第030話:転入生の少女

 磯神和奏いそがみわかなのやや甲高い声が教室に響く。


 織斗おりと綾乃あやのも互いに視線を外すと、これから入ってくる転入生を待ち構える。他の生徒たちも同じく興味津々で待っている。


 それだけ、私立響凛きょうりん学園高等学校に転入生がやってくるなど珍事だからだ。



「失礼します」



 引き戸が静かに開けられた。


 まず初めに、その声に驚かされる。鈴を振るような、それでいて可愛らしさを含んだ声だ。織斗はその声にどこか懐かしさを感じ取っていた。



 次いで、教室に一歩踏み入れたその容姿にもだ。


 肩先まで真っすぐ伸びた美しい黒髪がつややかに輝いている。小顔にやや大きめの瞳、整った鼻筋、適度にふっくらした唇、透明感のある白い肌は血色もよい。まさに美少女と呼ぶにふさわしい容姿だ。


 楚々そそとしたたたずまいも相まって、教室は水を打ったかのようになっている。



「可愛い」



 しばしの沈黙、ようやくのこと、最前列に座る女子生徒がささやきをこぼした。彼女のおかげだ。緊張の糸が切れた。教室にいつもの空気が戻ってくる。



「みんなの気持ちはわかるよ。私も職員室で初めて会った時は驚いたからね。早速だけど、自己紹介をしてもらおうか」



 磯神和奏に促され、少女は会釈をしてから挨拶を始めた。



「皆さん、はじめまして。鞍崎凪柚くらさきなゆと申します。一年という短い期間になりますが、仲よくしていただけたら嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします」



 再び頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げる。


 鞍崎凪柚の一つ一つの仕草に、誰もが魅了されている。あちらこちらからため息がれてくる。



 その中にあって、ただ一人だけが全く異なる反応を示していた。教室内を動かしていた凪柚の視線も、そこで吸い寄せられるかのようにして止まっている。



 凪柚の左手が静かに髪に触れた。周囲からは何げない仕草にしか見えないだろう。



風向かざむかい君、どうかしたの」



 織斗の様子が明らかにおかしい。綾乃は不安そうに身体を乗り出すと真横まで近づいていく。綾乃の声を聞いた汐音しおんも同じだった。すぐさま後ろを向いて声をかける。



「おい、織斗、大丈夫か。何があった」



 心配する二人の声は全く届いていない。織斗は視線を固定したまま、身体を震わせている。それが限界を迎えた。


 椅子を弾き飛ばさんばかりの勢いで立ち上がると、教壇に立つ鞍崎凪柚を凝視する。いや、にらみつける。あまりの迫力に圧倒されたか、綾乃も汐音も動けなくなっている。



「風向、急に立ち上がってどうした。もしかして知り合いだったのか」



 磯神和奏が何か言っている。織斗は無意識下で鞍崎凪柚以外の全てを遮断してしまっている。強い視線をもって凪柚だけを見つめている。身体の震えが先ほど以上に大きくなっていく。



「風向君、ねえ、風向君、こっちを見て。私を見て」



 明らかに織斗は動転している。綾乃にはわかる。


 そのうち呼吸さえも荒くなってきた。放っておくと危険だ。それでなくても織斗は心臓に病をかかえている。


 綾乃は何とか落ち着かせようと織斗の右袖を引っ張って、座らせようと試みる。



 制御できないのか、震えの止まらない織斗はいとも簡単に綾乃の手を跳ね飛ばす。小さな悲鳴が上がる。


 たまらず立ち上がった汐音が織斗の肩に手をかけようとした。



「織斗、落ち着け。まずは座れよ」



 触れかけた汐音の手が止まる。異変を感じ取ったからだ。織斗は自らの手で喉を押さえ、必死に口を動かしている。



「織斗、お前、まさか声が」



 織斗と汐音、二人の目が一点で結ばれた。織斗の目には大粒の涙がたまっている。喉元に詰まった言葉を懸命に絞り出そうとしている。



「う、う」



 汐音が綾乃を、綾乃もまた汐音を見た。二人が同時にうなづき、再び織斗に視線が飛んだ。



「風向君、すごく苦しそう。お願いよ。無理だけはしないで」



 嘆願はさておき、今はきっかけなどどうだっていい。織斗に声が戻る可能性がまさに近づいている。一方でなぜか苦しんでいるようにも感じられる。綾乃だけの直感だった。



(きっと、あの子のせい)



