第022話:DNAR
美那子が織斗の目を
「織斗君、今から私が言うことはひどく残酷に聞こえるかもしれない。だから、気を確かに持っていてね」
いやだ。聞きたくない。やめてくれ。
織斗の意思が聞くことを拒絶している。反して、身体はその場から動こうとしない。まるで何かに
「私たちは、
わずかの沈黙の後、織斗が勢いよく立ち上がる。その拍子に椅子が後ろに倒れた。
「言っている、意味が、よくわかりません。心肺蘇生処置をしないって、それは、それって」
心臓に病を抱える織斗だ。それが何を意味するかは十分に理解できている。
「優季奈ちゃんのご両親が、どうして、どうしてそんなことを言うのですか。もし、そうなったら、優季奈ちゃんは、優季奈ちゃんは」
肩で大きく息をしている織斗に
「織斗、いい加減にしなさい。だから、加賀先生に子供と言われるのよ。美那子さんたちにとって、これがどれほど苦渋の決断だったか。愛する子供を失くしてもいい、なんて想う親がいったいどこにいるというの」
続けて美那子に問いかける。
「美那子さん、DNAR(=Do Not Attempt Resuscitate、心肺蘇生をしないこと)ですね。それを長谷部先生に告げたということは、もちろん優季奈さんとも」
美那子は言葉ではなく、首を縦に振ることで答えとした。
「嘘だ、嘘だ。そんな、優季奈ちゃんが」
織斗は叫ぶと、もはやこの場にいられないとばかりに控室から
「織斗君、待って」
慌てて呼び止めようとする美那子を沙織が制する。
「美那子さん、放っておけばいいのです。頭を冷やすための時間も必要でしょう。そのうち戻ってきます。親の私が言うのも何ですが、あの子はそこまで馬鹿ではありませんから」
やれやれとばかりにため息をつく沙織を見て、美那子は改めて実感する。初めて逢った時からの印象に変わりなく、本当に強く、素敵な女性だと。
沙織は沙織で自身に置き替えて考えこんでいる。もし織斗がその状態に陥った時、親として母として美那子と同様の決断を下せるだろうか。今はいくら考えても結論が出てこない。
「私たちは、ただ優季奈さんを見守るだけで何もできません。想像以上に辛いですね」
ふと
沈みこむ二人に、遠慮がちに声がかかった。振り返った沙織が硬い笑みを浮かべた。
「お邪魔してしまったかな。もう少し後にしようか」
沙織の夫、織斗の父の
「いいのよ。深く考えさせられることがあったから。それよりも」
美那子と利孝はこれが初対面となる。早速、挨拶を交わし、お互いの紹介を済ませる。
「ところで、血相を変えて走っていく織斗を見かけたけど、どうしたんだ」
利孝がエレベーターを降りたと同時、織斗が脇目も振らずに全速力で通路を駆けていった。呼び止める間もなく、織斗の姿は階段の向こうに消えてしまった。
「あの子なりに悩んでいるということね」
返ってきた言葉はそれだけだ。沙織の表情を見ればわかる。この話はここで終わりと告げている。
「そうか。それで、優季奈さんの具合はどうなんだい」
簡単な状況だけは沙織から知らされている。控室に皆がそろっていることからも、今は問題ないという判断なのだろう。
「先生からは今夜が峠だと言われています。私たちは最後まで優季奈を見守り続けます。沙織さんたちにはこちらからお願いして来ていただきましたが、どうかご無理をなさらずに」
美那子の言葉に、はいそうですか、というほど風向家の者は薄情ではない。
「可能であれば、私たちもご一緒できないでしょうか。私自身、優季奈さんとは初対面になります。ですが、沙織や織斗から本当に素敵なお嬢さんだと聞かされています。だからでしょう。優季奈さんを実の娘のように感じるのです」
利孝の
「時と場所を選ばずにすみません。お気を悪くしたら、
午後六時を少し回った頃だ。
ようやく織斗が戻ってきた。ばつが悪そうに控室に入ってきた織斗は、父が来ていることに少なからず驚いたものの、まず真っ先に美那子に謝罪した。
「先ほどはすみませんでした。失礼なことを言いました。俺、わからないことばかりで。ほんとに情けないです」
美那子は首を横に振ってから、織斗に尋ねかける。
「織斗君、正直に聞かせて。優季奈のことをどう想っているの」
いきなりの直球すぎる質問に、織斗は面食らうばかりだ。まさか優季奈の母から聞かれるとは想像もしなかった。置かれている状況が状況なだけに、美那子が真剣なのは一目瞭然だった。
織斗の想いは最初から決まっている。だから、織斗としての一つの覚悟を決める。
「今晩、優季奈ちゃんに直接伝えたいんです。それではだめでしょうか」
美那子は安心したのか、ほっと一息ついた。
「ええ、そうしてあげて。夫が言ったとおり、あの子はちょっと奥手だから。仕方がないとはいえね。きっと喜ぶわ」
今さらながらにどきどきしてきた。こんな状況で言うべきことなのだろうか。
何より、この一年の間、伝えようと想えば、伝える機会は何度となくあったはずだ。それさえできなかった織斗には、かなり難易度が高いかもしれない。
沙織と利孝、二人して織斗に視線を向けてきている。沙織はやや怒り気味、反して利孝は、よくやったと言わんばかりのにやにや笑いだった。
この話はここまでとばかりに、織斗は強引に話題を変える。
「俺、優季奈ちゃんのお母さんを真似て、空手を始めようと考えているんです。先ほどの正拳突き二連発、びっくりするぐらいに格好よかったです」
沙織と利孝の二人が今度は同じ表情を浮かべている。顔にはっきり書いてある。そんなこと、一言も聞いていないと。
「もう、恥ずかしいわね。昔取った
実のところ、突然の考えではない。以前から、加賀に
どの武道を選ぶか迷っていた織斗にとって、美那子の正拳突きが後押しになったことは間違いないだろう。
「初耳ね、織斗」
「お母さん、お父さん、黙っていたわけじゃないんだ。今、ここで決めたことだから。ほら、あんなすごい正拳突きを見せられたらね」
疑いの目を向けてくる沙織を利孝が
「まあ、いいじゃないか、お母さん。確かに、空手は心身ともに鍛えられる絶好の武道だしね。織斗が本気でやりたいなら、やらせてあげたらいいんじゃないかな。ところで、正拳突き二連発って」
これが一番聞きたかったのかもしれない。
「もう、織斗君のせいよ。これ、いったいどんな羞恥プレイなのよ」
沙織と織斗の視線を浴びて、顔を真っ赤にしながら恥ずかしげにしている美那子を、利孝だけが
控室に少々場違いな笑い声が弾けたのは言うまでもない。
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