第021話:小さな手を握って

 午後四時三十分を過ぎた。


 ようやく病室内が落ち着いたところで、初めて織斗おりと優季奈ゆきなのベッドのそばに近寄った。


 いつものごとく、少し離れた位置に椅子を置いて、静かに腰を下ろす。立ったまま上から見下ろすなんてできない。なぜか優季奈に対して失礼だと想った。


 眠っている姿を見ているだけなら、とても重病だとは感じられない。顔色は少し青白いものの、そこまで悪くない。織斗は何と声をかけたらよいのかわからなかった。



「織斗君、よかったら優季奈の手を握ってあげて」



 身じろぎもせず、ただ優季奈を見つめるだけの織斗に、美那子みなこが優しく声をかける。思いがけない言葉に織斗は驚いて顔を上げた。


 美那子を見つめ、それから母の沙織さおりにも恐る恐る視線を動かす。好対照の母二人、美那子は微笑を、一方の沙織は苦笑を浮かべ、共にうなづいてくれた。



 おずおずと手を伸ばす。


 後にも先にも優季奈の手を握ったのは、あの日の一度だけだ。優季奈の方から握手ということで手を差し出してくれた。二度目となる今も同じぐらいか、それ以上に緊張している。


 布団の上に出ている細い左腕を見つめる。ところどころに針を刺した跡が残り、何とも痛々しい。


 織斗はゆっくりと右手を優季奈の手に重ね、それから左手を下に入れて包み込んだ。


 こんなに小さかっただろうか。一年前には感じられなかったことだ。戸惑いを隠せない。



(優季奈ちゃん、俺に不思議な力でもあればいいんだけど。そんなものはないから、ひたすら祈るしかできないんだ。役立たずだよね。ごめんね)



 心の中でびる。ここはおとぎ話の世界ではない。織斗は至って平凡な中学生にすぎない。



(絶対に死なない。死んだりなんてするもんか。俺の天使には、ずっとこれからも微笑んでいてほしいんだ)



 二人の母親が見守る中、織斗は優季奈の小さな手を包み込み、一心不乱に祈り続ける。その想いが、温もりが伝わったのか。優季奈の手がかすかに動いた。



「織斗、君」



 唇が震え、弱々しい声がこぼれる。織斗は慌てて優季奈に視線を向けた。無理にでも微笑もうとしているのがわかる。



「優季奈ちゃんは、何もしなくていいから」



 包み込んでいる両手に少しだけ力をこめる。



「ごめんね。俺、優季奈ちゃんに、何もしてあげられない」



 織斗の声が震えている。思わず涙が出そうになる。ここはこらえる。この一択しかない。一番泣きたいのは優季奈に違いないからだ。



「泣いてるの」



 下を向いたままの織斗を心配したのだろう。



(俺の心配なんかしてる場合じゃないのに。この天使は、ほんとに)



 堪えに堪えて、織斗はようやく顔を上げた。



「泣いてなんか、いないよ」



 優季奈にじっと見つめられて、織斗は作り笑いを浮かべてみせる。感情を読み取るのが得意な二人は、やはり優季奈の方が上手だった。



「苦しそう、だよ。私、大丈夫だから。ね、織斗君」



 どうして、こんなにも優しい優季奈が苦しまなくてはいけないのか。優季奈を元どおりに治してくれるなら何だってする。命だって差し出してもいい。織斗は大声で叫びたかった。



「織斗君の手、あったかいね」



 優季奈の手はとても冷たい。少しでも温かくなるよう、隙間すきまをなくして両手で押し包む。



 どれぐらいそうしていただろうか。織斗は肩を叩かれた。



「織斗君、そろそろ代わろう。優季奈ちゃんを眠らせてあげないと」



 眠ることが回復に繋がる。織斗は素直に頷くと、包んでいた両手を離しかける。



「いやだ」



 優季奈が指を絡ませてくる。力が入らないのか、かなり弱々しい。それでも頑張って、ゆっくりと五本の指を動かしていく。



 加賀が再び織斗の肩を叩いた。優季奈の手を離さずに振り返った織斗に指示を出していく。


 言葉はない。まず、そこにいなさいと手のひらを下に向けて上下に動かす。それから自分を、次いでベッドの反対側を指差した。加賀が向こうに移動する、ということだ。織斗は理解したとばかりに再び首を縦に振った。


