第011話:特別な一日

 織斗おりとはその頃、優季奈ゆきなの病室前に到着していた。


 のぞきこむように顔を出す。優季奈はいつもと変わらず、窓の外を静かに眺めている。



「優季奈ちゃん、こんにちは。お見舞いに来たよ。入ってもいいかな」



 できる限り、明るくおだやかな声をかける。織斗はそう決めている。それでなくても、優季奈はほとんどの時間、病室に缶詰状態だ。


 好きなこともできず、気も滅入めいるばかりだろう。このうえ、自分まで沈んでいたら、優季奈がもっと辛くなるに違いない。



(俺が勝手に思っているだけなんだけど)



 織斗の声に優季奈が勢いよく振り返る。表情が大きく変化した。初対面時を思えば、あまりにも劇的だ。



(今日も間違いなく、天使の笑顔だ)



 織斗は嬉しそうに、心の中でだけつぶやく。優季奈のこの表情を見る度に、思わずこぼしそうになってしまう。決して口には出せない。


 優季奈の真意は、織斗にはわかりようもない。絶交されるなど、もっての外だ。こんなひと時が続くなら、我慢もできるというものだ。



「織斗君、来てくれた。嬉しい。ずっと待ってたんだよ。早く入って」



 優季奈の声が聞けただけで十分満足できる。小さく手招きしてくる優季奈に誘われるまま、織斗はベッドのかたわらに置かれた椅子を手に取る。いつものように少しだけ距離を取って置き直す。


 優季奈は優季奈で、織斗の様子を楽しげに見つめている。



(いつもだね。そうやって距離を取るんだから。織斗君って)



 とりわけ優季奈にとって、一年で最も好きな一日に織斗が見舞いに来てくれた。今日は特別な一日になりそうだ。優季奈の心は温かさでいっぱいに満たされている。



「織斗君、今日はこっちに来て」



 優季奈がいつもとは反対側の位置を指差す。



「それからね、窓をいっぱいに開けてほしいの」



 つい先ほどまで、優季奈は一心に窓の向こうを見つめていた。そこに何があるのだろうか。


 織斗は言われるがままに椅子を手に立ち上がると、まずは反対側のベッドそばに置く。もちろん、適度な距離を考えたうえでだ。それから、ゆっくりと窓に近づいていく。



 四月とはいえ、今日はいつもよりも風が冷たい。優季奈の身体に影響はないだろうか。それでも彼女が望んでいる。ならば、叶えるしかない。



「じゃあ、開けるよ。寒かったら、すぐに言ってね」



 窓を大きく開け放つ。まるで待っていたかのように、突然の風が吹きこんでくる。



「わっ」



 風の勢いに思わず目を閉じてしまう。同時に間の抜けた声が出ていた。



 手を顔の前にかざしたまま、風がゆるやかになるまで待つ。どれぐらい、そうしていただろうか。時間にして、わずか数秒といったところか。


 目をゆっくり開いた織斗の目の前に、思いもよらない光景が飛び込んでくる。それはまさに目に突き刺さってくるいう表現が適切だった。


 織斗でなくとも、これを前にしては言葉も忘れるというものだ。



 広がる光景から目が離せなくなっている。織斗が思いついた精一杯の言葉は、ただただ美しい。それだけだった。



(俺って、どうしてこんなに言葉を知らないんだろ。美しいって当たり前じゃないか。これを言い表す一番いい言葉は何だろう。もっと勉強しないとなあ)



「優季奈ちゃん」



 いまだ釘づけ状態の織斗は振り返ることすら忘れ、優季奈の名を呼んだ。


 優季奈はそこから先の言葉を待っている。


 窓の向こうを見たまま動かない織斗は一言も発しない。そんな織斗を心配して、優季奈が不安そうな声をあげる。



「どうかしたの、織斗君」



 返ってきた言葉に優季奈は心臓が跳ねた。



「優季奈ちゃん、すごく、きれいだ」



 織斗の言葉は、目の前の光景に向けられたものだ。それぐらい、優季奈だってわかっている。


 織斗は間違いなく心を奪われている。それはそれで嬉しい。優季奈も全く同じだからだ。そこに幾ばくかの寂しさを感じてしまうのは、いけないことだろうか。



(わかってるの。あれを見たら誰だってそうなるもの。でも、でもね、その言葉をね)



 自分自身でも、おかしいと思っている。こんなことを考えても仕方がないのに。それでも、ほんのわずかでも期待してしまう自分がいる。初めて抱える複雑な感情に、優季奈は戸惑いを隠しきれない。



