第010話:二人の母親

 沙織さおりが再び織斗おりとと向き合う。



「二十分ぐらい経ったら、先ほどの話を切り出すの。優季奈ゆきなさんの反応を見て、織斗が判断しなさい。任せるから」



 そんな無茶なことをどうして、と織斗の顔にははっきり書いてある。それを面白そうに眺めつつ、沙織がさらに言葉を発する。



「織斗次第よ。期待しているわね。だって、お母さんも可愛い天使を見たいじゃない」



 本音はそこか、と言わんばかりに織斗が顔をしかめ、沙織をにらみつける。平然と受け流し、屈託のない笑みを浮かべている沙織に、織斗はげんなりだ。



「お母さん、病室に来ても絶対、優季奈ちゃんに天使って言ったらだめだからね。今度それを口にしたら絶交されるんだから」



 二人の会話を横で聞きながら、美那子みなこは不思議な単語に首をかしげている。



「あの、失礼ですが、優季奈と天使とか、織斗君と絶交とか、いったいどういうことでしょうか」



 当然の疑問でもある。初めて聞く内容だらけだ。優季奈の話にも一度として出てきていない。


 怪訝けげんな表情を浮かべたままの美那子に、織斗は詰まりながらも正確に言葉の意味するところを説明した。



「そう。織斗君には優季奈が天使に見えたのね。とても嬉しいわ」



 頭を下げられた。織斗は慌てて「止めてください」と口にするものの、美那子はしばらくそのままだった。



「ここだけの話にしておいてほしいの。優季奈ね、病室で一度も笑ったことがなかったの。あの子の笑顔が見たくて、何度か笑わせようとしたけどだめだった。そのうち、喧嘩ばかりになってしまって」



 寂しそうに言葉を発する美那子に、織斗も沙織も胸が痛くなっている。


 織斗は一人っ子だ。母と娘という関係が想像できない。沙織もまた同じだった。娘を授かりたいと願ったこともある。織斗に姉か妹がいたら、随分と生活や考え方なども変わっていただろう。



「でもね、織斗君が優季奈に笑顔を取り戻してくれた。織斗君の話をする時のあの子の笑顔、私がずっと見たかったものなの。だから、本当にありがとう」



 まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかった。織斗は嬉しさ半分、恥ずかしさ半分でどう言葉を返していいのかわからない。



「美那子さん、どうか頭をお上げください。私には娘がいないので美那子さんの気持ちが全てわかるなどとは申しませんが、同じ一人の母としての心中、察するに余りあります」



 織斗は先ほどから沙織の言動に驚かされてばかりだ。



(こんなお母さん、初めて見る。なんかよくわからないけど、やっぱり大人ってすごいな。俺もお母さんのような大人にならないといけないんだな)



 狐につままれたような顔で見つめてくる織斗に、沙織は軽く視線を向けて告げた。



「織斗、美那子さんの許可も得られたし、優季奈さんのお部屋に行ってきなさい。それから、時間を忘れないようにね」



 ようやく許可が出た。喜んで立ち上がった織斗が返事を寄越してくる。



「わかったよ、お母さん。二十分ぐらいしたらここに来ればいいの」



 沙織は首を横に振って答える。



「時間になったら病室の前に立っているから。優季奈さんが大丈夫なら、織斗は顔を外に出すだけでいいわ」



 織斗は素直にうなづくと、美那子に顔を向ける。



「俺、優季奈ちゃんのお見舞いに行ってきます。あの、お母さんもすぐに来ますか」



 お母さんはここに二人いる。織斗が見ているのは美那子だ。当然、自分への問いかけであり、疑う余地もない。



「私は織斗君のお母様ともう少しお話をしてからご一緒するわね。気をつかってくれてありがとう。優季奈をお願いね」



 織斗がみ込んだ言葉はしっかり伝わっていた。優季奈が心配しているかもしれない。織斗の表情を見て、察してくれたのだろう。



「先に行ってます」



 一礼して織斗が控室から出ていく。その後ろ姿を見送って、頃合いを見てからまず言葉を発したのは美那子だ。



「初めて織斗君と逢った時、とても驚いたんですよ。優季奈への接し方とは随分違っていて」



 美那子の言葉に沙織は納得したのか、小さく頷いている。どうやら織斗は沙織が望んだとおりの行動を示したようだ。


 それをわざわざ沙織は口にしない。親として、どのように子供をしつけるかは個々の家庭次第だ。口にすることで美那子の反感を買う恐れがないとも言い切れない。そこまでの危険をおかす意味もない。



 織斗は間違いなく優季奈を好いている。これは母としての直感であり、確信でもある。美那子の話を聞く限り、優季奈も少なからず織斗に好意を抱いているに違いない。そうであるならば、親があれこれとき回す必要はない。



「美那子さん、優季奈さんのご病状についてお伺いしてもよろしいでしょうか」



 初対面で、いきなり病状を尋ねるのは失礼だろう。言いたくないことも多いに違いない。そうは思いつつ、沙織はなぜか気になって仕方がなかった。



「今は血管内科で診てもらっていますが、それも最終決定ではないんですよ。優季奈の病状は特定できていないんです。主治医の長谷部先生によると、難病あるいは未知の病気かもしれないって」



 気丈にもそこまで告げると、美那子は両手で顔を覆ってしまう。沙織は聞いたことを後悔しつつ、予想のはるか上をいく内容に言葉を失うしかできない。



「織斗も先天的な病を抱え、ずっとこの病院にお世話になっています。心疾患です。優季奈さんとは比べようもありませんが、織斗には何かにつけて我慢の生活をいてきました」



 あの時、恵美めぐみたしなめられたはずの言葉がふいに口からこぼれてしまう。



「可哀相ですね」



 言ってから気づく。しまったと思った時には、沙織が即座に口を開いていた。



「私は可哀相だと思ったことは一度もないんですよ。冷たい母親だと思われるかもしれませんね。でも、それで愛する織斗の命が奪われないで済むなら、私も夫もいくらでも鬼になれると思っているのです」



 美那子は瞠目どうもくするしかなかった。


 ああ、目の前にいるこの女性は強い。人としても、母としてもだ。この強さはどこから生み出されているのだろう。素直に知りたいと思ってしまった。



「沙織さん、連絡先を交換していただけませんか。優季奈と織斗君を通してできた、せっかくのご縁です。沙織さんにはいろいろと教えていただきたいこともあります」



 断る理由などない。沙織は速やかに了承の返事を返すと、スマートフォンを取り出し、互いの連絡先を交換する。



 かくして、共通の目的を有する二人の母親、美那子と沙織はこの先、良好な関係を築き上げていく。


 もちろん、その中心にいるのは優季奈と織斗だ。

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