第018話:風雲急を告げる

 正午を少し過ぎた。


 優季奈ゆきなはいつもの定位置で窓の外を静かに眺めている。いつもと変わらない光景の中、今年もその時季が訪れていた。


 明日に満開を迎える神月代櫻じんげつだいざくらが、太い幹から無数の枝を誇らしげに伸ばし、見事なまでに美しい花を咲かせている。


 吹く風に揺らされ、花びらが舞う様はどれほど眺めていようとも飽きを感じさせない。静けさの中にある美しい光景だった。



「今年も見られてよかったよ。明日、やっと逢いにいけるね」



 優季奈のつぶやきを美那子みなこかたわらで聞いている。


 この一年というもの、優季奈の苦しみは尋常ではなかった。高熱に見舞われる頻度がこれまで以上に多く、入退院を繰り返すばかりだった。


 主治医の長谷部からは、このまま入院し続ける方が身体にも負担が少ない、と言われたものの、優季奈がかたくなに退院を譲らなかった。



 優季奈も主治医の言葉の意味は十分に理解している。それでも、あえて退院を選ぶ理由があったからだ。



「結局は織斗君のおうちにも遊びに行けなかったし、他にもたくさんやってみたいことはあったのに」



 かえって無理をしたせいで、織斗たちに迷惑をかけてしまったのではないか。今になって想ってしまう。



 優季奈のために、本当に多くの人が力を貸してくれた。


 現地での直接参加は叶わずとも、病院の屋上で浴衣を着て花火ができたり、遠くで上がる大玉の花火も鑑賞できた。ハロウィンやクリスマスなどには、主治医をはじめ、看護師たちがさまざまな姿に扮してプレゼントを渡してくれた。


 そこにはいつも織斗がいてくれた。優季奈はそのことが何よりも嬉しかった。



「お母さん、明日はあそこに行けるよね。この一年、本当に楽しみにしてきたから。この願いだけは絶対に叶えたいの」



 優季奈の真剣な気持ちが伝わってくる。それだけに美那子は言葉に窮してしまう。



 一ケ月前のことだ。主治医から話があるから、と夫婦そろって呼び出された。


 話の内容は予測していたとおりだった。優季奈は十年以上、完治することなく苦しみ続けている。特にこの一年の様子を間近で見てきた二人も、優季奈同様に苦しみ続けてきた。ある種の覚悟を決める必要性に迫られていた。


 優季奈は、まもなく中学三年生だ。まだまだ子供であろうとも、優季奈の人生は優季奈が選び、決める。そして、親としてやるべきことをやる。


 常にそばにいて、優季奈が望むなら、どんなことでもする。招いた結果に対しては、全ての責任を負う。それだけだ。その想いにいささかのぶれもない。


 だからこそ、優季奈に伝えた。伝えることが親としての責務でもあった。



 美那子はその時のことを思い出し、ゆっくりと言葉を選び出す。



「そうね、必ず叶えましょう。今の優季奈にとって、一番の願いだものね」



 優季奈は静かに笑みを浮かべるものの、何とも弱々しい。美那子は泣きたくなるのをぐっとこらえるしかできない。随分と涙もろくなってしまったものだ。断じて歳のせいではない。美那子は苦笑を浮かべながら、愛しい娘を見つめた。



「お母さん、どうしたの」



 優季奈が心配そうな顔でこちらを見ている。私のことなどよりも、自分のことだけ心配していなさい。心で想いながらも、優しい子に育ってくれたことを嬉しく感じる美那子だった。また涙が出そうになってくる。



(だめよ、だめ、こんなことでは)



「お母さん、ちょっとナースステーションに行ってくるから。優季奈は明日に備えて、少し休んでいなさいね」



 母が出ていくのを見送った優季奈は、今一度窓の外に視線を向けた。


 ぼんやりと見つめる先、神月代櫻が太くどっしりとした幹から大ぶりの枝を左右に幾本も広げている。まるで人であるかのごとく、こちらにおいでと両手でいざなっているかのようでもある。錯覚だ。そう想った。



