第035話:対峙する綾乃と凪柚
始業式から二週間が経過していた。週末からの大型連休突入を間近に控える教室は、どことなく緊張感が薄れている。
常に
とりわけ、綾乃の献身的な支えは、冗談半分、やっかみ半分で「お前たち、いつから夫婦になったんだ」と、主に綾乃狙いの男子生徒たちから言われるほどの徹底ぶりだった。
学校一の美少女と
ちなみに、私立
昼休みも終わりに差しかかろうとしている。
「鷹科さん、変な噂は気にしなくていい。騒ぎ立てる奴らがいたら、俺が黙らせてくるから。それよりも勉強は順調なのか。ここしばらくの間、織斗につきっきりだっただろ」
振り向いた汐音が急に真剣に語り出すから何事かと思えば、結局はそこに行き着く。綾乃はため息混じりに苦笑している。
「真泉君が強いのは知っているけど、暴力は反対だからね。それに放っておけばいいの。人の噂も
あっけらかんと答える綾乃は、さらに言葉を継いだ。
「勉強は真泉君に心配されるほどじゃないよ。でも、次の中間は一年ぶりに逆転されるかもしれないね」
この二週間、綾乃は過剰ともいえるほどに織斗につきっきりだった。
そこには明確な理由がある。あれ以来、
(彼女とは関わってほしくない。風向君にはあの子じゃなくて、私がいるもの)
「汐音の言うとおりだよ。鷹科さんに迷惑をかけられないし、俺もきちんと説明するから」
織斗の言葉は流暢とまではいかずとも、少しだけゆっくりした早さで紡ぎ出されていく。
「私は全然迷惑じゃないよ。むしろね」
そこから先は、言うのが
綾乃はあれ以来、ずっと悩み続けている。このままではだめだと頭の中では理解している。高校生活最後のこの一年は、大学受験に向けて何よりも大切な時期だ。他のことに
(そんなことぐらいわかっているの。あの時に聞けなかったことが、今なら聞けるかもしれない。風向君に声が戻ったのだから)
綾乃はわざとらしい笑みを顔に貼りつけて二人を見つめ、それからゆっくりと織斗の三つ後ろの席へ視線を動かした。
綾乃の視線の先、鞍崎凪柚は一人着座したまま、半身の状態で窓の外を眺めている。
(鞍崎さんが来てからというもの、風向君の様子がずっとおかしい。二人の間に何かがあったことは容易に想像がつくけど、私には知る
織斗と凪柚、二人は互いに気づいていない。織斗の見えないところで凪柚は彼の姿を追っている。その逆もまた
綾乃はそんな状況を
綾乃が見つめているのは凪柚の横顔だ。いかにも寂しそうに感じられるのはなぜだろう。
始業式以来、凪柚が自ら進んで他者に話しかけている姿を見たことがない。少なくとも、話しかけられれば端的に答えはする。どちらかといえば、話しかけないでという雰囲気を
まだ四月なのに、初夏を思わせる陽気のせいで窓は全開だ。窓際に座る凪柚の斜め上方向から陽光が差し込んでいる。
「えっ」
綾乃は小さな声を
柔らかな光は、凪柚の頭部から背中辺りまでを優しく照らし出していた。
綾乃には確かに見えた。
「天使が」
言葉にしてから、綾乃は慌てて目を何度も
(私、疲れているのよね。ここのところ寝不足だったし。きっと幻よね。そうに違いないわ)
思考は当然のこととして否定するものの、感情はそうもいかない。そして、綾乃の零した言葉に織斗が反応しないわけがなかった。
勢いよく身体を反転させ、凪柚に視線を固定した。
「そんな、あの時と」
織斗にも綾乃と同じ姿が見えていた。
言葉にならない。強く心が揺さ振られる。心の奥に封印していた感情が目を覚まそうとしている。
(優季奈ちゃんのいない灰色の世界に意味なんてないんだ。もう誰も好きにならない。そう決めたのに。どうして、どうしてこんなにも俺の心は乱れるんだ)
立ち上がろうとした矢先、凪柚がゆっくりとこちらに視線を向けてきた。織斗は衝撃のあまり、息が詰まりそうになった。
病院で初めて出逢った時のことが鮮明に蘇ってくる。凪柚の眼差しは、優季奈のそれと全く同じだった。
動けなくなった織斗に代わって、綾乃が立ち上がる。椅子が強く引かれ、廊下を
「
我に返った織斗に
「
教室の扉を開けて、担任の
綾乃はいったい何をするつもりなのか。織斗は後ろ髪を引かれる思いで磯神に応えた。
「すぐに来てくれ。風向、お前に客人だ。ちょっと訳ありなんだ」
客人、さらに訳ありと言われれば、行く気など起きるはずもない。
何よりも今は綾乃が気になって仕方がない。既に綾乃は凪柚と向かい合い、こちらに聞こえないほどの小声で話しこんでいる。
「風向、急いでくれ。例の高級スーツなんだ」
周囲の生徒たちが何のことだとばかりに
「汐音、ごめん。鷹科さんを頼むよ」
「ああ、任せておけ。険悪な雰囲気だしな。何かあればすぐに割って入る」
二人が同時に立ち上がり、それぞれの進むべき方向に歩を進めた。
「鞍崎さん、ちょっといいかな」
綾乃が近づいて来ていることは凪柚も察していた。綾乃同様、凪柚もまた始業式以来、最も気になっていた女子生徒だったからだ。
「鷹科さん、私に何か用かな」
感情を抑え、できるだけ平易な口調で答える。
美少女二人が向き合う姿は、教室中の生徒から一身に注目を集めてしまっている。
転入してきて以来、凪柚の評判は一気に広がった。とりわけ容姿に関しては、綾乃に匹敵するとさえ言われるほどだ。噂が噂を呼び、教室を訪れる他のクラスの生徒もひっきりなしだった。
「美少女二人が対面、
二人は先ほどから目に見えない火花を激しく散らしている。
(
汐音以外の生徒は興味津々、ぜひお近づきになりたい、という野次馬根性丸出しで遠くから眺めている。
「話があるの。ここでは何だから、私について来てくれる」
有無を言わさぬ綾乃の言葉に、凪柚も負けじと反論を返す。
「どうしてここではだめなの。他の人たちに聞かせたくないことでもあるの」
(意外に勝気なのね)
綾乃は決して凪柚を
凪柚の耳元にそっと顔を近づける。わずかに
(何だろう、この香りは)
今はどうでもいいことだ。綾乃はその想いを意識の外に追いやり、言葉を
「ええ、そうよ。だって風向君のことだもの。鞍崎さんも気になっているのでしょ」
近づけた顔を離す。
綾乃は凪柚の表情によぎった一瞬の変化を見逃さなかった。
(効果てき面ね)
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