第033話:風向家の止まっていた時間

 ようやく帰宅した織斗おりとを母の沙織さおりが迎えてくれた。



「おかえり」



 短く、取るに足らない、どこの家庭でも行われている挨拶だ。


 たった四文字の言葉に、母の深い愛が詰まっている。この三年間、沙織は何事も変えることなく、普段どおりにもの言わぬ息子を見守り続けてきた。



 あの時、沙織もまた将来の宝物を失ってしまった。それは気の早すぎる想いだったかもしれない。


 きっと優季奈と織斗は結ばれ、幸せな家庭を築いてくれるに違いない。確信めいたものが沙織にはあったのだ。それが無残にも砕け散ってしまった。あれ以来、沙織の心も一部が欠けたままで、未だに隙間は埋まらない。



「それよりも大丈夫なの。学校から連絡があったのよ。心配していたのよ」



 織斗はうなづくとともに素直に頭を下げる。



「ただ、いま。お母、さん。もう、大丈夫、だから」



 いかなる時も冷静さを失わない沙織が、衝撃のあまり、息さえ忘れるほどに固まってしまっている。自然と熱いものがこみ上げてくる。今すぐにも決壊しそうなほどに。



「織斗、声が、声が戻ったのね」



 それ以上、言葉にできない。こぼれ落ちる涙をぬぐおうともせず、沙織の口から小さな嗚咽おえつれている。



「まだ、うまく、出ない。でも、やっと、戻った」



 息子を抱きしめる。


 三年前と異なる点は二つだ。一つは背丈が逆転してしまったことで、今では織斗の方が二十センチメートルほど高い。


 もう一つは声質だ。中学校二年生の声変わり前の高音ではない。少しばかり落ち着きを感じさせる中音の声は、織斗の姿からはいささか想像しがたい。



「織斗が大人になったということなのね。いい声をしている」



 沙織のなすがままになっている織斗は、恥ずかしいながらも一切抵抗しない。


 この三年間、いったいどれほどの苦労をかけてきたことか。泣き言など一切言わず、常に大きな愛で包んでくれた母には感謝してもしきれない。無論、それは父親に関しても同様だ。



「心配、迷惑、たくさんかけた。お母さん、いつも、ありがとう」




 ようやく落ち着いた沙織と織斗は、リビングルームで父親の帰宅を待っている。



「詳しい話はお父さんが帰ってきてからじっくり聞くとして。そんなことがあったのね」



 織斗がたどたどしく語った話の節々をとらえても、沙織にはほとんど消化できなかった。



 一度死んだ人間が蘇るなどあり得ない。誰もが知る常識の一つだ。ここは現実、おとぎ話の世界ではない。


 考えられるとすれば、他人の空似か、あるいは親類縁者の一人か。後者の可能性は限りなく低いだろう。


 沙織は優季奈の母の美那子みなこと今でも繋がりを保っている。お互いによき相談相手として、何でも話ができる間柄だ。美那子の口から同じ年頃の親戚がいるなど、一度も聞いたことがない。