 直後に声が聞こえたような気がした。あの時に感じたものと同じだ。心の中で音のかたまりが弾け、身体の中から語りかけてくる。



 刹那せつな、音の伝播でんぱは高熱を伴って優季奈をあっという間に呑み込み、むしばんでいった。


 今までに感じたこともないほどの圧倒的な激痛が全身をけ抜けていく。身体が焼けるように熱い。一瞬のうちに呼吸さえ覚束おぼつかなくなっている。


 尋常ではない急速な変化に、優季奈は思考が全く追いつかない。



「どうして、こんな、いやだよ。私、死んじゃうの」



 優季奈は息も絶え絶えに、何とか手を伸ばす。



「お母さん、たす、けて」



 ナースコールのボタンがすぐそこだ。目が霞んでくる。



「織斗君、約束、まも、れ」



 震える指先が辛うじてボタンに触れた。意識できたのはそこまでだ。


 優季奈はそのまま前のめりに倒れ込み、そして気を失った。




 ナースコール音が響き渡った。



「はい、ナースステーションです。佐倉優季奈さん、どうかされましたか」



 看護師が立ち上がって部屋番号を確認、応対するも、優季奈からの返答が戻ってこない。しばらく待つものの、無音のままだ。すぐさま看護師長に報告する。



「看護師長、佐倉優季奈さんから応答がありません」



 この時点で緊急事態だ。


 看護師長の鈴本恵美すずもとめぐみは、何やら思い詰めたように、こちらに向かってくる美那子の姿を既にとらえている。鈴本は怪訝けげんな表情を浮かべながら、嫌な予感がしてならない。



「相馬さんはすぐに佐倉優季奈さんの部屋へ走ってください。状況確認、応援が必要なら即時要請を出してください。梶井君は長谷部先生に連絡、大至急で佐倉優季奈さんの病室まで来てくださいと伝えてください」



 視線を壁の時計に走らせる。この時間だとまだ診察中だろう。申し訳ないが、緊急事態の可能性が高い現状、待っている余裕はない。長谷部が無理そうなら、加賀に頼るしかない。長谷部からは緊急時にはそのように指示されているからだ。



「梶井君、長谷部先生がすぐに対応ができない場合は、躊躇ちゅうちょなく加賀先生に繋いでください」



 指示を受けた二人が慌ただしく動き出す。恵美もナースステーションを出て、美那子を待ち受ける。



「美那子、どうしてここに。今しがた優季奈ちゃんからナースコールが来たわ。すぐに戻って」



 切迫感あふれる恵美の言葉に、美那子は思わず息を呑み込み、立ち尽くす。



「嘘、優季奈が、そんな」



 パニック状態におちいりかけている美那子を恵美が一喝する。



「早く行きなさい」



 なおも動かない美那子の頬を両手ではさみ込むようにして軽く叩く。



「母親でしょ。しっかりしなさい。優季奈ちゃんが苦しんでいるのよ。私もすぐに駆けつけるから」



 ようやく正気に戻ったか。



「ごめん、恵美、ありがとう。すぐ優季奈の傍に戻るわ」



 美那子はすぐさま方向転換、来た道を急いで戻っていく。後ろ姿を見送りながら、恵美もまた看護師長としての仕事に戻る。



「優季奈ちゃん、どうか無事でいてね」




 ナースコールからおよそ二時間が経過していた。


 壁掛け時計の針が午後三時を指そうとしている。病室内には、なおも緊迫した空気が流れている。予断を許さない状況だ。


 前のめりに倒れ込んだ優季奈に、幸い大きな怪我はなかった。額や腕の一部に擦過傷さっかしょうができたぐらいだ。ようやく意識は取り戻したものの、未だに朦朧もうろうとしている。



 看護師が駆けつけた時には、自発呼吸もできていなかった。主治医の長谷部による迅速な指揮のもと、大至急でマスク式人工呼吸器が装着された。それも今は取り外されている。


 解熱鎮痛剤げねつちんつうざいが継続して点滴処置されている。生体情報モニタには今の優季奈の状況が数値で示され、それらが刻一刻と変化していた。



 長谷部や周囲で慌ただしく動き回っている看護師たちの邪魔をしないよう、美那子は少し離れた位置から優季奈を見守っている。


 この二時間で、まず夫の光彰みつあきに病院まで急いで来るよう連絡した。光彰からは、仕事を早退してすぐに行くと返事が来た。


 懇意にしている沙織にも優季奈の容態変化を伝えた。織斗には、間違いなく沙織から伝わるだろう。状況が状況なだけに、病室に入れる保証はできないものの、もし可能ならば織斗と一緒に来てほしいとも書き添えた。



(優季奈、もうすぐ織斗君が来てくれるわ。だから、優季奈も負けないで)

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