第034話:変わっていく悪夢と凪柚の想い

 その日の夜だ。織斗おりとはまたあの夢を見た。


 しくも河原崎が言ったとおりになった。一つの転機を迎えたのだろう。悪夢の内容が少しだけ変化している。



 優季奈ゆきなが静かに息を引き取るところまでは一緒だ。次の瞬間、場面が切り替わる。


 織斗は今の姿で、小高い丘の上に立っていた。月の光が静かに降り注ぐ中、咲き誇る神月代櫻じんげつだいざくらがこちらを見下ろしている。



 ところどころで五枚花弁の花びらがれて輝いている。流れゆく風が、花びらに積もった水滴を優しく散らしながら、さらに織斗のほおをそっとでていく。



 振り返った織斗のやや前方だ。



 一緒に見たかった、一緒に時を過ごしたかった少女が、優季奈がそこにいた。



 必死に名前を呼ぶ。声は確かに戻ったはずだ。それなのに声にならない。織斗は喉が枯れんばかりに叫ぶ。それでも声は出ない。



「織斗君、私を、どうか見つけてね」



 寂しさと、わずかに期待のこもった瞳が印象的だった。


 かすみに包まれかのように、桜のはかなげな花びらが優季奈を覆い隠していく。織斗は懸命に腕を伸ばす。



(待って、優季奈ちゃん。聞きたいことが山ほどあるんだ)



 声にならない言葉を心の中で必死に叫ぶ。


 もう少しで手が届く。優季奈が微笑んだように見えた。それはあの時に見た、天使の微笑みそのものだ。



 つかまえた。そう思った瞬間、織斗の指先は空を切っていた。



(俺の、天使は)



 匂いなどないはずの織斗の部屋に、懐かしいあの香りがかすかに漂っていた。



◇◇ ◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇ ◇◇



 織斗が両親と団欒の時を過ごしているその時間、鞍崎凪柚くらさきなゆもまた自宅で両親を前にしていた。団欒と呼ぶにはほど遠い。帰宅してからというもの、凪柚の顔は苦痛に歪んだままだ。



「お父さん、お母さん、ごめんなさい」



 その言葉に全ての想いが凝縮されている。今朝の顛末てんまつは両親に話し終えている。凪柚は早くも後悔しそうになっていた。



「私、やっぱり、ここにいたらいけなかったんだ」



 たまらず駆け寄ってきた母に抱きすくめられる。肩を震わせて涙する凪柚は、母の胸に顔を埋めた。



「お願いだから、そんなことを言わないで。私もお父さんも全てを受け入れる。そう決めたの。たとえ、あなたがどのような存在であろうとも」



 母の温もりが伝わってくる。触れたくても触れられなかった母を今、間近に感じている。凪柚は心が引き裂かれるような想いの中、たまらなく嬉しかった。



(もうこれだけでもいい。私の我がままでお母さん、お父さん、叔父さん、何よりも)



 傷つけてしまった。こんなはずではなかった。凪柚の想像とは真逆のことが起こってしまっている。



 凪柚は今朝起こったことを改めて思い出していた。


 教室に入る前から、極度の緊張に見舞われている。これは夢じゃないんだ。現実なんだ。私を覚えてくれているだろうか。


 幾分かの淡い期待を抱きながら、震える手を何とか宥め、ゆっくりと教室の扉を開けた。


 興味津々といった生徒たちの顔がいっせいに向けられる。注目されるのは苦手だ。それも気にならなかった。


 凪柚の視線はただ一人だけに注がれている。すぐに彼だとわかった。三年という歳月はあまりに長い。もしかしたら、わからないかもしれない。杞憂きゆうだった。


 顔が赤くなっていないだろうか。凪柚は努めて冷静さを保ちながら、担任の磯神に促されるままに転入の挨拶を手短に済ませた。



(私の心臓、今にも飛び出しそうなほどにどきどきしている)



 教室に集った生徒たちの顔をゆっくりと見渡していく。凪柚にとって、それは心を落ち着かせるために所作にすぎない。ただ一人をもっとよく見ていたい。そのためだけの行動でもあった。



 ある一点で視線が止まる。


 不自然にならないように注意を払いながらも、このまま動かしたくない。凪柚は強く想う一方で、先ほどから異様な雰囲気を感じ取っていた。



「う、嘘、だ。彼女は、君は、誰、なんだ」



 途切れ途切れの咆哮ほうこうにも似た叫声が教室内に広がっていく。凪柚は自分の耳を疑うしかなかった。



(ど、どうして、私だよ。なぜ気づいてくれないの)



