第020話:加賀医師の言葉

 午後四時を回った。


 織斗おりとが招かれたのは、医局内にある加賀の個人研究室だった。


 鳳翼総合医療センターの医局では、それぞれの医師に机と椅子があてがわれている。基本的に科別の大部屋で、個室はない。ただし、一部の極めて優れた医師かつ研究者にのみ個室が用意されている。加賀はその中の数少ない一人だった。



 加賀に促されて織斗が椅子に腰を下ろす。見届けた加賀が早速語りかける。



「織斗君だからこそ単刀直入に言うよ。今夜が峠だと考えていてほしい。これは長谷部先生も同じ見立てだ。最悪を想定したうえで、我々は全力を尽くすよ」



 あまりの衝撃に織斗は茫然ぼうぜん自失状態におちいっている。加賀はこうなることがわかったうえで、あえて告げたのだ。織斗には絶対に必要だからだった。



優季奈ゆきなちゃんのご両親はもちろん、沙織さおりさんも覚悟はできている。言い換えれば、大人としての覚悟だ。織斗君はまだ子供だから、大人と同じようにはいかない。それはわかるね」



 わかるようで、わからない。大人の覚悟と子供の覚悟、何が違うのだろうか。今の織斗には答えなど導き出せない。



「愛する者の死を目前にした時の覚悟だ。織斗君はそのような人を亡くした経験はないね。もしかしたら、どちらのご両親にもないかもしれない。それでも大人ならば、どう対処すべきか、どう乗り切るべきか、およその覚悟はできている」



 暗に子供は無理だと言っているようなものだ。少しばかり腹立たしい。その感情が表に出ていたのだろう。加賀が言葉を継いでくる。



「もちろん、できない大人もいれば、できる子供もいる。それはね、大切な人の死を経験しているかどうかの差だと私は思うんだ」



 織斗が頭の中で咀嚼そしゃくできるまで、加賀は待つ。これもまたいつもどおりのことだ。織斗がゆっくりとうなづく。



「医師としては、死と折り合いをつけて、絶えずつき合っていかなければならない。そして、そのうち慣れてしまう」



 織斗には加賀がほんの一瞬だけ辛そうな表情を浮かべたように見えた。



「加賀先生にしては珍しいです。最後の言葉は冗談ですか」



 死に慣れるなんてあり得ない。それが今の織斗の率直な考えだ。



「織斗君が医師になれば、きっとわかるよ」



 幼い頃から加賀を見てきて、医師という職業に漠然ばくぜんと憧れを抱いていた。憧れから、本気で目指そうという願望に変わったきっかけは、間違いなく優季奈だ。


 加賀や長谷部でも治せないなら、自分が医師になって優季奈を完治させてみせる。名称はさておき、優季奈ちゃんを救う会を作ったのも、その一貫だった。



「織斗君、優季奈ちゃんがどのような状態になろうとも、最後まで冷静に見守ってあげること。約束できるなら、私が長谷部先生や優季奈ちゃんのご両親と話をして、そばにいられるよう取り計らおう」




 戻って来た織斗の顔を見て、沙織さおりは少しばかり安心した。


 色濃く浮かんでいた恐怖心が薄まっている。加賀の言葉にどこか感じるものがあったということだろう。


 沙織が目配せしてくる。織斗もわかっていた。


 見知らぬ顔が二つだ。


 いずれも優季奈のそばにいて、一人は椅子に座り、もう一人は立ったまま心配そうに見つめている。座っているのが優季奈の父だろう。立っている方はわからない。どことなく美那子みなこに似ているようにも感じられた。



「突然お邪魔してすみません。風向かざむかい織斗です。はじめまして」



 織斗は二人に向かって頭を下げた。座っていた男がすぐに立ち上がり、近づいてくる。



「はじめまして、優季奈の父の佐倉光彰さくらみつあきです。美那子と優季奈からいろいろと話は聞いているよ。織斗君、優季奈のために本当にありがとう」



 同じように頭を下げてくる光彰に織斗は慌てた。



「どうぞ、頭を上げてください。俺は優季奈ちゃんの友達として、当然のことをしているだけです」



 光彰が複雑な顔になっている。



「そうか、友達、友達か。まだ、恋人にはなっていないのか。優季奈は奥手だからなあ。それなら、どうしたら」



 言葉は強制的にさえぎられる。


 美那子みなこの見事ななまでの右正拳突きが光彰の脇腹に食い込んでいた。苦悶の表情とともに、光彰はもんどりうって椅子にしゃがみ込む。



「あなた、こんな時に何を言っているの。いい加減にしなさい。織斗君、ほんとにごめんね」



 絶句したままの織斗は首を横に振るばかりだ。そこにもう一つの声が降ってきた。織斗は思わず見上げてしまった。引き締まった身体に高身長の持ち主だ。眼光鋭く、にらみつけてくる。



「当然だ。友達ならまだ許そう。友達ならな。だが、優季奈の恋人など断じて許すまじ。もし、そんな男がいるなら、私自ら」



 続いて、左正拳突きが目にも止まらない早さで男の脇腹をえぐっていた。かえるつぶれたような声を上げて、光彰同様にもんどりうっている。



「い、妹よ、兄に容赦なく正拳突きを叩きこむとは。腕を上げたではないか。この空手馬鹿女めが」



 最後は思いきり小声だ。褒めているのか、けなしているのかよくわからない。


 美那子に兄と呼ばれた男は苦しそうに息をしながら、なおも織斗を睨んでいる。明らかに敵視されている。織斗には訳がわからなかった。



「よいか、織斗とやら。私の可愛いめいの優季奈は、私の目が黒いうちは誰にも渡さんぞ」



 なおも唖然あぜんとしている織斗の横で、沙織だけが必死に笑いをこらえている。



「兄さん、それ以上くだらないことを言うなら、病室から追い出して、金輪際こんりんざい入室禁止にするわよ」



 高級スーツを着こなしている兄は、妹の宣言に卒倒しそうになっている。どうやら、見かけと実の姿は大きくかけ離れているようだ。スーツの乱れを整えると、おもむろに言葉を発する。



「ふむ、可愛い優季奈の顔が見られないとなると大いに困るな。では妹よ、兄はしばし外で頭を冷やしてくるとしよう」



 光彰が苦しんでいる中、美那子の兄は既に立ち直り、颯爽さっそうと扉に向かっていく。



「ところで、沙織さんとおっしゃったか。風向という姓は珍しいのではありませんか」


「え、ええ、確かにそうですね。少なくとも私たちの周辺にはいません。お知り合いでもいらっしゃるのですか」



 何げない質問を返す沙織に、美那子の兄は一瞬いやそうな顔を浮かべたものの、すぐに消し去った。



「では、いったん失礼するとしよう。後ほど、また改めて」



 沙織の問いには答えず、そのまま外に出て行ってしまった。



「沙織さん、織斗君、どうしようもない兄で、ほんとにごめんなさい。優季奈を実の娘のように可愛がってくれているから気持ちはわかるんだけど」



 美那子の兄とは思えないほどに、何とも不思議な人物だ。それが沙織と織斗、二人の偽らざる印象だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る