第024話:不思議な体験と伝えたい想い

 主治医の長谷部が優季奈ゆきなの最も近い場所にいる。視線が優季奈と生体情報モニタの間を行ったり来たりしている。


 長谷部のすぐ後ろに加賀もいた。難しい顔で腕を組んで立ったまま、優季奈の様子を観察している。


 織斗おりとたちが入って来たことに気づいたのだろう。わずかに顔を傾け、一度だけうなづいてみせた。



 優季奈の両腕には、複数の点滴チューブが繋がれている。自発呼吸はできているようで、人工呼吸器ではなく、鼻カニューレが装着されている。あまりの痛々しい姿に織斗は胸がつぶされそうだった。


 美那子みなこ光彰みつあきは哀しみを必死にこらえながら、いとしい娘、優季奈を見つめている。片時も視線を外さない。


 話しかけられる状況ではない。ここにいる皆が皆、できる限りの力をもって優季奈を助けようとしている。それぐらい織斗にだってわかる。



(冷静になれ。冷静でいるんだ、俺。加賀先生と約束しただろ)



 織斗は皆の邪魔にならない位置で、優季奈だけを見つめ続ける。


 いや、そうではない。優季奈以外の映像が目に入ってこないのだ。優季奈を見つめれば見つめるほど、それが顕著になっていく。


 もう一つだ。病室にはいつもの特有のにおいが広がっている。織斗の嫌いな臭いだ。それが薄まっていく。同時に別のにおいが混在してくる。



(この匂い、何だろう。それに、どこから。以前にも感じたことがあるような)



 織斗の視線が優季奈から離れ、窓際に飾られた花瓶に吸い寄せられていく。織斗にその意思はなかった。まるで何ものかに強制されるかのように視線を動かされていた。



(そうだ、花の匂いだ。風に揺られた花が放つ、かすかな匂い、決していやじゃない。でも、これはあの花瓶から漂ってくるものじゃない)



「織斗、織斗」



 遠くから誰かの声が聞こえてくるような気がする。それとともに花の匂いが次第に失せていく。



「織斗、聞こえていないの、織斗」



 優季奈以外の映像が一気に戻ってくる。織斗は得体の知れない恐怖を感じた。



(何だったんだ、今のは。俺、おかしくなってしまったのかな)



 そんな織斗を両親が心配そうに見つめている。



「お母さん、お父さん、花の匂いが」



 両親は明らかに困惑している。互いに顔を見合わせている。



「いったいどうしたの。ぼうっとしたまま、呼んでも反応がないし。心配したのよ」


「花の匂いがどうかしたのか。お父さんは全く感じなかったが」



 どうやら織斗にだけ起こった出来事らしい。まるで狐につままれたかのようだ。



「お母さんもよ。それに、ここは病室よ。匂いがする花を飾るわけがないでしょ」



 言われてみればそのとおりだった。ここはともかく、現在では多くの病院で生花の持ちこみが禁止されていたりする。花の匂いなど、するはずはないのだ。



「そ、そうだよね。ちょっと意識が飛んでいたみたい。もう大丈夫だから」



 正直に話したところで、夢でも見ていたのだろう、と言われるのがおちだ。それに、本当に起こったことなのか、自分でも疑わしく想うほどなのだ。織斗は黙っておくのが無難だと判断した。両親もそれ以上は深く追求してこなかった。



 再び織斗は視線を優季奈に戻す。


 長谷部はずっと背を向けたまま、優季奈に意識を集中している。今度は加賀が優季奈とモニターを交互に注視し、安定しない数値に険しい顔を浮かべている。



 扉がノックされ、看護師長の鈴本恵美すずもとめぐみが入ってきた。入れ替わりで看護師が一人出ていく。鈴本は三十分も経たないうちに戻ってきたことになる。


 何と大変な仕事なのだろう。織斗の中で、医師や看護師に対する深い尊敬の念が高まっていた。



 鈴本が長谷部、加賀の二人と何やら話しこんでいる。内容が気になって仕方がない。織斗の心情をみ取ってくれたのか、鈴本が顔を上げた。目が合う。



「織斗君、こちらへいらっしゃい。長谷部先生の許可をもらったから大丈夫よ」



 気を利かせてくれたのか。これで心置きなく優季奈のそばに近づける。言いたいこと、話したいことがたくさんある。織斗はゆっくりと歩み寄っていった。


 長谷部たちの邪魔にならないよう、鈴本が椅子を用意してくれている。手を伸ばせば、辛うじて優季奈に届く距離だ。



「長谷部先生、こんばんは。お疲れ様です。ありがとうございます」


「こんばんは、織斗君。どういたしまして」



 長谷部からは、いつもの若々しさが感じられない。当然かもしれない。通常の診察をこなし、それ以外の時間はほぼ優季奈につきっきり状態なのだ。顔にも疲労の色が濃くにじみ出ている。



