第006話:娘を想う母の心情

 あれから一週間が経った。


 優季奈ゆきなは毎日、ベッドの上でそわそわしている。


 今日かな。明日かな。そう思って待っていると、退屈な入院生活も少しだけましになる。何より気もまぎれてくる。


 そんな優季奈の様子は、傍目はためで見ている母の美那子みなこにも伝わってくる。



「優季奈、ちょっと落ち着いたらどうなの。身体によくないわよ」



 いつもの小言だ。それも気にならない。さらに不思議なのは、母が微笑んでいることだった。



「お母さん、笑ってるの」



 優季奈の問いかけに美那子は答えない。表情が感じ取れているなら、その必要はないということなのかもしれない。



織斗おりと君、今日あたり、顔を見せてくれるかもしれないわね」



 優季奈の表情が一瞬にして輝く。



「えっ、ほんと、それ本当なの。織斗君、今日来てくれるの。ねえ、お母さん、何か知っているの」



 機関銃のごとく、矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。



「ここは病室よ。少し静かにしなさい」



 美那子が織斗のことを優季奈の口から聞いたのは、二人が出会った翌日だ。


 優季奈が楽しそうに話すのを聞きながら、母として嬉しい反面、心配でもあった。


 優季奈の発作的な高熱はいつ始まるか全く予測がつかない。特に、今のように興奮気味の時は危険なのだ。



 美那子は母親だ。可愛い優季奈のためなら、何でもしてやりたい。できることは、何を置いても全てやる。だから即行動に移した。



 優季奈から話を聞いたその帰り道、ナースステーションに出向くと、看護師長の鈴本恵美すずもとめぐみを呼び出してもらう。


 鈴本恵美は中学校からの同級生、お互いに結婚してからも付き合いが続いている。気心の知れた親友でもある。



「ねえ、恵美、ちょっと聞きたいことがあるの」



 優季奈の話から、恐らく通院しているのではないかと当たりをつけていた。


 織斗本人か、あるいは彼の家族かまではわからない。


 優季奈が入院しているのは個室なのだ。用事もなく、子供がうろうろしているなど考えにくい。医師や看護師を除けば、患者本人か見舞いの者に違いない。



「この病院にね、風向織斗かざむかいおりと君って男の子はいるかな」



 紙コップでコーヒーを飲んでいた恵美の手がふと止まる。ちょっとした上目遣いでこちらを見てくる。他意はない。恵美のいつもの癖だ。



「織斗君ねえ。その子がどうかしたの」



 恵美は看護師長だ。内科病棟のナースステーションにいる多くの看護師を束ね、様々な情報にも精通している。それが患者であればなおさらだ。


 美那子は悟った。伊達に長年つき合っていない。恵美は知っている。



 美那子は顛末てんまつを語って聞かせた。



「そう、優季奈ちゃんがね。私もずっと心配していたのよ。ベッドにいる優季奈ちゃん、何だかお人形みたいでしょう」



 言い過ぎたと思った恵美が、いささか気まずそうに美那子を見る。その美那子は少なからず衝撃を受けているようだ。



「ごめん、美那子。ちょっと言い過ぎたかも」



 美那子も感じていたことだ。優季奈は病室で笑わない。まるで何かにじっと耐えているかのように、表情を一切変えない。


 恵美に人形みたいだと言われたことで、美那子は現実を直視せざるを得ない。



「いいのよ。本当なら、あの子の笑顔を取り戻すのは私の役目なのにね。だからね、織斗君には感謝しているのよ」



 休憩室の大きな窓の向こう、広がる風景を二人して眺める。まだ肌寒いものの、春の日差しは次第に柔らかくなっている。



「これは独り言よ。ここには誰もいない。だから、誰も聞いていない」



 二人ともに視線は窓の向こうに固定したままだ。美那子は心の中で親友に感謝した。



「優季奈ちゃんほどではないけど、織斗君もまたここの有名人の一人よ。生まれつき、心臓に問題があってね」



 紙コップに残っていたコーヒーを一息で飲み干す。



「それでも織斗君は病気に負けず、頑張っているわ。あの姿を見ていると頭が下がるわね。あの子は知っているの。一歩間違うだけで即、死につながるということをね」



 美那子は思わず両手で口を覆った。



可哀相かわいそうに」



 ささやきを聞いた恵美が顔をしかめ、即座にたしなめる。



「だめよ、そんなことを言っちゃ。大人はね、そうやってあわれみをもって接するでしょう。重い病を抱える子供にとって、一番よくないことよ」



