第030話:転入生の少女
それだけ、私立
「失礼します」
引き戸が静かに開けられた。
まず初めに、その声に驚かされる。鈴を振るような、それでいて可愛らしさを含んだ声だ。織斗はその声にどこか懐かしさを感じ取っていた。
次いで、教室に一歩踏み入れたその容姿にもだ。
肩先まで真っすぐ伸びた美しい黒髪が
「可愛い」
しばしの沈黙、ようやくのこと、最前列に座る女子生徒が
「みんなの気持ちはわかるよ。私も職員室で初めて会った時は驚いたからね。早速だけど、自己紹介をしてもらおうか」
磯神和奏に促され、少女は会釈をしてから挨拶を始めた。
「皆さん、はじめまして。
再び頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げる。
鞍崎凪柚の一つ一つの仕草に、誰もが魅了されている。あちらこちらからため息が
その中にあって、ただ一人だけが全く異なる反応を示していた。教室内を動かしていた凪柚の視線も、そこで吸い寄せられるかのようにして止まっている。
凪柚の左手が静かに髪に触れた。周囲からは何げない仕草にしか見えないだろう。
「
織斗の様子が明らかにおかしい。綾乃は不安そうに身体を乗り出すと真横まで近づいていく。綾乃の声を聞いた
「おい、織斗、大丈夫か。何があった」
心配する二人の声は全く届いていない。織斗は視線を固定したまま、身体を震わせている。それが限界を迎えた。
椅子を弾き飛ばさんばかりの勢いで立ち上がると、教壇に立つ鞍崎凪柚を凝視する。いや、
「風向、急に立ち上がってどうした。もしかして知り合いだったのか」
磯神和奏が何か言っている。織斗は無意識下で鞍崎凪柚以外の全てを遮断してしまっている。強い視線をもって凪柚だけを見つめている。身体の震えが先ほど以上に大きくなっていく。
「風向君、ねえ、風向君、こっちを見て。私を見て」
明らかに織斗は動転している。綾乃にはわかる。
そのうち呼吸さえも荒くなってきた。放っておくと危険だ。それでなくても織斗は心臓に病を
綾乃は何とか落ち着かせようと織斗の右袖を引っ張って、座らせようと試みる。
制御できないのか、震えの止まらない織斗はいとも簡単に綾乃の手を跳ね飛ばす。小さな悲鳴が上がる。
たまらず立ち上がった汐音が織斗の肩に手をかけようとした。
「織斗、落ち着け。まずは座れよ」
触れかけた汐音の手が止まる。異変を感じ取ったからだ。織斗は自らの手で喉を押さえ、必死に口を動かしている。
「織斗、お前、まさか声が」
織斗と汐音、二人の目が一点で結ばれた。織斗の目には大粒の涙がたまっている。喉元に詰まった言葉を懸命に絞り出そうとしている。
「う、う」
汐音が綾乃を、綾乃もまた汐音を見た。二人が同時に
「風向君、すごく苦しそう。お願いよ。無理だけはしないで」
嘆願はさておき、今はきっかけなどどうだっていい。織斗に声が戻る可能性がまさに近づいている。一方でなぜか苦しんでいるようにも感じられる。綾乃だけの直感だった。
(きっと、あの子のせい)
綾乃の敵視にも近い視線に気づいているはずだ。それでも鞍崎凪柚は表情一つ変えていない。それどころか、微動だにせず、織斗に視線を固定している。
教室の生徒たちが、担任の磯神和奏が、
獣じみた
「う、嘘、だ。彼女は、君は、誰、なんだ」
うまく発音できない。途切れ途切れになって発せられる言葉は
織斗に声が蘇った瞬間でもあった。
肉体的にも精神的にも許容範囲を越えてしまっている。織斗はひとしきり叫ぶと、そのまま意識を失い、倒れ込んでいった。
汐音が力強い両腕でしっかりと織斗を抱き止める。
「磯神先生、織斗を保健室に連れていきます」
静まり返った教室に張り詰めた汐音の声だけが広がっていった。
「あ、ああ、もちろん。鷹科、君も真泉と一緒に行きなさい。私もおっつけ行くから、それまで頼んだよ」
さすがにベテラン教師の磯神和奏だ。即座に立ち直ると、適切な指示を次々と生徒たちに与えていく。
「鷹科さん、俺たちも行こう。織斗をこのままにはしておけない」
汐音が織斗を軽々と
(真泉君って、こんなに力が強いんだ。すごいな。私も少しでも力にならないと)
何かしていないと落ち着かない。非力な綾乃は織斗の左腕を取って、汐音の補助に回る。そんな綾乃の横顔を汐音が
「真泉君、私は、大丈夫だから」
汐音には全く大丈夫に見えない。蒼白になっている綾乃を見れば一目瞭然だった。
(どこが大丈夫なんだよ。素直じゃないな。ほんと困ったものだ)
汐音の苦笑が目に入ったのだろう。綾乃は幾分不快感を
「あっ、ちょっと待って。ねえ、鷹科さんってば。あれ、もしかして怒ってる」
尋ねたところで返事はない。意外に融通の利かない一面を見せる綾乃だった。
(私の気持ちも複雑なんだから。仕方がないじゃない)
綾乃の歩調に合わせつつ、汐音が先導する。目を覚ます気配が一向にない織斗を心配そうに見つめる。
(織斗、お前を苦しめているものっていったい何なんだ。俺にも話せないことなのか)
汐音にとって、どこか影のある織斗は放っておけない存在だ。
はるかに優秀な年の離れた兄二人と比較され続ける汐音は、家庭では肩身の狭い思いをしている。織斗は一切の垣根を取り外し、対等につき合える数少ない友人だった。だからこそ
(いずれ、ちゃんと聞かせてくれよな)
教室後ろの引き戸は、すぐ
「ありがとう。助かる」
汐音が礼を述べ、織斗を真ん中にして教室の外へ出ていく。
一人取り残された鞍崎凪柚は、三人の後姿を凝視している。憂いを多分に含んだ誰にもわからない表情が何とも印象的だった。
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