第二章

第029話:掛け替えのない親友

 織斗おりとが通う私立響凛きょうりん学園高等学校は県下最高峰に君臨する進学校だ。毎年、超難関大学の医学部を筆頭に、多くの現役合格生を輩出している。



 今日は四月七日、始業式を迎えている。いよいよ高校生活最後の三年生が始まろうとしていた。



「織斗、第一志望校目指して頑張ろうな」



 手話を交えて語りかけてきたのは、前の席に座る真泉汐音まいずみしおんだ。


 彼とのつき合いは高校一年生の始業式に始まる。振り返っても、彼との出逢いは最悪以外の言葉では表現できない。それが今では唯一無二ともいえる親友になっている。不思議な縁で繋がる二人だった。



【汐音、いつもありがとう。一緒に頑張ろう】



 手話で返す。あれ以来、相手の話し言葉は聴き取れても、織斗からは未だに言葉を発せられないでいる。


 織斗が言葉を失っていることを知ってからというもの、汐音は独学で手話を会得した。一年生の大型連休明け、織斗を前にして汐音は簡単な挨拶や最低限の会話を手話で披露してみせた。


 人知れず努力してくれた汐音に、織斗は久しぶりに感情を揺さぶられるほどの嬉しさを感じた。



 主治医の加賀の診断は、疑う余地なしの心的外傷後ストレス障害、俗にいうPTSD(Post-Traumatic Stress Disorder)が引き起こす失声症だ。奇しくも、美那子の兄が指摘したとおりだった。


 加賀の紹介を受けて、個人開業している精神科の医師にも診てもらっている。それでも声が戻ってくることはない。



 他人と交流し、笑うことは治療の一歩にも繋がる。


 優季奈の死を目の当たりにして、全ての気力を失ってしまった織斗に、他者との一からのつき合いは困難の連続だった。そんな織斗と出逢い、この二年間ずっと励まし続けてくれたのが、他ならぬ汐音だった。



(俺にはもったいないぐらいの親友だよ。汐音、本当に感謝しているから)



 この言葉は自分の心の中にだけとどめておく。



 そして、もう一人が右横に座っている。鷹科綾乃たかしなあやのとの出逢いは、高校進学前の春休みだった。今でも織斗には忘れがたいものになっている。



「風向君、おはよう。またよろしくね」



 綾乃が話しかけてくる。


 綾乃もまた手話との組み合わせだ。汐音に比べて、少しばかりぎこちない。彼女も織斗と会話するためだけに懸命に学んだ。その事実が何よりも気持ちを温かくしてくれる。



【おはよう、鷹科さん。よろしくね】



 この程度なら問題ない。綾乃にも手話で返す。


 ちなみに、汐音との会話は基本的に手話を主として、難しい部分のみを筆談で補う。綾乃はその逆で、筆談が主となり、簡単な挨拶や会話を手話でこなしている。



 今では汐音と綾乃は掛け替えのない存在になっている。いわば織斗にとっての両翼、心から信頼を寄せられる二人がどれほどありがたいか。



(本当に俺にはもったいないよ)



 綾乃は柔らかで穏やかな微笑が印象的だ。本人曰く、童顔を気にしているとかで、いつも髪型で大人らしく見せようとしている。やや茶色がかったハーフアップの長い髪は、それらしい雰囲気を醸し出している。



(そのままが一番なのに。今のだって似合っていそうで、微妙に似合っていない、かもしれない)



 失礼なことを心の中でつぶやいてみる。


 綾乃の魅力はそれだけではない。何しろ彼女は大多数から注目を集める生徒の一人だからだ。



「おはよう、鷹科さん。学校一とうたわれる美少女は今日もひと味違うね」



 冗談とも本気とも取れる汐音の言葉に、綾乃はむっとした表情を浮かべて睨みつける。



「真泉君、何度言ったらわかるかな。それ、好きじゃないの。だいたい、学校一のイケメンの真泉君には言われたくないよ」



 しっかりやり返す。汐音は平然としたもので、矛先を見事にすり替える。



「いやいや、学校一のイケメンは俺じゃないでしょ。こっちにいるんだからさ」



 指差す方向にいるのは織斗だ。綾乃も首を縦に振っている。



「うん、それは私も同感よ」



 織斗はすかさず手話と筆談を交えて二人に返す。これ以上、この不毛な会話には巻き込まれたくない。



【冗談はやめてくれないか。この学校の顔面偏差値頂点は、間違いなく汐音と鷹科さんだよ】



 我ながら馬鹿な言葉遣いだと思いつつ、二人は常に成績最上位、さらに容姿端麗とくれば、もてないはずがない。


 大学受験を控えた大切な時期だ。恋愛にうつつを抜かすなどあり得ないのかもしれない。それにしても、もったいないと想う織斗だった。



 織斗はますます母親に似てきている。成長期とともに中性感が減少していくかと思いきや、逆にさらに強まっている。


 汐音は好対照で、小顔で輪郭がはっきりしていて、とがるところが尖っている。目も大きめ、鼻筋が通り、唇がやや薄めだ。さっぱりとした黒の短髪が清潔感を演出している。


 汐音はいつでも自然体だ。女子生徒がこぞって夢中になるのは当然といえば当然だった。



 この話はここで終わりとばかりに、汐音が思いがけない一言を発した。



「そうそう、小耳に挟んだんだけどな。このクラスに今日、転入生が来るらしい。珍しいよな」



 学園の制度として、三年生は二年生からの持ち上がりと決まっている。必然的に周囲の同級生に変化は見られない。見知った顔ばかりで安堵していた織斗は、途端に不安になってきた。



 教室の引き戸が開け放たれ、クラス担任の磯神和奏いそがみわかなが早足で入ってくる。教壇に上がるや、開口一番、いつものごとく尖った挨拶から入る。



「みんな、おはよう。春休みはしっかり休めたか。今日からいよいよ最終学年が始まるね。泣いても、笑っても、この一年に全てが懸かっているよ。覚悟はできているだろうね」



 不敵な笑みを浮かべた磯神和奏が教室中を見渡していく。


 大丈夫だ。どの生徒の目も死んでいない。貪欲なまでの輝きを秘めている。



「いいね。いいね。それでこそ私のクラスの生徒たちだよ。準備万端だね。さて、そんなみんなに今日はサプライズがあるよ」



 汐音が振り返って、手話で伝えてくる。



【なあ、言ったとおりだろ】



 小さくうなづく織斗を見て、汐音がさわやかに笑いかけてくる。織斗は素直に想った。



(こんなのを見せられたら、男でもほれてしまいそうだな。それにしても、汐音がかたくなに恋人を作らない理由は、やっぱり)



 その要因の一つが織斗だということを自覚している。その意味でも心中穏やかではない。複雑な気持ちを胸にいだきながら、織斗は右隣の綾乃に視線を流す。敏感に察したのか、綾乃も緩やかに顔を傾けてくる。


 間違いない。文句なしの美少女だ。



(優季奈ちゃんがここにいたら)



 胸をよぎった想いに心が痛む。



 綾乃のはにかんだ笑みは織斗の心の入口まで何の抵抗もなく浸透してくる。


 それもそこまでだ。織斗の心には、何よりも高く、決して壊れない防波堤が築かれている。



 この三年間、それを乗り越えるものは一度たりとも現れていない。



「じゃあ、紹介しよう。入っておいで」

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