらくの間、織斗につきっきりだっただろ」



 振り向いた汐音が急に真剣に語り出すから何事かと思えば、結局はそこに行き着く。綾乃はため息混じりに苦笑している。



「真泉君が強いのは知っているけど、暴力は反対だからね。それに放っておけばいいの。人の噂も七十五日しちじゅうごにちと言うでしょう。そのうち、どうでもよくなるから」



 あっけらかんと答える綾乃は、さらに言葉を継いだ。



「勉強は真泉君に心配されるほどじゃないよ。でも、次の中間は一年ぶりに逆転されるかもしれないね」



 この二週間、綾乃は過剰ともいえるほどに織斗につきっきりだった。


 そこには明確な理由がある。あれ以来、鞍崎凪柚くらさきなゆの存在が頭から離れてくれない。勉強に集中したくても、手がつかなかった。あの時の直感は今では正しいと確信している。



(彼女とは関わってほしくない。風向君にはあの子じゃなくて、私がいるもの)



「汐音の言うとおりだよ。鷹科さんに迷惑をかけられないし、俺もきちんと説明するから」



 織斗の言葉は流暢とまではいかずとも、少しだけゆっくりした早さで紡ぎ出されていく。



「私は全然迷惑じゃないよ。むしろね」



 そこから先は、言うのがはばかられた。どうしてなのか理由がわからない。


 綾乃はあれ以来、ずっと悩み続けている。このままではだめだと頭の中では理解している。高校生活最後のこの一年は、大学受験に向けて何よりも大切な時期だ。他のことにわずらわされている余裕などない。



(そんなことぐらいわかっているの。あの時に聞けなかったことが、今なら聞けるかもしれない。風向君に声が戻ったのだから)



 綾乃はわざとらしい笑みを顔に貼りつけて二人を見つめ、それからゆっくりと織斗の三つ後ろの席へ視線を動かした。



 綾乃の視線の先、鞍崎凪柚は一人着座したまま、半身の状態で窓の外を眺めている。



(鞍崎さんが来てからというもの、風向君の様子がずっとおかしい。二人の間に何かがあったことは容易に想像がつくけど、私には知るすべもない)



 織斗と凪柚、二人は互いに気づいていない。織斗の見えないところで凪柚は彼の姿を追っている。その逆もまたしかりだ。


 綾乃はそんな状況を歯痒はがゆい想いで眺めるしかできない。そして、汐音もまた三者三様の姿を見つめつつ、心を痛めていた。



 綾乃が見つめているのは凪柚の横顔だ。いかにも寂しそうに感じられるのはなぜだろう。


 始業式以来、凪柚が自ら進んで他者に話しかけている姿を見たことがない。少なくとも、話しかけられれば端的に答えはする。どちらかといえば、話しかけないでという雰囲気をかもし出していた。



 まだ四月なのに、初夏を思わせる陽気のせいで窓は全開だ。窓際に座る凪柚の斜め上方向から陽光が差し込んでいる。



「えっ」



 綾乃は小さな声をらし、息を呑んだ。



 柔らかな光は、凪柚の頭部から背中辺りまでを優しく照らし出していた。


 綾乃には確かに見えた。



「天使が」



 言葉にしてから、綾乃は慌てて目を何度もしばたたき、凪柚を見つめ直した。



(私、疲れているのよね。ここのところ寝不足だったし。きっと幻よね。そうに違いないわ)



 思考は当然のこととして否定するものの、感情はそうもいかない。そして、綾乃の零した言葉に織斗が反応しないわけがなかった。



 勢いよく身体を反転させ、凪柚に視線を固定した。



「そんな、あの時と」



 織斗にも綾乃と同じ姿が見えていた。


 言葉にならない。強く心が揺さ振られる。心の奥に封印していた感情が目を覚まそうとしている。



(優季奈ちゃんのいない灰色の世界に意味なんてないんだ。もう誰も好きにならない。そう決めたのに。どうして、どうしてこんなにも俺の心は乱れるんだ)



