第031話:河原崎達哉医師

 保健室のベッドに横たわる織斗おりとが苦しそうにうめき声を発している。


 その様子を不安げに見つめる綾乃あやのは、今しがたの教室での出来事を思い返していた。



(風向かざむかい君、あの子が入って来た時から様子が変だった。風向君の目、怖かった。あんなの初めて見たよ。それにあんな声をしてたんだ)



 幾重もの複雑な感情が千々ちぢに乱れ、どう収拾をつけてよいのかわからない。綾乃が見るまでもなく、織斗は明らかに苦しんでいた。



(あの子、いやだな。私、きっと好きになれない)



 自己紹介が終わった鞍崎凪柚くらさきなゆは、生徒たちの顔を見回していった。一人一人の顔を確認するかのごとく、じっくりと、それでいながら見ているようで見ていない。綾乃には、いかにも意図的な行為に感じられた。



(でも、風向君を見たその時だけは違っていた。そうじゃないわ。あの子、風向君しか見ていなかった。私にはわかるもの)



 鞍崎凪柚にどういった意図があったのか。他人の綾乃が考えたところで、答えが見つかるわけではない。綾乃はかぶりを振ると、再び意識を織斗に向ける。



「先生、風向君は大丈夫でしょうか」



 問いかけた先は河原崎達哉かわらざきたつや医師だ。担任の磯神和奏いそがみわかなから連絡を受けていたのだろう。運びこむなり、診察、処置を速やかに行ってくれた。



 私立響凛きょうりん学園高等学校では、嘱託医しょくたくいとして現役医師に保健室業務を担ってもらっている。任期は二年間の有期限で再任はない。


 余談になるが、莫大な報酬が約束されているとのまことしやかな噂も流れるほどに、嘱託医の競争率は高いらしい。



 物腰の柔らかな河原崎は、白衣の上からでもわかるほどに出っ張った下っ腹をでながら、ディスプレイからこちらに顔をのぞかせた。



「ええ、もう大丈夫ですよ。一時的に大きなストレスにさらされたため、自己防衛機能が働いたのです。安静にしておけば回復するでしょう。若いですからね」



 好々爺然こうこうやぜんとして、実のところ年齢不詳だ。四十代に見える時もあれば、六十代に見える時もある。河原崎は謎に包まれた医師だった。



鷹科たかしなさん、真泉まいずみさん、先ほどのお話ですが、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか」



 大きな湯呑ゆのみに入れた日本茶を美味しそうに飲みながら、河原崎が真剣な目を向けてくる。もちろん、二人の前にも日本茶が供されている。



「詳しくと言われても、既にお伝えした以上のことは何も」



 お茶をひと口含み、困惑したように言葉を返す汐音しおんに同調したのか、綾乃も小さくうなづいている。



「人の記憶ほど曖昧なものはありません。直前のことであってもね。人は無意識のうちに、ある種の先入観にとらわれているのですよ」



 二人が言葉の意味を呑み込むまで待つ。



「それは俗に言う、バイアスがかかるというものでしょうか」



 綾乃の問いかけに河原崎が首を縦に振る。日本茶で喉をうるおすと、映し出していたディスプレイに再び目を向けた。



(風向織斗君、あなたとは不思議な縁とでも言いましょうか、私の嘱託最後の年にこのようなことになるとは。しばらく忙しくなりそうですね)



 そこには織斗の電子カルテが表示されている。キーボードに手をかけた河原崎は、準備が整ったであろう綾乃と汐音に視線を移した。



「私から鷹科さん、真泉さんに質問していきます。深く考えず、思ったままに答えてください。主観、客観、いずれの考えでも結構ですよ。ただし、嘘だけはまじえずにね」



 それからおよそ三十分が経過した。


 手を変え品を変え、巧みに質問を繰り出してくる河原崎に翻弄ほんろうされつつ、綾乃と汐音は全ての質問に何とか答えを返した。



「長時間、お疲れ様でしたね。お二人が的確に答えてくれたおかげで、だいたいは把握できました。埋められない部分は、風向さんが回復したら、ご本人の口から聞くとしましょう」



 実のところ、二人からしてみれば、的確に答えられたかどうかよくわからない。



「俺も鷹科さんも、正確に答えられたのか自信がありません。これでよかったのでしょうか」



 柔和な笑みをもって河原崎が頷いてくる。



「お二人は真剣に自分自身の言葉で答えてくれました。嘘はありませんでした」



 二人の目をじっと見つめる。反応が好対照だ。



「こう見えて、私は現役医師ですからね。今までに数多くの患者さんを診てきています。嘘を言っているかどうか、簡単に見抜けるのですよ」



 汐音は素直に感嘆の表情を浮かべている。逆に綾乃は半信半疑だ。



「それにです。お二人が嘘をつくメリットなど、どこにもないでしょう。違いますか、鷹科さん」



 本当に見抜かれていた。まるで心の中を見透かされてしまったかのようだ。綾乃は決して嘘はついていない。言いたくなかった部分を言わなかった。質問に答えなかった。それだけだ。



「責めているわけではありませんよ。人間、言いたくないことなど山ほどあります。ただし、言葉を発すべき最適な時というものがあるのです。それを見誤らないでください」



 河原崎の言葉は抽象的すぎて、綾乃はもちろんのこと、汐音にも理解できない。


 それでよかった。河原崎は綾乃と汐音が優秀な生徒であることを知っている。二人ならば、早い段階で自発的な論理的思考力をもって正しく答えを導き出すだろう。



「鷹科さん、真泉さん、私からのお願いです。風向さんは近い将来、再び大きな壁に立ち向かうことになるでしょう。その時、お二人の力が必要になってきます。最後まで寄り添ってあげてください」



 軽く頭を下げてくる河原崎に、二人は慌てて言葉をつむいだ。



「先生、俺たちに頭を下げないでください。むしろ、俺たちの方から頭を下げないといけないぐらいですから」



 汐音の後を引き取って、綾乃が続ける。



「私たちはこれからも風向君と一緒です。たとえ、どんなことが起こったとしても、絶対に見放したりしません。それだけは断言できます」



 綾乃の目が横にいる汐音に向けられる。当然だとばかりに首を縦に振る汐音が最後の言葉を発した。



「俺たち三人はどんなことがあろうとずっと一緒です。俺にとっても、鷹科さんにとっても、織斗は掛け替えのない親友ですから」




 しばらくの談笑の後、綾乃と汐音は教室に戻っていった。




 眠ったままの織斗の呻き声は既に収まっている。胸の上下動も安定してきている。



「風向さん、あなたを苦しめているトラウマは、いったい何なのでしょうね。やはり」



 失っていた声はようやく戻ってきた。かかえているPTSD(心的外傷後ストレス障害)は未だに克服に至っていない。



 河原崎は思い立ったかのように、白衣のポケットからスマートフォンを取り出すと、数年来使っていない、それでいて懐かしい番号に電話をかける。


 コール音が鳴り響く。一分ほど待たされた後、ようやく繋がった。



「大変お待たせいたしました。鳳翼ほうよく総合医療センター受付でございます。ご用件を承ります」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る