「織斗はその転入生、鞍崎凪柚くらさきなゆさんをどう見たの。どう感じたの」



 母の問いかけに織斗は黙って首を横に振る。しばらく考えこんでから口を開く。



「もし、彼女だったら、どれだけ、嬉しいか。でも、もう」



 亡くなっている。その言葉を口にするのがひどく恐ろしい。あり得ない奇跡を信じたい。一縷いちるの望みさえなくても、心のどこかで願っている自分がいるのは確かだった。



 玄関のチャイムが鳴る。



「お父さん、びっくりするわね。きっと腰を抜かすわよ」



 茶目っ気を見せる母に、織斗は苦笑を浮かべながらも、ほがらかな気持ちが湧き上がってくる。



 三年前のあの出来事をきっかけに、まるで時が止まったかのようだった風向家の時間が再び動き出した。織斗はそのことを実感している。




 父の利孝としたかがリビングルームに入ってきた。



「ただいま」



 これもまた日常の何げない会話だ。



「おかえり。今日もお仕事、ご苦労様」



 母の沙織がいつもと変わらない言葉を返す。



「織斗もいたのか。そうか、今日は始業式だったな。もう高校三年生か。早いものだな」



 普段は織斗の方が帰宅時間が遅い。


 私立響凛きょうりん学園高等学校では授業が終わった後も、受験対策として、それぞれの能力に応じた特別講習が毎日行われている。いわば、学校が塾を開設しているようなものだ。ほぼ全ての生徒が何かしらの講習に参加している。織斗も例外ではなかった。



 利孝は地元の県庁に務める公務員で上級管理職を務めるものの、基本的には定時上がりだ。特別な残業日以外は概ね十九時過ぎには自宅に到着している。



「おか、えり、お父、さん」


「ああ、ただいま、織斗、って、えっ、ええええ」



 利孝は自身が突拍子もない声を上げたことにさえ気づいていない。目を大きく見開いたまま、腰が砕けるようにしてその場に座り込んでしまった。



「ね、ほら、言ったとおりでしょ」



 魂でも抜けてしまったのか。利孝は腑抜ふぬけた表情を浮かべたまま、呆然唖然ぼうぜんあぜんとしている。目だけがせわしげに沙織と織斗の間を行ったり来たりしている。



「びっくりしたよ。いやはや、そんな単純な言葉では片づけられないな」



 何とも感慨深い。しみじみとこの三年間を思い返している利孝に、沙織が発破はっぱをかける。



「ほらほら、お父さん、いつまでもへたりこんでいないで、さっさと立ち上がって」



 風向家で最も力を持つのは母の沙織だ。これは織斗が生まれた時から変わらない。俗に言えば、尻に敷かれている、敷かれっぱなしということだ。



 ようやく立ち上がった利孝が沙織に、はい、これ、とばかりに紙袋を差し出した。怪訝けげんな表情のまま受け取った沙織が、袋の中をのぞきこんで確かめている。



「あら、お父さんにしては珍しく、気が利くわね。どうしたの。まさか、この日を予感して買った、というわけではなさそうだけど」



 ひらひらと手を振りながら、利孝は同僚からのいただきものだと告げる。何でも祝い事のお裾分すそわけらしい。



「さすがに予感なんてできないよ。それにしても、こんな日が訪れるとはなあ。まさしく感無量だよ。よかったな、織斗。本当によかった」



 利孝の慈愛に満ちた目が織斗に注がれる。風向家の親子関係は、優季奈の死をきっかけに一時期はぎくしゃくしたものの、概ね良好と言えるだろう。


 織斗は昔から母よりも父に懐いていた。一般的に、子供は父よりも母に懐くことが多い。風向家は両親の力関係も影響しているのか、逆転している。



「心配、かけて、ごめん、なさい」



 頭を下げる織斗を見て、利孝は何度も首を横に振っている。



「頭を上げなさい。お母さんもお父さんも織斗に声が戻ることを心から願っていた。それが叶ったんだ。こんなに喜ばしいことはないよ」



 自然と嬉しさがこみ上げてくる。風向家の一家団欒だんらんはこの三年間、言葉ではなく、手話を通じての会話が主だった。それが今日からは、再び言葉が主になる。これを祝わない手はない。



「せっかくだから、いただきましょうよ。お祝いにはもってこいだものね」



 紙袋から取り出した赤飯のパックはちょうど三個だ。テーブルに並べてから、沙織がお茶の用意をしに台所へと向かう。利孝と織斗がそのまま椅子に座ろうとしたところを目敏めざとく見つけた沙織が一喝する。



「お父さんはテーブルきよ。織斗はこっちに来て運ぶのを手伝いなさい」



 いつもと変わらない風向家、仕切っているのはやはり沙織だ。



 母強し。



 実感する利孝と織斗は互いに顔を見合わせ、苦笑いするしかなかった。

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