第025話:天使は還る

 時刻は午後十時三十分を過ぎようとしている。



 病室内では長谷部たちによる懸命な処置が続いていた。


 あと一時間半もすれば日付が変わる。そうなれば、優季奈ゆきなの十五歳の誕生日だ。



 織斗おりとの手には淡い桜色の化粧箱が握られている。誕生日プレゼントとして優季奈に手渡し、開封してもらう。ヘアクリップアクセサリーを見てもらう。優季奈がどんな言葉を返してくれるのか、期待と不安が入り交じっている。


 それもこれも、峠を無事に乗り越え、優季奈が回復したらの話だ。



「お母さん、優季奈ちゃんは大丈夫かな」



 風向家の三人は再び控室で待機している。病室にいたところで、何もできない三人は邪魔者でしかない。美那子みなこに断りを入れて、いったん外に出てきていた。


 戻ってから何度目かの同じ問いかけに、もはや沙織さおり利孝としたかも答える気力を失っている。



「織斗、そんなに待つのがいやなら、美那子さんにお願いをして、一人だけ病室に入れてもらうんだ」



 さすがに大人しくなるだろうと思っていた利孝も、次の織斗の行動には驚かされた。



「わかったよ、お父さん。俺、優季奈ちゃんのお母さんにお願いしてくる」



 またも脱兎だっとのごとく駆けていった織斗に、利孝も沙織も呆然ぼうぜんとしながらも、ついつい微笑んでしまう。



「恋の力は大きいね。本当に優季奈さんが好きなんだね」



 感慨深げに語る利孝に沙織も追随する。



「それはもうね、好きすぎるぐらいよ。一年がかりで優季奈さんの誕生日プレゼントを自作するって聞いた時には驚いたけど」



 知っているよ、とばかりに利孝が悪戯いたずらっ子のような笑みを浮かべた。



「沙織さん、織斗にはわからないように、こっそりと夜中に手直ししていたよね」


「だって、そうでもしないと、とても一年じゃ間に合わなかったもの。あの不器用さは、きっと利孝さん譲りよね」



 沙織が仕返しとばかりに突っ込みを入れた。



「沙織さん、それは言わないでよ。でも、まあ織斗の不器用さは確かにそうかもしれないけど。それより、ほら」



 机の上に最も大切なものを置きっぱなしにしている。



「肝心なところで抜けているんだから。いったい、誰に似たのでしょうね」



 互いに顔を見合わせて、小さな笑みをこぼす沙織と利孝だった。



「あの子、最後まで冷静さを失わずにいられるか心配だわ。利孝さん、これを持って、様子を見てきてくださる」



 颯爽さっそうと立ち上がった利孝が、優季奈のための化粧箱を手に取り、控室を出ていく。



「じゃあ、行ってくるよ」




 無事、病室内に入れてもらった織斗は、邪魔にならない位置でたたずんでいる。病室は先ほど以上の焦燥感に満たされ、中にいる織斗は息苦しささえ感じている。



 突然、生体情報モニタが静寂を破り、今日四度目の警戒音をとどろかせた。



「先生、再び心拍数が低下し始めました」



 看護師長の鈴本恵美すずもとめぐみの声に、優季奈の両親は狼狽ろうばいしきり、声すら出ない。



 最大の緊張が走る中、長谷部も加賀も全力をもって優季奈を救おうと努めている。



「鈴本さん、点滴量を倍増して。急いで。短時間でいい。ここで必ず持ち直させる」



 確固たる決意だ。長谷部からは、絶対に優季奈を救ってみせるという意思が感じられた。加賀も負けてはいられない。



美杉みすぎさん、人工呼吸器の用意を。ひとまずはマスク式で。状況次第では気管挿管きかんそうかんに切り替えます」



 もう一人の看護師に指示を出しながら、目はモニタの心拍数を追っている。警告音はなおも鳴り止まない。



「五十を切りました。さらに低下しています」



 四十台に突入、このまま四十も切ってしまいそうな勢いだ。



 点滴の効果が出てくれたらと願いつつ、加賀は準備できたマスク式人工呼吸器を優季奈の顔に装着した。




「優季奈ちゃん、頑張って」



 織斗にできることといえばこれぐらいだ。


 優季奈は全身全霊で頑張っている。そうに決まっている。そのうえで頑張れは残酷すぎる言葉だろう。わかっている。わかっていても、それしか言えない自分がたまらなくもどかしい。



「優季奈、しっかりして。お願いよ」


「長谷部先生、四十を切りました。なおも止まりません」



 美那子と鈴本の声が重なる。


 絶望感が漂う。長谷部も加賀も力を振り絞って処置に当たっている。



「長谷部先生、加賀先生、優季奈ちゃんを、どうか、どうか助けてください」



 冷静でいなければならない。頭では理解しながら、織斗は思わず大声を上げていた。



 その声が届いたのか。



(織斗君、ずっと、いてくれてたんだ。ごめんね)