 すぐにでもそばまで駆け寄りたい。それはできない。凪柚自身からは決して触れられない。触れてはいけない。定められた摂理せつりを破ってしまえば、そこで全てが終わってしまう。



 すぐさま前の席の男子、右横の席の女子に担がれて教室から出ていく。三人の関係がとても親密そうに感じられて、胸が苦しくなった。凪柚にはその後ろ姿をただただ黙って見送るしかできない。



(あの子、きっと)



 唯一、印象に残った女子生徒がいる。彼女だけが自身の視線がどこを向いているのか気づいていた。そして、自分に対しては明らかに敵視にも似た視線を向けてきていた。



 思春期の三年間だ。過ぎ去った歳月は途方もなく貴重に違いない。好きな人ができていたとしても何ら不思議ではない。



(あの子が彼女なの。いやだ、絶対にいやだ。そんなこと、考えたくもないよ)



 心臓を鷲掴わしづかみにされたかのように、胸が痛くてたまらない。


 一見何もないように見えて、呆然ぼうぜんと立ち尽くす凪柚は、担任の呼びかけにもしばらく反応できなかった。ようやくのこと、指示された窓際の最後列まで移動し、どうにか着席する。


 同時に周囲の生徒たちが興味深げに声をかけてくる。歓迎してくれているであろう彼らの声は、今の凪柚にとって、ただの雑音でしかなかった。全く耳に入ってこない。気持ちが完全に別の方向へと彷徨さまよっている。



 出ていった女子と男子が戻ってくるまで、およそ三十分だっただろうか。凪柚には永遠にも感じられるほどに長かった。


 その間、代わる代わる声をかけてくる生徒たちに、悪いとは感じながらも、上の空で言葉を返していった。愛想笑いを浮かべるだけの自分が心底いやだった。


 中には織斗との関係を聞いてくる者もいた。そこは知らぬ存ぜぬで押しとおした。実際のところ、この三年間のことは何一つ知らないのだ。



 二人が教室に戻ってきて、それぞれの席に着く。凪柚の目は、入って来た時から二人を追い続けている。凪柚の三つ前が男子、つまり汐音しおんの席だ。二つ前の織斗のすぐ右横が女子、つまり綾乃あやのの席だった。


 二人は着席するなり顔を近づけて何やら話を始めた。神妙な顔つきをしている。



(何を話しているのか気になる。それよりも、それよりも大丈夫なの)



 聞きたくても聞けない。凪柚にはそこまでの勇気もなかった。


 話を終えた二人がうなづき合って、突き合わせ状態になっていた顔が離れる。前を向く直前だ。男子が一瞬視線をこちらに傾けた。彼の視線は、まるで憎い敵を見るかのようだった。それは確実に凪柚の心をえぐっていった。



(どうして、どうしてそんな目で私を見るの。あんなことが起こったのは私のせいだとでも言うの)



 凪柚は一刻も早くこの教室から逃げ出したかった。



(なぜ、なぜなの。私、こんなことがしたくて三年間も。私、どうしたらいいの。もうわからないよ)



 その後のことははっきりと覚えていない。しばらくして担任の磯神も戻り、両親が迎えに来ている、と告げられた。息が詰まる教室をようやく後にできる。凪柚は挨拶もそこそこに、両親と共に帰宅の道を急いだ。




「あなたはどうしたいの。逢って心の想いを伝えたい。その一心で帰ってきたのでしょう。ここで早々に諦めてしまうつもりなの。あなたの想いはその程度のものだったの」



 母が凪柚を抱きしめたまま問いかけてくる。


 答えは決まっている。それが正しいかどうか、凪柚には判断がつかない。自分の気持ちを一方的に押しつけてしまうのではないか。考えれば考えるほど泥沼に沈みこんでいく。



「本当の私を見つけてほしい。とても難しいことだとわかっているの。さらに苦しめてしまうこともわかってるの。でも、少しでも長く、一緒にいたい。だって、私は」



 我がまますぎる願いなのだろうか。願うことすら許されないのだろうか。今すぐにでも自分の口から真実を告げたい。それが無理なことも承知している。



「世の中、願いが叶わないことの方が圧倒的に多いんだ。そんな中で私たちの娘は、たとえ条件があるとはいえ、こうして帰ってきてくれたんだ」



 先ほどから黙ったままの父がようやく口を開く。



「だから、お前の願いは全て叶えよう。そのためなら、お父さんもお母さんも協力は惜しまない。お前はお前の望む精一杯のことをすればいい」



 父の言葉に勇気づけられたのか、凪柚は恥ずかしそうに母の胸から離れた。



「お父さん、ありがとう。私、頑張るから。応援してね」

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