第008話:息子と母親の距離感
あれから、さらに一週間が
四月を迎え、日増しに暖かくなってきている。そうやって季節は変わらず巡っていく。
春休みも残すところ六日を切った。
次の診察のために鳳翼総合医療センターに出向くのは、まだ一週間も先だ。その日が待ちきれない。
「織斗、部屋の中をうろうろしないで。気が散るでしょ」
母親の
沙織はアクセサリー作家で、個展を開けば即日完売になるほどの人気作家でもある。
細かい作業をするためには集中力が必要だ。視界の入るところで織斗がうろうろ、ぶつぶつしているものだから、気が散って仕方がない。
「ここに来て座りなさい」
声の調子が一気に変わる。静かな怒りがこめられている。
風向家で誰が最も強いのか。言うまでもなく、母の沙織だ。大人しく従う以外にない。
織斗は素直に沙織が作業をしているテーブルまでやってくると、真正面の椅子に腰を下ろす。
「外に遊びに行きたいなら行ってきなさい。ここでそんなことされていたら、作業できないでしょ」
どうにもこうにも心あらずで、そっぽを向いている。
「織斗、こっちを見なさい」
怒りの度合いが一段階上がった。
とにかく沙織は厳しい。とりわけ、織斗に対する
それもこれも、大きくなった時のためなのだ。子供の成長を見守るのは、親にとって最も大切な責務であり、愛情でもある。そのうちの一方でも欠けると、不安定な人格が形成されてしまう。
もちろん、これは風向家の、沙織の理論でしかない。他の家族には他のやり方がきっとあるだろう。
言われたからか、織斗は沙織を真っすぐに見てくる。
人と話をする時は、しっかりと相手の目を見て話す。これも躾けの一つとして徹底している。沙織は満足そうに
「他にしたいことがあるなら、はっきり言いなさい。それとも、お母さんの手伝いでもしたいの」
織斗は大きく首を横に振って、即座に否定で返す。手伝いなど真っ平ご免だ。
織斗はとにかく手先が器用ではない。母の沙織とは正反対、きっと父の
(不器用なんだから、レジンなんてできるわけないよ)
今、沙織が作っているのはレジンを用いた簡単な髪留めアクセサリーだ。接着部分などにレジンを流し込み、紫外線を当てるだけで数分も経てば固定できる。
織斗は沙織の器用さを
この瞬間がたまらない。口の中で炭酸が弾けて心地よい。そこに沙織の言葉が来た。
「ふーん、そう。まあ、いいけど。ところで、
テーブル中が噴き出した炭酸で大変なことになっている。
こうなることを予測していたのだろう。沙織は作業中のレジン細工をさっと手に取り、椅子を大きく引いてテーブルから遠ざかっていた。
激しくむせている織斗の姿を、さも楽しげに眺めている。
(織斗も思春期を迎えた、ということかしらね)
「な、な、なんで、お母さんが、優季奈ちゃん、の名前を」
むせながらも何とか口にする。
織斗はまだ優季奈のことを両親に打ち明けていない。名前を知っているはずがないのだ。
「なんでって。今もうろうろしながら、念仏のようにその子の名前を呟いていたじゃない。それに、ここ一週間ほどは寝言でもよく聞くわよ」
織斗が頭を抱えてしまっている。知らないうちに独り言で優季奈の名前を呟いていたなんて。しかも、寝言にまで出てきているとは予想外すぎる。
両手の指を広げて髪をかき乱しつつ、沙織の顔を見上げてみる。
「織斗がそこまでご執心の優季奈さん、どこのどういう子なの。今すぐ説明しなさい」
微笑んでいた沙織の顔が、たちまちのうちに真剣な表情に変わる。
沙織がなぜ怒っているのか。それがわからない織斗ではない。自分から進んで優季奈の話をしなかったからだ。
両親は織斗が何をしたか、何を考えているかなど、
「黙っていて、ごめんなさい」
「よろしい」
いったん仕切り直しだ。
織斗は優季奈と病院で初めて会った日のことから今に至るまでの
終わった途端、沙織が深いため息をつく。呆れてしまったのだろう。二週間もだんまりはさすがに許容範囲を越えている。
それでも、ここで蒸し返しはしない。反省は人に言われるのではなく、自らが考えてするものだ。親馬鹿かもしれない。織斗なら、それができると沙織は信じている。
立ち上がった沙織が台所に向かう。
「織斗、そのカップを持ってきなさい」
カップと入れ替えに布巾を手渡す。汚したテーブルを
せっせとテーブルを拭いている織斗を横目で見ながら、沙織は新たなカップを二個取り出し、オレンジジュースを注ぐ。
きれいになったところで沙織はカップを持って、再びテーブルに戻っていく。二人して先ほどと同じところに座り、織斗は沙織が差し出してくれたオレンジジュースを飲む。
「お父さんが帰ってきたら、ちゃんと織斗の口から話をしなさい。いいわね」
念押しするまでもなく、織斗がそうすることはわかっている。
それにしても意外だった。
男の子の場合、ほぼ例外なく父親よりも母親に親近感を抱く。風向家ではそれが逆なのだ。織斗はなぜか父親に懐いていて、あれこれとくだらないことまで喋っている。その父親にも話していなかったのだ。
話していたら、当然沙織に伝わっている。
「うん、わかったよ」
頷く織斗に沙織は母として複雑な思いを抱いている。
思春期を迎え、子供は少しずつ親離れしていく。そのうち反抗期もやってくるだろう。やがて好きな女の子ができて、夢中になっていくのも既定路線だ。
何しろ、若かった時の自分もそうだったのだから。それは嬉しい反面、寂しくも感じるのだ。
(子供が親離れするように、親も子離れする時が来る。でも、織斗はまだまだね。しばらくは目を光らせておかないと)
「あと一週間したら診察よね。その時にお見舞いに行くのではだめなの」
もっともな言葉だ。それがごく自然な流れだ。
織斗は自分でもわからなかった。優季奈とは二度会っただけで、彼女のことを何も知らないも同然だ。まだ友達にさえなっていない。言ってみれば赤の他人に等しい。
それでも、一日でも早く優季奈に会っておかないと後悔する。そんな考えが頭をよぎるのだ。
「お母さん、俺もよくわからないよ。でも、すぐにでもお見舞いに行かないと。何となくだけど」
歯切れも悪く、その先の言葉を言い
「織斗、優季奈さんはどこの病棟に入院しているの」
沙織からの不意を突かれた問いかけに、織斗は
個室の入口、優季奈のネームプレートに何と書かれていただろうか。
「内科、血管内科だよ」
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