 朦朧もうろうとする意識下で優季奈は心の中で喜び、哀しみ、何とか視線を織斗に向けようとした。


 長谷部は優季奈が視線をわずかに動かしていることに気づいた。



「優季奈ちゃん、助けるから。全力で助けるからね。だから、もう少し」



 長谷部の声が聞こえてくる。



(長谷部先生、うん、私、頑張るから)



 動かしたいのに、腕が上がらない。



 織斗に手を握ってほしい。


 それなのに、全く言うことを聞いてくれない。



「優季奈、戻ってきてくれ。お願いだ」



 父の光彰みつあきが言葉を絞り出している。


 頑張ると心の中で想いながらも、優季奈の視界は少しずつぼやけ始めている。もはやそばにいる両親の姿さえ、はっきりと視認できない。



(お母さん、お父さん、私を生んでくれて、ありがとう。もし、生まれ変われたら、今度もお母さんとお父さんの子供に、なりたいな)



「先生、血圧が」



 もはや点滴でどうにかなる段階ではない。心拍数に合わせるかのように、血圧もどんどん低下している。このままでは優季奈はショック状態におちいってしまう。皮膚も次第に冷たくなりつつある。



「先生、優季奈ちゃんを助けて。お願いします。優季奈ちゃんを、死なせないで」



(私の気持ち、もう、伝えられない。ごめんね、織斗君)



 二人の医師の努力を嘲笑あざわらうかのように、状況は悪化の一途を辿たどっている。



「優季奈ちゃんを、助けるって言ったじゃないか。医師は患者を救うのが仕事でしょ。優季奈ちゃんを助けられないなんて、おかしいじゃないか」



 完全に冷静さを失った織斗が遂に暴走してしまった。優季奈はさらに視界が薄れていく目で織斗の姿を懸命に追っている。



(私、まだ、死にたくないよ。お願い、あと少し)



 処置を続けながら、加賀が織斗に向かって冷静に言葉を返している。



「長谷部先生も、加賀先生も、嘘つきだ」



(だめ、だよ。そんなこと、言っちゃ)



 なおも織斗が食ってかかっていく。



「ノックもせずに失礼します」



 入って来たのは利孝としたかだ。脇目も振らずに、絶叫する織斗おりとに一直線で向かっていった。



「織斗、歯を食いしばれ」



 直後だ。短く、鋭い破裂音が一度だけ鳴り渡った。



 利孝の強烈な平手打ちがかなでる音だった。


 まともに食らった織斗は、文字どおり病室の端まで吹っ飛んでいく。背中から壁に衝突、その場にうずくまってしまった。


 あまりの衝撃展開に誰もが言葉を失っている。利孝が吹っ飛んだ織斗を見下ろす。



「いい加減にしろ。お前とは比べようもないほどに優季奈ゆきなさんは苦しんでいるんだ。見守るご両親も同じだ。皆が等しく深い哀しみの中にいるんだ。それなのに、先生に対するその暴言は何事だ。泣き叫ぶしかできないお前に、ここにいる資格はない。今すぐ出て行け」



 医師たちや美那子みなこたちに向かって、利孝は抑制の効いた冷静な口調で謝罪の言葉を発した。



「こんな重要な時に手を止めさせてしまい、大変申し訳ございません」



 それをきっかけにして皆がいっせいに動き出す。



「加賀先生、頻呼吸ひんこきゅうです」



 人工呼吸器のアラートを受けて、看護師の美杉みすぎが判断を仰ぐ。優季奈の呼吸は激しくなるばかりだ。



(踏ん張ってくれ、優季奈ちゃん)



 加賀は酸素量増加、濃度上昇を即断即決すると、素早く美杉に指示を出した。加賀と長谷部の視線が交差する。



 最後まで決してあきらめない。


 織斗に言われるまでもない。医師として救える者は全て救う。それが使命でもあり、責務でもある。


 長谷部もまた苦渋の決断を下した。



「優季奈ちゃんの手を握ってあげてください。最後になるかもしれません」



 哀しみを瞳いっぱいにたたえた長谷部の視線が優季奈の両親、さらに再び戻ってきていた美那子の兄にも注がれる。三人は信じ難い言葉を耳にして茫然ぼうぜん自失におちいっている。



「優季奈は、それではもう、もう」



 美那子の兄がたまらず口を開く。上擦うわずった声だった。



「最後まで全力を尽くします。ですが、かなり厳しい状況です」



 医師として忸怩じくじたる想いだ。加賀も同様だった。加賀の視線が一瞬だけ織斗に向けられる。



(織斗君、約束を守れなかったのは実に残念だ。このままでいいのか。優季奈ちゃんは、君を待っているんだぞ)



