第032話:織斗と鞍崎凪柚の関係
運び込まれてから小一時間、
「
磯神の声を受けて、嘱託医の河原崎達哉がゆっくりと立ち上がる。
「風向さん、気分はどうですか」
まだ状況が整理できていないのか、織斗は黙ったままだ。
河原崎は近寄ると、聴診器を織斗の胸に、とりわけ心臓に念入りに当てながら状態を確かめていく。問題ないことを確認するや
「風向さん、今日は疲れたでしょう。後日、改めて詳しい話を聞かせてもらうとして、一つだけ質問です」
見つめてくる河原崎の目は、まさしく医師特有のそれだ。織斗はこれまで幾度となく同じ目を見てきている。柔和な表情とは裏腹、内面まで見透かすかのように研ぎ澄まされている。
「転入生の
やはり鞍崎凪柚のことか。いきなり核心を突いてくる。
織斗にとって、河原崎は信頼できる大人の一人だ。嘱託医として赴任して以来、この一年間で精神的なケアを含めて何度も世話になっている。
一年生の時からの担任である磯神和奏も同様だ。何かにつけて織斗に気を配ってくれている。もちろん、声を失ったという特殊な事情もあるだろう。
「よく、わかりません。教室に、入って来た、彼女を、見て、知っている、そう、感じました」
三年間、ひと言も発せられなかった影響は大きい。ゆっくりと一つ一つの言葉を吐き出していく。頭で考えてから、それを言葉に置き換えなければならない。もどかしい限りだ。
「ただの、直感、です。でも、彼女の、名前、知らない、です」
河原崎は
(もう一度逢いたい。絶対に叶わない。ずっと夢だったのに。もしかしたら)
織斗はたまらず右手で目を覆っていた。涙はない。とうの昔に枯れ果ててしまっている。気持ちの整理がつかない。
磯神は声をかけるべきか迷って、目の前に立つ河原崎を見上げる。彼はただ首を横に振るだけだった。
(悔しいな。こんな時、
河原崎はまるで娘を見守るかのように磯神に視線を向けている。優しさをたたえた
「風向さん、直感とは案外正しいものなのですよ。きっとどこかに通じるもの、感じるものがあったのでしょう。だからこそ直感が反応したのです」
織斗からの返答はない。相変わらず目を覆ったままだ。
「落ち着いたら、教室に戻っても結構ですよ。磯神先生、あとはお願いしますね」
簡単にお願いしますと言われても困る。磯神は、この場から去ろうとする河原崎を慌てて呼び止める。
「河原崎先生、教室に戻ってからどうしたらよいでしょうか。私、医学的なところは全くわからなくて」
河原崎に抜かりはない。軽く左手を上げて応えると、あらかじめ用意していたメモ書きを手渡す。全部で四枚ある。
「一番上が磯神先生、次の二枚は
丁重に受け取った磯神が深く頭を下げる。
「河原崎先生、大変助かります。本当にありがとうございます」
笑みを浮かべながら
「風向さん、よかったですね。失っていた声をようやく取り戻しました。失声症は克服したと言ってもよいでしょう」
織斗は勢いよく半身を起こすと、こちらを見つめている河原崎に視線を合わせた。
まだまだ思考は追いつかない。このまま寝ていたところで何の解決にも繋がらない。確かめなければならないことが一気に増えてしまった。
「一つの転機です。この先、何が起こるかわかりませんが乗り越えていってください。あなたには、いえ、この学校の生徒たちには大きな可能性が、未来があります。期待していますよ」
それだけ言い残すと、河原崎は保健室を出ていった。大きめの鞄を手にしていたことから、今日はもう戻らないのだろう。
(未来、か。でも、俺は未来じゃなく、過去がほしい)
磯神が声をかけてくる。
「力になれなくて済まないな。もう動いても大丈夫なのか」
心から心配してくれている。その気持ちが織斗には何よりも嬉しい。
「先生、ありがとう、ございます。俺は、大丈夫、です」
これが精一杯だ。何しろ三年にもわたって一声も出せなかった。今は時が解決してくれるのを待つだけだ。
「風向、今日はこのまま帰宅しても構わないぞ」
河原崎から受け取ったメモの四枚目を織斗に手渡す。
「これを読んでから決めればいい」
お互いにじっくりと目を通す。生活上の注意点の他、避けるべき事柄などが細かく書かれている。
「先生、鞍崎、さんは」
目を上げた磯神が何とも言えない表情で答える。
「今日は転入の挨拶だけで終わりだよ。早々に両親が迎えに来て、連れて帰ってしまった」
明らかに不機嫌な口調だ。
「不満、ですか」
苦笑を浮かべた磯神が、よくぞ聞いてくれたとばかりに食いついてくる。
「当たり前じゃないか。鞍崎の転入話、私がいつ聞いたか知ってるか」
知るはずがないでしょう。喉元まで出かかっていた言葉を呑み込む。
「昨日だよ。いきなり校長室に呼び出されて、転入生を一人受け入れるから面倒見ろって告げられた」
何度となく首を
「先生、怒って、ますか」
まだ何か吐き出したがっていそうな磯神に、気を利かせたのだろう。大人の
「風向にだけ話しておくよ。何だかきな臭い話なんだよな。校長室には、校長以外にもう一人いてね。高級スーツがよく似合いそうな男だった。まあ実際に着ていたんだけど」
その時の様子を思い出しているのか、磯神の顔が
「その男、用件だけを告げると早々に帰ってしまった。それが何とも偉そうでさ。校長なんて、米つきバッタみたいに頭を下げっぱなしだよ。風向にも見せてやりたかったな」
ほくそ笑んでいる。話が別の方向に反れていく。時折見せる磯神の悪い癖だ。
「先生、話、脱線」
慌てて軌道修正、声の調子を一段以上も抑えて磯神が続ける。
「あとから校長を問い詰めてわかったんだが。鞍崎は特例中の特例扱いのようだ。編入試験も受けていない。お偉いさんの鶴の一声で決まったらしい。学力は申し分ないらしく、校長も承知せざるを得なかったみたいだな」
磯神の不平不満の理由はこれだったのか。
織斗はじっくり吟味しつつ、鞍崎凪柚に対する興味がさらに
私立の学校ならば大なり小なり、超法規的な入学も認められるだろう。校長でさえ頭が上がらない、それこそ理事長に匹敵するような大物関係者が口を聞けば、
「風向、鞍崎には注意した方がいいだろう。お前が立ち上がった際に彼女の様子を横目で見たんだが、どうも彼女はお前を知っているような気がする。河原崎先生もそう考えているんじゃないかな」
磯神が立ち上がる。
始業式は基本的に授業を行わないため、担任の責任は重い。織斗が回復した以上、生徒たちを長々と待たせておくわけにもいかない。
「私は教室に戻るよ。風向はどうする」
即答だった。
「俺も、先生と、一緒に」
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