「どうかしたの、優季奈ちゃん」



 心が乱れてしまったためか、無意識のうちにベッドの布団がとんでもないことになっている。織斗はその音で異変でも起こったのかと、ようやくにして振り向いたのだ。



「えっ。うんうん、何でもないよ、私は」



 途端とたんに優季奈の小さな可愛いくしゃみが聞こえた。織斗は着ていた厚手のパーカーを慌てて脱いだ。急いで優季奈の傍に近寄ると、小さな肩に優しくかける。



(俺、何かっこつけてんだろ。これ、めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないか)



 慌てて優季奈から離れる。



「ありがとう。優しいね」



 優季奈の小さな声は、織斗に聞こえただろうか。肩にかけられたパーカーをぎゅっと巻きつける優季奈の顔は夕焼けのように染まっている。もちろん、織斗も同様だった。



「あ、ごめん。におうかな。いやだったら、すぐに脱いでね」



 そんなことできるはずもない。したくもない。優季奈は何度も首を横に振って、いっそう強く巻きつける。



「私ね、満開に咲き誇るこの一日が一年で一番好きなの。この日のためだけに、一年もかけて準備しているんだよ」



 あの桜を見た今なら、織斗にも優季奈の気持ちが十二分に理解できる。



(優季奈ちゃんって、本当に心の優しい天使なんだよなあ)



 しみじみと実感している織斗を、小首をかしげて上目遣いで見上げてくる。



(だめだ、天使のこの破壊力)



 優季奈は視線を窓の外、咲き誇る桜に向け直す。



「ここから見える景色ってね、一年を通じて何も変わらないの。私にとって、色も臭いもない。無味乾燥っていうのかな。でも、あの桜の大樹だけは違ったの」



 織斗は黙ったまま、優季奈の言葉にじっと耳をかたむけている。



「一年でたった一日だけど、あの満開の桜だけが私に色とにおいを与えてくれた。桜の大樹を見ているとね、自分がどれほど小さな存在なのか思い知らされるの」



 優季奈が心の内を吐露とろしている。織斗にはそのように感じられた。


 ずっと一人、ベッドの上で過ごしてきた優季奈はどれほど辛かっただろうか。一緒に楽しめる友人がいたらどれほどよかっただろうか。織斗は胸が苦しかった。



「でもね、今はそれがもう一つ増えたの」



 ささやくように語る優季奈の声は、織斗の耳にもしかと届いていた。優季奈の顔はなおも赤くなったままだ。


 それって、もしかして。そうだったら、どれほど嬉しいか。心の中でそっと想うだけだ。想いを言葉にはできないし、してはいけないような気がした。



(自惚うぬぼれるな、俺。想うだけで十分だろ。もし口にして、違っていたら、俺、気が狂ってしまうよ)



 話題を変えるしかない。思った矢先だ。



 風に流され、ここまで運ばれてきた一枚の桜の花びらが窓を越え、優季奈の美しい黒髪にひらひらと舞い落ちた。


 ここまで相当の距離がある。まるで何かに導かれたかのような不思議な出来事だった。



(優季奈ちゃん、天使は天使でも、桜の天使みたいだ)



 優季奈は気づいていない。


 ほとんど白に見える桜の花びらが優季奈の黒髪に映えている。そこに天使の微笑みが加われば、織斗がそう感じたとしてもおかしくない。



 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。母親に言われた時間をわずかに過ぎている。



「あ、あの、優季奈ちゃん、実は今日なんだけど、母親も一緒に来てるんだ。優季奈ちゃんにぜひ逢い」



 この時、既に優季奈と織斗の母親はそろって病室の扉付近で、室内から聞こえてくる二人の声に耳を澄ませているところだった。


 織斗の母の沙織が頭を抱えている。その顔には、もう少し気の利いた、それでいてまともな言葉で話ができないの、と書いてある。



「えっ、織斗君のお母さんも来ているの。私、ぜひ逢ってみたい」



 さえぎるように言葉を被せる優季奈に、織斗は耳を疑うしかない。断られるのではないか。勝手にそう考えていた。優季奈の方から逢いたいと言ってくれた。織斗にとっては嬉しい誤算だった。



「優季奈ちゃん、ほんとにいいの。身体に負担じゃないかな」



 織斗は気をつかって尋ねてみたものの、優季奈は気にする素振りも見せない。



「ありがとう。私は大丈夫だよ。織斗君って、時々おじさんぽいというか、大人びた話し方をするよね。気になってたんだ。きっと、ご両親の影響でしょ」



 赤面する織斗、外にいる母親の沙織は対照的に思わず吹き出している。それを見た美那子もまた同様だ。



「すみません。お恥ずかしい限りです」



 頭を下げてくる沙織に、美那子は慌てて、小声で「とんでもないです」と返すのが精一杯だ。



「優季奈ちゃんさえよければ。すぐそこに来ていると思うんだ。じゃあ、呼ぶからね」



 織斗は小走りで扉に向かうと、顔だけを病室の外に突き出した。

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