 恵美としてではない。看護師長としての言葉だ。だからこそ途轍もなく重い。ずっしりと心の中に響いてくる。



「そうね。私たち、支える側がそんな気持ちでいたらだめよね。さすが、恵美ね」



 よしてよ、と言わんばかりにひらひらと右手を振ってくる。



「喉が渇いたわ。もう一杯、ご馳走してよ」



 いつもの素の恵美の顔に戻っている。おどけた口調でおねだりしてくる。



「もちろんよ。ブラックでよかったわね」



 珍しく、恵美が首を横に振る。



「砂糖とミルクたっぷりの甘々で」



 思わず吹き出しそうになったものの、恵美は友情を優先してくれた。看護師長という立場上、患者に対する守秘義務があることぐらい、美那子でも知っている。感謝してもしきれない。



「ありがとう、恵美。あ、そうだった。私は何も聞いていないし、何も知らないから」



 そっと二杯目のコーヒーを差し出す。コーヒーの色がわからないぐらいだ。



「どういたしまして。そろそろ行くわね」



 立ち上がり、手にした紙コップのコーヒーを一口だけ飲む。



「うっ、これは甘すぎ」



 顔をゆがめている恵美を見上げ、美那子が笑みを浮かべる。



「それはそうでしょう。あれだけ入れたらね」




 恵美と別れた美那子は、エレベーターに向かって歩きかけていた足をふと止める。虫の知らせか。あるいは、母としての直感か。


 そのまま反転すると、優季奈の病室へと戻っていく。



 見事に的中だ。病室から優季奈の楽しそうな声が聞こえてくる。


 閉めたはずの扉は、なぜか少しだけ開け放たれている。扉の前で立ち止まった美那子は、隙間からそっと中を覗き込んだ。



(あんなにはしゃいで)



 入院の度に、少しずつ笑顔を失っていく優季奈を見て、心が痛まなかった日はない。


 何とかしてやりたい。そう思っても何もできない。


 美那子は無力な自分を責めるしかなかった。ついつい出てしまう小言は、その裏返しでもある。



 優季奈のはしゃぎようを見つめつつ、美那子は椅子に座る男の子をじっと観察する。



(この子が優季奈の言っていた織斗君ね)



 後姿を中心に、少し横顔が見える程度だ。


 美那子の目は真剣そのもの、じっくり値踏みしてあげる、と言わんばかりに鋭さが増していく。


 母として当然の心情だろう。笑顔を取り戻してくれたことには最大限感謝する。


 一方で大事な娘に、どこの馬の骨ともわからない男を簡単に近づけるわけにはいかない。


 たとえ子供であろうと一切関係ない。


 美那子は様々な意味で常に最悪の事態を想定しておかなければならない。親として重大な責任がある。だからこそ、観察眼も厳しくならざるを得ない。



(配慮ができる男の子のようね。きっと、ご両親の教育がしっかりしているのね)



 扉を締めず、開けたままにしている。彼があえてそうしているのだろう。


 優季奈から距離を置いて椅子に座っていることもそうだ。病室内で騒々しく、大声で話をしていないことも好感度が高い。


 何より、彼からは優季奈の体調を一番に考えていることがうかがえる。会話の節々に、優季奈を気遣う言葉が差し挟まれている。



(織斗君ねえ。同い年でこんな子もいるのね。優季奈が気にするのも無理はないわね)



 この子なら大丈夫だろう。美那子は何も知らないふりをして、扉を大きく開く。



 優季奈と織斗、二人の驚きに満ちた目がいっせいに向けられる。


 そこからの二人の行動は好対照だった。


 優季奈はベッドの上で固まっている。帰ったはずの母親が再び病室に現れるなど、これまで一度もなかった。しかも、よりによってこのタイミングだ。


 織斗は勢いよく椅子から立ち上がっている。



「優季奈ちゃんのお母さんですか。はじめまして。俺、風向織斗と言います。女の子が一人でいる病室に入ってしまって、すみません」



 丁寧な挨拶、そして頭を下げてくる。


 優季奈はあいかわらず固まったまま、初めて耳にする織斗のかしこまった口調に目を丸くしている。


 それは少なからず美那子も同じだった。大丈夫だろうとは思っていたものの、これは想像以上だ。



「織斗君ね。こちらこそ、はじめまして。優季奈の母の佐倉美那子です。優季奈と仲よくしてくれて嬉しいわ」

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