 立ち上がろうとした矢先、凪柚がゆっくりとこちらに視線を向けてきた。織斗は衝撃のあまり、息が詰まりそうになった。


 病院で初めて出逢った時のことが鮮明に蘇ってくる。凪柚の眼差しは、優季奈のそれと全く同じだった。



 動けなくなった織斗に代わって、綾乃が立ち上がる。椅子が強く引かれ、廊下をこする耳障りな音が鳴り響く。



鷹科たかしなさん」



 我に返った織斗に頷いうなづてみせると、凪柚に近づいていく。



風向かざむかい、いるか。いたら返事しろ」



 教室の扉を開けて、担任の磯神和奏いそがみわかなが慌てた様子で入ってくる。


 綾乃はいったい何をするつもりなのか。織斗は後ろ髪を引かれる思いで磯神に応えた。



「すぐに来てくれ。風向、お前に客人だ。ちょっと訳ありなんだ」



 客人、さらに訳ありと言われれば、行く気など起きるはずもない。


 何よりも今は綾乃が気になって仕方がない。既に綾乃は凪柚と向かい合い、こちらに聞こえないほどの小声で話しこんでいる。



「風向、急いでくれ。例の高級スーツなんだ」



 周囲の生徒たちが何のことだとばかりに怪訝けげんな表情を浮かべている。高級スーツは織斗にだけ通じる隠語だ。ようやく視線を磯神に転じる。磯神が頷いてくる。



「汐音、ごめん。鷹科さんを頼むよ」


「ああ、任せておけ。険悪な雰囲気だしな。何かあればすぐに割って入る」



 二人が同時に立ち上がり、それぞれの進むべき方向に歩を進めた。




「鞍崎さん、ちょっといいかな」


 綾乃が近づいて来ていることは凪柚も察していた。綾乃同様、凪柚もまた始業式以来、最も気になっていた女子生徒だったからだ。



「鷹科さん、私に何か用かな」



 感情を抑え、できるだけ平易な口調で答える。



 美少女二人が向き合う姿は、教室中の生徒から一身に注目を集めてしまっている。


 転入してきて以来、凪柚の評判は一気に広がった。とりわけ容姿に関しては、綾乃に匹敵するとさえ言われるほどだ。噂が噂を呼び、教室を訪れる他のクラスの生徒もひっきりなしだった。



「美少女二人が対面、まぶしすぎる」



 戯言たわごとを口にしている男子生徒たちを尻目に、修羅場ととらえている汐音は気が気でなかった。


 二人は先ほどから目に見えない火花を激しく散らしている。



(呑気のんきな奴らだ。何が美少女二人だよ。まあ、外見はそのとおりだけどな)



 汐音以外の生徒は興味津々、ぜひお近づきになりたい、という野次馬根性丸出しで遠くから眺めている。



「話があるの。ここでは何だから、私について来てくれる」



 有無を言わさぬ綾乃の言葉に、凪柚も負けじと反論を返す。



「どうしてここではだめなの。他の人たちに聞かせたくないことでもあるの」



(意外に勝気なのね)



 綾乃は決して凪柚をあなどっていたわけではない。彼女とはこれが初めて言葉を交わす機会だ。少しばかりやりにくさを感じる。だから、揺さぶりをかけてみることにした。



 凪柚の耳元にそっと顔を近づける。わずかに鼻腔びくうをくすぐる香りがした。



(何だろう、この香りは)



 今はどうでもいいことだ。綾乃はその想いを意識の外に追いやり、言葉をつむぎ出す。



「ええ、そうよ。だって風向君のことだもの。鞍崎さんも気になっているのでしょ」



 近づけた顔を離す。


 綾乃は凪柚の表情によぎった一瞬の変化を見逃さなかった。



(効果てき面ね)

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