「意識がまだ朦朧もうろうとしているから、そんなに時間はあげられないよ」



 織斗がもっと近寄れるよう、長谷部が場所を空けてくれた。


 椅子に腰を下ろし、そっと優季奈の顔をのぞきこむ。苦しそうに息をしている。目はずっと閉じたままだ。恐らく、織斗がいることにも気づいていないだろう。


 言いたいこと、話したいことがあったにもかかわらず、優季奈を目の前にした途端、全てが頭から吹き飛んでしまった。


 美那子にも約束していた。自分の気持ちは優季奈に直接伝える。今がその時なのに、言葉が出てこない。



 どれくらいの間、そうしていただろうか。織斗はふと違和感を抱いた。目の前に横たわっているのは、本当に優季奈なのだろうか。確かに姿形はまぎれもなく彼女だ。



(先ほどの花の匂いだ。それが優季奈ちゃんから。どうして、なぜ)



 香水のような人工的な匂いではない。それに、優季奈が香水など、つけるはずもない。では、どうして優季奈から花の匂いが漂ってくるのか。しかも、匂いに気づいているのは織斗だけのようだ。



(訳がわからないよ。優季奈ちゃん、早く目覚めてよ)



 織斗の意識が引きずられていく。深部へと誘われていく寸前だ。



 ベッド傍に置かれた生体情報モニタが、今日三度目となる騒々しい警戒音を響かせた。織斗は半ば強制的に現実に引き戻されていた。



「長谷部先生、心拍数が急激に低下しています」



 病室内がまたたく間に緊迫感に包まれる。看護師長の鈴本の声も、わずかながらに冷静さを失っている。



「織斗君、どいて」



 長谷部の声も切迫感に満たされている。織斗はすぐさま場所を空け、両親のもとに戻った。



「五十を切りました。止まりません」



 モニタの数値が六十を切った辺りから、下がり方が目に見えて早くなっている。



「優季奈、優季奈」



 美那子の悲痛な声だけが、やけに鮮明に聞こえてくる。織斗は思わず耳をふさぎたくなった。



「高度徐脈じょみゃくを抑え、脈拍を上げます。鈴本さん、すぐに点滴静注てんてきじょうちゅうを。加賀先生、数字をお願いします」



 幾つか用意されていた点滴パックの一つに、鈴本が迅速に針を刺し直す。加賀がこの状況下で最も最適な数字を指示した。



「点滴静注、始めます」



 長谷部はうなづきながら、モニタの心拍数以外の数値を注視している。点滴の効果が現れたら、徐脈が解消され、心拍数は安定していくだろう。それでも油断はできない。それ以外の数値に影響を及ぼすかもしれないからだ。


 長谷部が優季奈の右上腕部に圧迫帯あっぱくたいを巻きつけ、血圧を測定し始めた。モニタには血圧も表示されている。あくまで目安の数値だ。二重で確認していく。



 明らかに長谷部の顔が曇った。それがわかったのは、相対している鈴本と加賀のみだ。加賀が測定中の血圧計をのぞきこむ。



(優季奈ちゃん、頑張るんだ。ご両親も、織斗君も、皆が見守ってくれているよ)



 祈るように心の中でつぶやく。



「五十に戻りました。少しずつ回復しています」



 鈴本の安堵する声が響いた。点滴開始後、およそ五分で心拍数は上昇に転じていた。



「長谷部先生」



 加賀の声に長谷部もわずかに首を縦に振る。



 よくない状況だ。この二時間ほど、優季奈の体温は三十八度を下回ることがない。根本的な原因が不明のままの治療は困難を極めている。一つ一つの症状に対処していく。


 それしかできない。二人の共通認識だった。

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