第019話:救う会の会長
離れた場所に置いているスマートフォンが震えた。普段やりとりしているのは、夫を除けば、アクセサリー作家仲間、それに美那子ぐらいだ。
最初は作業に専念するために放置しておくつもりだった。どうせ急ぎの要件でもないだろう。その程度の考えしかなかった。
ふと手が止まる。妙な胸騒ぎがする。
明日は
沙織は腕を伸ばしてスマートフォンを手繰り寄せると、パスワードを入力して画面を開く。美那子からのメッセージだった。
この時点で悪い予感しかしない。認識は正しかった。一目見た瞬間、言葉と血の気が失せていく。何度読み返しても、内容が変わることはない。
「
沙織の緊迫感に包まれた声を耳にした織斗が、派手な音を鳴らしながら二階から大急ぎで下りてくる。
「お母さん、優季奈ちゃんが、優季奈ちゃんが」
言葉が継げない。母の顔を見れば一目瞭然だった。間違いない。優季奈の状態が悪化したのだ。
「詳しい話は車の中でするから、すぐに出かける用意をしなさい」
沙織の言葉にぎこちなく
「お母さん、何を持っていけば」
「優季奈さんのためになると思うものなら何でもいいから
それだけ告げると、沙織は早々にリビングルームを後にした。扉を出る寸前、わずかに振り返る。
「優季奈さんはもっと苦しんでいるのよ。そんなことでどうするの。しっかりしなさい」
励ましてくれている。母の気持ちがありがたい。織斗は両手で自らの頬を力いっぱい叩くと、二階に駆け上がっていった。
自室に入った織斗は手当たり次第に荷物を詰めていく。最後に机の上に置いている化粧箱を取り上げ、鞄の一番上にそっと収納した。
「優季奈ちゃん、今行くからね」
既に沙織の姿はない。織斗も慌てて玄関を出ると扉の鍵を閉め、車に飛び乗る。
沙織は車を発進させるなり、美那子から届いた内容をそのまま織斗に伝えた。隠す必要もない。織斗も知っておくべきだと判断したからだ。
「病室には入れないかもしれないわ。今の私たちにできるのは優季奈さんの回復を願って、見守るだけよ。いいわね、織斗」
母の念押しにも織斗は
最悪の事態など考えたくもないのに、そればかりが浮かび上がってくる。織斗は何度も
そこから病院に到着するまでのおよそ三十分、車内は沈黙に包まれたままだった。
ようやく駐車場に停めた時には、沙織も織斗も本当の意味での戦いはこれからだというのに、ぐったりしていた。
「たまらないわね。こんな気分になったのは、織斗が死ぬかもしれないと加賀先生に言われた時以来よ」
初耳だった。恐らく幼少の頃の話だろう。両親はあえて織斗に話さなかった。そう考えるのが自然だ。
「お母さん、ありがとう」
織斗の口をついて出た言葉は、ここでは場違いかもしれない。それでも、その言葉が最もふさわしいと想った。
「子供を想う気持ちはね、どんな親だって同じなのよ」
親子関係はそれぞれの家庭で異なる。一つとして同じ家庭はないだろう。
その程度のことは織斗でも知っている。だからこそ、余計な言葉は必要ではない。
「織斗、準備はできているわね」
織斗がこちらを見てくる。その目には恐怖心が色濃く
(仕方がないわね。身体は大きくなっても、まだまだ中身は、心は子供だものね)
織斗と同じぐらいの時の自分はどうだっただろう。沙織は愚にもつかないことを考えながら、車から降りる。釣られて織斗も反対側のドアを開けた。沙織の後ろから歩を進める。その足取りは、いかにも重そうだった。
午後三時三十分を過ぎた頃だ。
二人の姿は優季奈の病室前にあった。目の前の扉は固く閉ざされている。中からは人が動き回る音とともに緊迫した空気も伝わってくる。ノックすることさえ
到着した
意外にも、返信はすぐに来た。
扉が静かに開かれる。顔を出した美那子を見て、二人は驚くしかなかった。
「沙織さん、織斗君」
頭を下げた沙織を真似て、織斗も同じ行動を取る。わずかの間を置いて、美那子が言葉を発した。
「わざわざ、すみません。どうぞ、お入りになってください」
病室に入った二人の視線が、真っ先に優季奈に注がれる。
目は閉じている。胸の上下動は小さく、息苦しそうにも見える。右腕には点滴のためのチューブが刺さっている。優季奈の
「加賀先生、こんにちは」
加賀は優季奈の主治医ではない。その彼がどうしてここにいるのか。当然の疑問を見越して、問われる前に加賀が答える。
「つい先ほどまで、長谷部先生がつきっきりだったからね。ようやく休憩に入ったよ。その間、こうして私が診ているということだね。優季奈ちゃん、今は落ち着いているよ。今はね」
二度繰り返した。ようやく振り返った加賀が、じっと織斗の目を
「加賀先生、優季奈ちゃんは」
不安な気持ちが膨らんでいくばかりで、うまく言葉が出てこない。
これまでの経験から織斗は知っている。加賀はこのような場面で、決して
「医師として、全力を尽くすよ。織斗君には、これまでに何度も言ったね。医療は万能ではない。救えない命も多くある。悔しいが、それが現実なんだ」
加賀が同じ言葉を繰り返す。
「全力を尽くす。私が言えるのは、それだけだよ」
織斗の心は
何のために医療があるのだ。医師がいるのだ。なぜ助けられないのか。途方もなく理不尽な考えだと自分でもわかっている。わかっていながら、その考えを振り払えないでいる。
「織斗君は優季奈ちゃんを救う会会長だろ。信じて、願って、祈って、それが今の織斗君にできる唯一のことだよ」
美那子も沙織も、耳慣れない言葉に
「加賀先生、今のはいったい」
励ましのつもりでかけた言葉は、男同士の秘密だった。これはうっかりとばかりに加賀は苦笑を浮かべている。
「ああ、優季奈ちゃんを救う会ですね。昨年の初夏辺りでしたか。織斗君から思わぬ提案を受けましてね」
加賀からの一とおりの説明が終わるや、美那子も沙織も
「織斗、何をしているの。加賀先生や長谷部先生にご迷惑をおかけして」
織斗が答えるよりも早く、加賀が否定してくれた。
「迷惑なんて、いささかもありませんよ。それに長谷部先生と私は、似たようなことをしていたのですよ」
加賀の落ち着いたバリトンの声を聞くと、やはり落ち着く。あれほど
「私たちの想いは同じということです。ところで、沙織さん、少しの間、織斗君をお借りしてもよいでしょうか。話しておきたいことがあります」
話の内容は沙織には予測できた。だから、ここではだめなのか、と目で告げる。加賀はわずかに首を横に振ってみせる。
「十五分ほどで戻ります。行こうか、織斗君。大丈夫だよ。優季奈ちゃんはしばらく眠ったままだよ」
加賀が看護師に指示を与えている。それが終わると、二人は連れ立って病室から出ていった。
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