第023話:風向家それぞれの想い

 午後七時三十分を迎えようとしている。


 美那子みなこ光彰みつあき沙織さおり利孝としたか、それに織斗おりとは交代で軽い食事を済ませ、今は佐倉家の二人が優季奈ゆきなに付き添っている。


 美那子の兄は、何かあればすぐに連絡するようにとの言伝ことづてを残し、用事があるからといったん引き上げていった。



 織斗が一度だけ病室に入った時には、優季奈は眠っていた。この二時間半ほど、わずかに目を覚ましてはまた眠る、の繰り返しだ。


 何もできないまま、控室でじっとしているのが辛い。今は長谷部や加賀を信じて、医療を信じて、朗報を待つしかない。



(一番苦しんでいるのは優季奈ちゃんなんだ。俺がもっとしっかりしないと)



 張り詰めたままの織斗に利孝が声をかける。



「織斗、少し休みなさい。そんな状態では朝までもたない」



 緊張の糸が何かの拍子に切れた途端、織斗は倒れこむだろう。子供にはその匙加減さじかげんがわからない。



「人間、休める時に休む。そうじゃないと、いざという時に何もできなくなるからな」



 加賀と同じ、父の一言で気が緩んだのか、織斗はすぐに腰を下ろした。



「お父さん、ちょっとここで寝てもいいかな」


「ああ。何かあれば、すぐに起こしてやるから」



 うなづき、母の沙織にも目を向ける。



「目が覚めたら、優季奈さんが回復していた。そうなっていることを祈っていなさい。おやすみ、織斗」



 やはり疲れ果てていたのだろう。織斗はすぐさまテーブルに突っ伏すと、あっという間に寝入ってしまった。



「無理もないね。まだまだ子供だし、私たちと同じようにはいかないね。沙織さんは、大丈夫なの」



 織斗がいないところでの夫婦の会話は、お互いに名前呼びだ。



「ええ、私は大丈夫ですよ。一番辛いのは優季奈さんとそのご両親、何も力になれないのが辛いですね」



 そんなことはないと想いながらも、わざわざ言葉にする必要はない。辛い時にこそそばにいてくれる。その存在がどれほど力強いことか。



「優季奈さん、よくなるといいね。もしかしたら、将来」


「利孝さん」



 寝ているとはいえ、織斗のいる前でする話ではない。



「済まない、こんな時に失言だったね」



 軽く首を横に振って沙織が口を開く。



「私も同じ想いだから」




 まもなく午後八時だ。


 この時間ともなると、夕食はもちろん、面会時間も終了している。静けさが漂う中、早くも眠りについている入院患者がいる。


 このまま何事もなく、また明日を迎えられたら。それが病棟にいる全ての者の願いだろう。



 現実は無情だ。


 静寂を破って、ナースステーションにナースコールが鳴り響いた。夜勤の看護師たちがいっせいに動き出す。


 沙織も利孝も急ぎ立ち上がると、控室を出て、すぐ傍のナースステーションの様子をうかがう。


 看護師の中に一人だけ、沙織の見知った顔があった。看護師長の鈴本恵美すずもとめぐみだ。二人の看護師に指示を出しながら、こちらに顔を向けてくる。



「利孝さん、織斗を起こしてください。私は看護師長さんと話をしてきます」



 こういった時の冷静さ、行動力は沙織がはるかに優れている。



「織斗、起きなさい。状況が変わったようだ」



 織斗の身体がびくっと跳ねた。わずか三十分の深い眠りは、若い織斗に回復をもたらしていた。疲れが取れ、頭も冴えている。



「お父さん、優季奈ちゃんは」


「まだわからない。今、お母さんがナースステーションに聞きにいっている。もう少し待とう」



 利孝の視線の先、沙織が看護師長の鈴本と話している。難しそうな顔を浮かべる鈴本に対し、沙織は何度となく頷いてからきびすを返した。



「美那子さんからのナースコールだったわ。優季奈さんの容態が悪化したようなの」



 悲痛な面持ちの沙織は言葉数も少なく、状況だけを手短に説明した。



「お母さん、病室には、入れないの」


「今はだめよ。これから長谷部先生の処置が始まるわ。その結果次第になるわね」



 ここで待つことしかできない。もしかしたら、このまま優季奈に逢えないかもしれない。そう思うだけで、気が狂いそうになってくる。



「お母さん、お父さん、俺、優季奈ちゃんに」



 利孝が織斗の肩に手をのせ、わずかに力をこめる。たったそれだけのことだ。織斗はそれで落ち着きを取り戻した。



「何も言わなくていい。優季奈さんとは逢える。その機会は必ず来る。医師もついている。それに、優季奈さんはこんなところで負けるような女の子じゃないだろ」



 そうだ。そのとおりだ。一番苦しんでいる優季奈が、病に打ち勝とうと一番頑張っている。弱気になっている場合ではないのだ。



「俺、加賀先生と約束したんだ。優季奈ちゃんがどんな状態になろうと、最後まで冷静に見守るって。そうじゃなきゃ優季奈ちゃんの傍にいられないから」



 利孝が織斗の肩をもう一度叩く。父の力強さが伝わってくる。



「そうか。加賀先生とな。それなら、今はどうしておくべきか、わかるな」



 頷く織斗を見て、利孝はようやく肩に乗せた手を離した。




 午後九時を回った頃だ。


 ようやく看護師長の鈴本が控室に顔をのぞかせた。弾かれたように織斗が立ち上がる。



「短い時間ですが、長谷部先生から入室許可が下りました。どうされますか」



 問われるまでもない。行くに決まっている。織斗が尋ねる。



「看護師長さん、優季奈ちゃんは、どんな容態なのですか」



 鈴本恵美は百戦錬磨だ。何度もこういった場面を経験している。だからこそ、いかなる時も冷静さを失わない。



「一進一退です。私から言えるのはそれだけです。詳しくは長谷部先生からお聞きください」



 余計な感情を廃し、淡々と事実のみを告げる鈴本の口調は、時として冷酷に聞こえるかもしれない。そうでもしないと身体はもちろん、精神がもたない。長年の経験から鈴本が学んだことの一つだ。



「鈴本さん、ありがとうございます。私たち三人は、すぐ病室に向かいます」


「ええ、それがよいでしょう。私はナースステーションに戻っていますので」



 互いに頭を下げ、別々の方向に歩を進める。



 病棟の通路は午後九時を過ぎているため、大部分が消灯されている。薄暗い中、沙織を先頭に利孝と織斗がつき従っている。三人に言葉はない。


 病室の扉前に立った沙織が軽くノックする。すぐに美那子が応じてくれた。



「美那子さん、大丈夫ですか」



 沙織たちがここに来て、既に六時間近くが経とうとしている。美那子はそれより前に来ている。大丈夫なわけがない。わかっていながら、陳腐な質問をしてしまった沙織は後悔しきりだった。



「どうぞ入ってください。優季奈に逢ってあげてください」



 作り笑いを顔に貼りつけた美那子が三人のために場所を空けた。

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