 優季奈の父の光彰みつあきが加賀のために場所を空け、静かに立ち上がる。美那子に受けた正拳突きの影響はなさそうだった。ひょっとしたら慣れているのかもしれない。


 加賀が素早く優季奈の容態を確認していく。生体情報モニタのあらゆる数値、点滴の量や速度、さらに追加が必要か否かなどだ。



「今は安定しています。数値にも大きな異常は見られません」



 必要最低限の言葉だった。詳細な言及を意図的にしなかったのかどうか、織斗にはわからない。ただ、先ほど加賀から聞かされた、今夜が峠だという言葉が頭にこびりついて離れない。



 織斗もまた指を絡めて優季奈の手をしっかり握りながら、何事もなく明日を迎えられるよう、ひたすら祈ることしかできなかった。



 織斗の温もりを感じて安心できたのかもしれない。優季奈は再びまぶたを閉じると、ゆっくりと眠りの中に落ちていった。


 それとともに左手からも力が抜けていく。織斗はもう一度だけ優季奈の手を握り、反応がないことを確認してから静かに手を離した。



 加賀が美那子たちと挨拶を交わし、いったん病室を後にする。恐らく、主治医の長谷部と交代するのだろう。去り際にかけてくれた言葉が何とも意味深だった。



「織斗君、休める時にしっかり休んでおく。これが鉄則だよ。今日は長くなるだろうからね」



 答えを待つまでもなく、加賀は眠っている優季奈に視線を送り、そのまま出て行ってしまった。



 時計を見ると、午後五時を過ぎている。



「織斗、私たちもしばらく外に」



 沙織に促された織斗は、加賀同様に優季奈に目を向けた。来た時と変わらない。目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。心なしか顔色はましになっているように感じた。


 病室を出てしばらく進んだ二人の背に声がかかった。



「沙織さん、織斗君、少しだけよろしいですか」



 追いついた美那子を先頭に、初めて三人で話をしたナースステーション傍の控室に向かう。


 美那子の心労はいかばかりだろうか。織斗は美那子の後ろ姿を見つめながら考える。もちろん、一番苦しんでいるのは優季奈だ。それと同じぐらいに優季奈の両親も苦しんでいるに違いない。



 控室に入ってからも重苦しい空気が漂っている。躊躇ためらっているのか、美那子は口を開こうとしない。ただ無為に時間が過ぎていく。


 沈黙に耐えられず、たまらず口火を切ったのは織斗だった。



「あの、優季奈ちゃんのことでうかがってもいいですか」



 織斗が言葉を発したことで、美那子はほっとしたような、沙織は驚いたような顔を浮かべている。二人の母親は、沈黙にどう対応すべきか迷っていたのだろう。この時ばかりは織斗が、ほんの一瞬でも救世主に見えたかもしれない。



「ええ、もちろんよ、織斗君」



 重苦しい雰囲気がさらに悪くなるのは承知のうえだ。織斗は加賀の言うところの、大人の覚悟というものを知っておきたかった。だから直球の質問をぶつけた。



「先ほど、加賀先生から聞きました。優季奈ちゃん、今夜が峠だって。それに、俺はまだ子供だから、大人の覚悟と言われても、それがどういうものかわかりませんでした」



 再び沈黙が場を支配する。


 質問が端的すぎたのだろう。美那子は考えあぐねているようだった。そんな美那子の様子を見て、黙って見ていようとしていた沙織が口を開く。



「織斗、加賀先生は具体的にどのように言ったの」



 加賀が語った一言一句を思い出しながら、沙織に説明する。



「そう、加賀先生がそんなことを。織斗は随分と信頼されているようね。大人の覚悟と子供の覚悟の違い、考えさせられるわね」



 いつもながらに、加賀はできる限りみ砕いて、言葉の粒度りゅうどそのものを小さくして織斗に話をしてくれている。これほどの先生はどこを探してもいないだろう。沙織は深く感謝している。


 それでも、中学三年生を迎えようとする織斗には、まだ難しかったかもしれない。沙織の視線が美那子に注がれる。



「私の両親、つまり優季奈にとっての祖父母は既に他界しているの。確かにそういう意味では、死に対する心構えはできているのかもしれない。それに、両親は先にくもの、というどこか勝手な想いもあるしね」



 年老いた者が先に逝く。世の常識のようで実はそうではない。世の中は不公平で成り立っている。


 先に逝く者が自分よりもはるかに年下で、しかも実の子ならば覚悟などできるはずもない。あらがって、抗って、だめだとわかってもなお抗う。それが親というものだろう。



「私たちは、優季奈の親として最後まで戦ってきたの」

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