第031話:河原崎達哉医師
保健室のベッドに横たわる
その様子を不安げに見つめる
(
幾重もの複雑な感情が
(あの子、いやだな。私、きっと好きになれない)
自己紹介が終わった
(でも、風向君を見たその時だけは違っていた。そうじゃないわ。あの子、風向君しか見ていなかった。私にはわかるもの)
鞍崎凪柚にどういった意図があったのか。他人の綾乃が考えたところで、答えが見つかるわけではない。綾乃は
「先生、風向君は大丈夫でしょうか」
問いかけた先は
私立
余談になるが、莫大な報酬が約束されているとのまことしやかな噂も流れるほどに、嘱託医の競争率は高いらしい。
物腰の柔らかな河原崎は、白衣の上からでもわかるほどに出っ張った下っ腹を
「ええ、もう大丈夫ですよ。一時的に大きなストレスに
「
大きな
「詳しくと言われても、既にお伝えした以上のことは何も」
お茶をひと口含み、困惑したように言葉を返す
「人の記憶ほど曖昧なものはありません。直前のことであってもね。人は無意識のうちに、ある種の先入観に
二人が言葉の意味を呑み込むまで待つ。
「それは俗に言う、バイアスがかかるというものでしょうか」
綾乃の問いかけに河原崎が首を縦に振る。日本茶で喉を
(風向織斗君、あなたとは不思議な縁とでも言いましょうか、私の嘱託最後の年にこのようなことになるとは。しばらく忙しくなりそうですね)
そこには織斗の電子カルテが表示されている。キーボードに手をかけた河原崎は、準備が整ったであろう綾乃と汐音に視線を移した。
「私から鷹科さん、真泉さんに質問していきます。深く考えず、思ったままに答えてください。主観、客観、いずれの考えでも結構ですよ。ただし、嘘だけは
それからおよそ三十分が経過した。
手を変え品を変え、巧みに質問を繰り出してくる河原崎に
「長時間、お疲れ様でしたね。お二人が的確に答えてくれたおかげで、だいたいは把握できました。埋められない部分は、風向さんが回復したら、ご本人の口から聞くとしましょう」
実のところ、二人からしてみれば、的確に答えられたかどうかよくわからない。
「俺も鷹科さんも、正確に答えられたのか自信がありません。これでよかったのでしょうか」
柔和な笑みをもって河原崎が頷いてくる。
「お二人は真剣に自分自身の言葉で答えてくれました。嘘はありませんでした」
二人の目をじっと見つめる。反応が好対照だ。
「こう見えて、私は現役医師ですからね。今までに数多くの患者さんを診てきています。嘘を言っているかどうか、簡単に見抜けるのですよ」
汐音は素直に感嘆の表情を浮かべている。逆に綾乃は半信半疑だ。
「それにです。お二人が嘘をつくメリットなど、どこにもないでしょう。違いますか、鷹科さん」
本当に見抜かれていた。まるで心の中を見透かされてしまったかのようだ。綾乃は決して嘘はついていない。言いたくなかった部分を言わなかった。質問に答えなかった。それだけだ。
「責めているわけではありませんよ。人間、言いたくないことなど山ほどあります。ただし、言葉を発すべき最適な時というものがあるのです。それを見誤らないでください」
河原崎の言葉は抽象的すぎて、綾乃はもちろんのこと、汐音にも理解できない。
それでよかった。河原崎は綾乃と汐音が優秀な生徒であることを知っている。二人ならば、早い段階で自発的な論理的思考力をもって正しく答えを導き出すだろう。
「鷹科さん、真泉さん、私からのお願いです。風向さんは近い将来、再び大きな壁に立ち向かうことになるでしょう。その時、お二人の力が必要になってきます。最後まで寄り添ってあげてください」
軽く頭を下げてくる河原崎に、二人は慌てて言葉を
「先生、俺たちに頭を下げないでください。むしろ、俺たちの方から頭を下げないといけないぐらいですから」
汐音の後を引き取って、綾乃が続ける。
「私たちはこれからも風向君と一緒です。たとえ、どんなことが起こったとしても、絶対に見放したりしません。それだけは断言できます」
綾乃の目が横にいる汐音に向けられる。当然だとばかりに首を縦に振る汐音が最後の言葉を発した。
「俺たち三人はどんなことがあろうとずっと一緒です。俺にとっても、鷹科さんにとっても、織斗は掛け替えのない親友ですから」
しばらくの談笑の後、綾乃と汐音は教室に戻っていった。
眠ったままの織斗の呻き声は既に収まっている。胸の上下動も安定してきている。
「風向さん、あなたを苦しめているトラウマは、いったい何なのでしょうね。やはり」
失っていた声はようやく戻ってきた。
河原崎は思い立ったかのように、白衣のポケットからスマートフォンを取り出すと、数年来使っていない、それでいて懐かしい番号に電話をかける。
コール音が鳴り響く。一分ほど待たされた後、ようやく繋がった。
「大変お待たせいたしました。
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