 綾乃の敵視にも近い視線に気づいているはずだ。それでも鞍崎凪柚は表情一つ変えていない。それどころか、微動だにせず、織斗に視線を固定している。



 教室の生徒たちが、担任の磯神和奏が、固唾かたずを呑んで織斗を見守っている。



 獣じみたうなり声が、次第に人の声へと変わっていく。刹那の出来事だった。



「う、嘘、だ。彼女は、君は、誰、なんだ」



 うまく発音できない。途切れ途切れになって発せられる言葉は咆哮ほうこうとなり、そして絶叫となってほとばしる。


 織斗に声が蘇った瞬間でもあった。



 肉体的にも精神的にも許容範囲を越えてしまっている。織斗はひとしきり叫ぶと、そのまま意識を失い、倒れ込んでいった。


 汐音が力強い両腕でしっかりと織斗を抱き止める。



「磯神先生、織斗を保健室に連れていきます」



 静まり返った教室に張り詰めた汐音の声だけが広がっていった。



「あ、ああ、もちろん。鷹科、君も真泉と一緒に行きなさい。私もおっつけ行くから、それまで頼んだよ」



 さすがにベテラン教師の磯神和奏だ。即座に立ち直ると、適切な指示を次々と生徒たちに与えていく。



「鷹科さん、俺たちも行こう。織斗をこのままにはしておけない」



 汐音が織斗を軽々とかつぎ上げる。



(真泉君って、こんなに力が強いんだ。すごいな。私も少しでも力にならないと)



 何かしていないと落ち着かない。非力な綾乃は織斗の左腕を取って、汐音の補助に回る。そんな綾乃の横顔を汐音が一瞥いちべつした。



「真泉君、私は、大丈夫だから」



 汐音には全く大丈夫に見えない。蒼白になっている綾乃を見れば一目瞭然だった。



(どこが大丈夫なんだよ。素直じゃないな。ほんと困ったものだ)



 汐音の苦笑が目に入ったのだろう。綾乃は幾分不快感をあらわにして、無言のまま先に歩き出す。織斗の左腕が引っ張られ、バランスを崩しかけた汐音が慌てて立て直す。



「あっ、ちょっと待って。ねえ、鷹科さんってば。あれ、もしかして怒ってる」



 尋ねたところで返事はない。意外に融通の利かない一面を見せる綾乃だった。



(私の気持ちも複雑なんだから。仕方がないじゃない)



 綾乃の歩調に合わせつつ、汐音が先導する。目を覚ます気配が一向にない織斗を心配そうに見つめる。



(織斗、お前を苦しめているものっていったい何なんだ。俺にも話せないことなのか)



 汐音にとって、どこか影のある織斗は放っておけない存在だ。


 はるかに優秀な年の離れた兄二人と比較され続ける汐音は、家庭では肩身の狭い思いをしている。織斗は一切の垣根を取り外し、対等につき合える数少ない友人だった。だからこそ一抹いちまつの寂しさも感じている。



(いずれ、ちゃんと聞かせてくれよな)



 教室後ろの引き戸は、すぐそばにいた女子生徒が開放してくれた。



「ありがとう。助かる」



 汐音が礼を述べ、織斗を真ん中にして教室の外へ出ていく。



 一人取り残された鞍崎凪柚は、三人の後姿を凝視している。憂いを多分に含んだ誰にもわからない表情が何とも印象的だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る