 美那子たちは優季奈の動かない手を思い思いに握りしめている。対照的に、織斗は依然としてうずくまったまま動こうともしない。動けない。



「長谷部先生」



 鈴本の声は悲しみにいろどられていた。



(ごめんね。明日、約束、果たせない。いや、だよ、こんなの)



 生体情報モニタの警告音が鳴り止まない。



(私、死にたくない。まだ、やりたいことが、たくさん、あるのに。織斗君)



 織斗に向かって腕を持ち上げようとしたところで、優季奈はとうとう全てを手放した。それは耐え難い苦痛からの解放だったのかもしれない。




(好きだよ、織斗君。大好きだよ)




 直後、心静止しんせいしを告げる平易な音が静寂の中、耳をつんざいていった。



「エイシスです」



 常に冷静であるはずの鈴本恵美めぐみの声が震えている。親友の美那子の悲嘆ひたんに暮れる顔を見る勇気はなかった。




 エイシス(エイシストリー)、すなわち心静止状態になればAED(=Automated External Defibrillator、自動体外式除細動器)は役に立たない。


 すぐさま心臓マッサージなどのCPR(=Cardiopulmonary Resuscitation、心肺蘇生法)や薬剤投与を行う必要がある。



 優季奈の両親からは、事前にDNAR(=Do Not Attempt Resuscitate、心肺蘇生をしないこと)が示されている。長谷部にこれ以上できることは何もない。してもならない。



 それでも諦めきれない。土壇場で気が変わってくれるかもしれない。変わってほしい。その想いだけで一縷いちるの望みをかけ、長谷部は両親に改めて問いかけた。



「このような時に申し訳ございません。美那子さん、光彰みつあきさん」



 長谷部の言いたいことは即座に理解できた。そのうえで、ただ一度だけだ。


 美那子も光彰もそろって首を横に振った。



 長谷部は悄然しょうぜんと肩を落とした。もはや残されたことは一つしかない。



 医師として、最もいやな瞬間が訪れる。これを加賀に任せるわけにはいかない。どれほど辛くても、主治医として自分がやらなければならない。



 まず、長谷部は左手の腕時計を見た。


 それから、優季奈の胸部に聴診器を当てて、呼吸と心拍の停止を確認する。


 次いで、視診と触診で頸動脈けいどうみゃくおよび橈骨動脈頸とうこつどうみゃくけい拍動はくどう停止を確認する。


 さらに、ペンライトを用いて対光反射の消失を確認する。



 これら全てにおいて、停止と消失を確認した。



 美那子と光彰の目から光が失われている。可愛い娘にすがりつきたい気持ちを必死に抑えているのがわかる。



 長谷部は優季奈の誕生日のことを考えながら、再び腕時計に目をやった。



(間に合わなかったか。助けてあげられなくてごめんね、優季奈ちゃん。本当にごめんね)




「四月四日午後十一時五十七分、ご臨終です」




 おごそかに敬意をもって優季奈の死を宣告した。


 両親に向かって、深々と頭を下げる。加賀がならい、さらに鈴本と美杉も続いた。鈴本は美那子を、優季奈を見つめ、必死に涙をこらえている。



 美那子と光彰の瞳からせきを切ったかのごとく涙があふれ出す。



「優季奈、お願いだ。目を開けてくれ、優季奈」



 動かなくなった優季奈に縋りつき、二人して嗚咽おえつを漏らす。美那子の兄も、利孝としたかもまぶたを押さえて立ち尽くしている。少し前に入って来ていた沙織さおりは利孝の横で滂沱ぼうだしている。



 織斗だけは違った。うずくまったまま、長谷部が告げる死亡宣告を他人事のように聞いていた。うつろな目だけが彷徨さまよい続けている。



「だめだ、そんなのだめだよ。優季奈ちゃん、俺を置いて一人で行かないでよ。約束、したじゃないか」



 織斗の胸は今にも張り裂けそうだった。




(どうして、どうして、天使が、死なないといけないんだ)






 その夜、日付が変わる直前だった。奇しくも午後十一時五十七分、優季奈が天に召された時刻だ。



 小高い丘の上、満開を明日に控えた神月代櫻じんげつだいざくらの幹が大きく震え、枝という枝がしなり、空にきしみの大音を響かせた。


 それはあたかも子供を失った親の悲痛な叫びのようでもあった。




 呼応するかのごとく、天頂に輝く満月の光が雲の隙間から差し込んでくる。



 一陣の風が吹きつけ、無数の花びらを舞い散らせ、哀しみの香りで満たしていく。


 五弁の花の幾ばくかはれて、月の光を反射している。



 そのきらめきが意味するものは、いったい何だったのだろうか。

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