第026話:織斗が失ったもの

 十五歳の誕生日を迎えるわずか数分前、優季奈ゆきなは短い人生に幕を下ろした。



 凄烈せいれつ悲哀ひあいだけが病室内を占拠する中、つい先ほどまでれていた嗚咽おえつはようやくにして収まっていた。



 織斗おりとはただ一人、優季奈に顔向けができないほどに情けない姿をさらしている。立ち上がる気力もない。このまま優季奈の後を追って、消え去ってしまいたい。


 誰かが目の前に立っていることにさえ気づかなかった。



「織斗少年、いつまでそうしているつもりだ。何たる姿をさらしているのだ。無様すぎるではないか。己の情けなさを実感したまえ。私の可愛い優季奈も嘆いている」



 美那子みなこの兄だった。


 織斗がわずかに見上げる先、彼の目にも様々な感情が渦巻いている。最小限の厳しい言葉を吐き出すと、すぐさまきびすを返して遠ざかっていく。


 彼の言動は無礼にもほどがある。さすがに中学生の子供相手に厳しすぎるだろう。



 織斗も当然ながらいきどりを感じている。にもかかわらず、どちらの両親も黙したまま、ただ見ているだけだ。



 反論しなければならない。織斗は鋼鉄のように重くなった口を開こうとした。



(そうだ、あなたの言うとおりだ。俺はみっともないぐらいに情けない。わかっているんだ)



 言葉にして吐き出すつもりだった。



 声が出ない。必死に口を動かしてみる。今の今まで当たり前のように声が出ていた。それなのに、意思に反して音が外に出ていってくれない。金魚が酸欠におちいったかのごとく口だけが動く。



 織斗はたまらず、声の代わりに、待ってとばかりに右腕を美那子の兄の背に向かって伸ばした。母の沙織さおりが真っ先に異変に気づいた。



「織斗、どうしたの。まさか、声が。加賀先生、加賀先生」



 左手で喉を押さえる織斗を前にして沙織が動転している。これほどまでに慌てふためく母を見るのは初めてだった。


 既に医師と看護師は退出している。沙織は無我夢中で病室を出ると、加賀の姿を追い求めた。利孝としたかも優季奈の両親に頭を下げると、沙織に続こうとする。


 そこに声がかかった。



 利孝と美那子の兄が向かい合う。難しい顔を浮かべたまま何やら言葉を交わしている。一分と経たないうちに二人の会話は終わっていた。


 なぜなのかわからない。二人の間には嫌悪感が漂っている。特に強く感じるのは、美那子の兄の方だ。再び彼が近寄ってくる。



失声症しっせいしょうかもしれないな。一時的なものだろうが、しかるべき医師に診てもらうといい。先ほどは少し言い過ぎた。許してほしい。君は君なりに優季奈を想ってくれているのだな。織斗少年、君はもっと強くならなければいけない。優季奈のためにも」



 その言葉を最後に、彼もまた病室を出て行ってしまった。


 美那子の兄の言葉がにわかに信じられない。失声症と彼は言った。それがどのような病気なのか織斗にはわからない。そんな簡単に声を失ったりするものだろうか。



(俺、あの人に何も言い返せなかった。何よりも優季奈ちゃんに伝えたいことがあったのにそれさえ言えなかった。伝えなければいけなかったのに。優季奈ちゃんのお母さんにも約束したのに)



 織斗が心に負った傷は予想をはるかに超えている。決して言葉だけで語れるものではない。



「織斗君」



 頭上から再び言葉が降ってきた。視線を上げる。たったそれだけの動作を億劫おっくうに感じる。



「最後になるわ。優季奈の顔を見てあげて」



 織斗は首を何度も横に振って、美那子に無理だと伝えた。今さらどんな顔をして優季奈の前に立てるというのだ。美那子の兄に指摘されたとおり、あまりの無様さに今さらながら自分自身に対して無性に腹が立つ。


 あれほど加賀に言われ、約束までしたのに、こらえきれずに爆発、挙げ句は尊敬する加賀と長谷部に暴言まで吐いてしまった。こんな状態で優季奈に合わせる顔など、どこにあるというのか。



「織斗君のお父さんから預かったわ。優季奈のために頑張って作ってくれたんですってね」



 美那子はすぐそばにしゃがみこむと、淡い桜色の化粧箱を織斗の手に握らせてくれた。織斗の目が大きく開く。手の中にある化粧箱を凝視し続け、ようやく決心がついた。



 泣き腫らした瞳の美那子が微笑んでくれている。



(優季奈ちゃんのお母さんこそ一番辛いのに。俺、何をやってるんだ。最低な男だ。こんなことじゃだめだ。優季奈ちゃんに笑われるだけだ)



 織斗は両足に力をこめて必死に立ち上がる。美那子の充血した目が、大丈夫なの、と告げてくる。織斗は今度は首を縦に振って応えた。



 優季奈の眠るベッドに歩み寄っていく。一歩、一歩、着実に、それでいて慎重に。


 怖い。それが一番正直な感情だ。死んでしまった優季奈を見るのが怖いわけではない。無様な自分自身を優季奈に見せるのが怖いのだ。自分勝手だと優季奈にしかられそうだ。



 ベッドまでの距離の何と長いことか。わずか十歩足らずを進むだけで、肉体も精神も疲れ切ってしまった。




 優季奈の名前を呼ぼうとした。喉の奥から絞り出すように声を出そうとした。だめだった。空気が喉を通過する際の擦過音さっかおんしか響かない。



 優季奈の顔をのぞきこむ。織斗は思わず息を呑んだ。どうして、こんなにも穏やかな顔をしているのだろう。本当は生きているのではないか。それぐらいの表情だった。



(ああ、そうか。全ての苦しみから解放されたから。優季奈ちゃん、ほんとに苦しかったよね。ごめんね、俺、何もできなかった。優季奈ちゃんに何もしてあげられなかった。伝えたいこともあったのに)



 織斗は化粧箱のラッピングを丁寧にいていく。


 優季奈に直接手渡すはずだった。優季奈が手に取って自らの髪に挿してくれるはずだった。その可愛らしい仕草が見たかった。髪に挿した姿を見たかった。


 何よりも天使の微笑んだ顔を見たかった。



 願いはもう二度と叶わない。



 化粧箱を開け、中から桜の花びらをあしらったヘアクリップアクセサリーを取り出す。女の子の髪にヘアクリップを飾るなど、これが最初で最後だろう。



(俺、不器用だから。あまり上手にできなかったけど)



 優季奈の左耳の上辺り、忘れもしない。ちょうど一年前、花びらが舞い下りた位置だ。織斗は手の震えを抑えるのに苦労しながら、ヘアクリップを慎重に挿した。



(優季奈ちゃん、俺、最後に約束、破るよ。本当に、桜の天使が、いた)



 これ以上は無理だ。もはや限界だった。



(優季奈ちゃん、優季奈ちゃん、優季奈ちゃん)



 声が出るなら、絶叫していただろう。涙が止めどなくあふれ出す。身体中の水分が全て涙に変わってしまったかのように瞳からこぼれ落ちていく。


 全身の力が奪われていく。



 織斗はくずおれ、周囲から色が失われていった。目の前が灰色一色に染まっていく。



 そして気を失った。




 織斗にそこから先の記憶はない。

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