第005話:信頼できる医師

 あれから一週間が経った。


 再び病院を訪れた織斗おりと憂鬱ゆううつな気分に満たされている。彼もこの病院の常連だということは先にも述べた。


 実のところ、優季奈ゆきなと初めて会ったあの日、織斗は検査を終えた帰りだった。



 織斗は心臓に疾患を抱えた状態で生まれた。


 冠動脈かんどうみゃく、すなわち心臓の筋肉に血液を送っている血管三本のうち、一本が極端に細くなっている。先天性の狭心症きょうしんしょう状態とも言えるだろう。


 幸いなことに、他の二本の冠動脈が通常よりも太かったため、細い一本を補ってくれている。もちろん、完璧というにはほど遠い。


 細い冠動脈が何らかの要因で詰まりでもしたら、心筋梗塞しんきんこうそくまっしぐらだ。それは死と直結することを意味する。



 そうならないためにも定期的な通院が必要で、織斗は幼少より病院通いを余儀なくされている。


 病室特有の臭いがきらいだ。未だに鼻の奥にこびりついて、抜けてくれない。もちろん感覚的なものに違いない。


 検査、診察、投薬という循環が死ぬまで続く。


 生活習慣にも最大限気を配らなければならない。中学生だからと言って、一切油断できないのだ。


 規則正しい食事に睡眠、適切な運動、さらにはストレスを避ける。そうは言っても、ストレスは目に見えるものではない。


 十三歳の織斗はまさに食べ盛り、遊び盛り、何にでも興味をもって楽しみたい年頃だ。雁字搦がんじがらめの生活を窮屈に思っている。


 輪をかけて、両親が事あるごとに口出ししてくる。自分のことを一番に思ってくれてのことだと頭では理解できている。一方で心の中で反抗する自分も確かにいる。


 複雑な年頃なのだ。




 自分の呼び出し番号が機械的なアナウンスとともに電光掲示板に点灯した。


 織斗はゲーム機を終了させ、ゆっくりと立ち上がる。


 親から口をっぱくして注意されている。一日に連続して三十分まで、通算で一時間、それが許容されているゲーム時間だ。


 最初こそ不満が爆発、親の目を盗んでゲームにうつつを抜かす、なんてこともしていた。それもすぐに飽きてしまった。熱しやすく冷めやすい織斗だ。一つのことにのめり込めない性格が幸いしていた。



 診察室の扉をノックする。


 これもまた徹底して両親にしつけられたことの一つだ。


 小さい頃は電光掲示板に番号が点灯するやいなや、猛ダッシュで扉まで走っていき、挨拶はおろか、ノックもせずに、いきなり開けて中に入っていたものだ。



「どうぞ」



 バリトンと呼ぶにふさわしい、渋さと格好よさを兼ね備えた中年男性の落ち着いた声が返ってくる。不思議とこの声を聞くと落ち着く。



「失礼します」



 織斗は中学生らしく元気よく答えて、扉を開ける。



「加賀先生、こんにちは」



 まずは挨拶からだ。基本中の基本、両親の教育的指導の賜物として、今では織斗の身体にすっかり染みこんでいる。



「はい、こんにちは。今日も元気でいいね」



 素敵な声だよなあ、といつも思ってしまう。まだ声変わりをしていない織斗からすれば、羨ましい限りだ。



「織斗君には、MRI検査を受けてもらったんだね。早速、結果から見ていこうか」



 いつものことだ。加賀をはじめ、医師が口にする言葉が専門的すぎて全くわからない。


 だから、織斗は常にペンとノートを常備している。ノートには五十音順でインデックスシールを貼っている。


 【え】のインデックスを開いて、MRIという単語を調べる。



 えむあーるあい

 MRI/Magnetic Resonance Imaging/マグネティック・レゾナンス・イメージング

 磁気共鳴画像のこと



 我ながら、呆れるほどに汚い字で書いてある。英語は難しい。もっぱらカタカナを読むだけだ。


 自分で調べたわけではない。初めて聞く医療用語が出てきた場合、躊躇ちゅうちょなく加賀に質問している。


 加賀も慣れたもので、紙に説明を書いて手渡してくれる。織斗が中学生ということを考慮してか、ごくごく簡単にわかりやすく書いてくれている。



 こうして織斗の医学的な知識は少しずつ成長していっている。


 初めてMRI検査を受けた時は驚いたものだ。


 寝かされた状態で狭いところに押し込まれ、しかも耳をふさぐためのヘッドフォンまで装着させられた。約六十分の検査時間中、とにかくうるさい音がずっと鳴り続けるのだ。


 子供ながらに、このヘッドフォン、全く役立たずじゃないか、と思ったりもした。



 加賀がディスプレイに映し出された織斗の心臓カラースリーディー画像を真剣な眼差しで見つめている。


 マウスを操作する度に、画像が角度を変えながら表示されていく。まるで動画を見ているような滑らかさだ。


 険しい表情を浮かべている。織斗はだんだん心配になってきた。



 ようやく加賀の手が止まる。ディスプレイから目を離し、視線を織斗に向けてくる。険しさはすっかり消えていた。



「うん、問題ないね。順調で何よりだ。細い冠動脈を中心に、残り二本も徹底して見たけど、異常は見つからなかったよ。大丈夫だ」



 力強い言葉に、織斗はほっと胸をで下ろす。



「心音と血圧も診ておこう」



 加賀のなすがままに診察が進んでいく。


 織斗は安堵したからか、終始笑顔が絶えない。


 たとえ、結果が悪かったとしても、落ちこんでなどいられない。病院にいる以上は、医師に委ねるしかできない。


 そのためにも信頼に足る医師と出会うことこそが重要だ。織斗は幸運だったと言えよう。



「加賀先生、質問していいですか」



 診察が一段落したところで織斗が切り出す。



「もちろんいいよ。何かな」



 この病院に通い始めてから、変わらずに加賀に診てもらっている織斗は、彼を全面的に信頼している。



「細くなっている血管が、太くなるなんてことはありますか」



 相手が子供とはいえ、真剣な質問には真剣に答える。それが加賀の矜持でもある。可能性がほとんどない場合、気休めや期待を持たせるような発言は絶対にしない。



「残念ながら、血管そのものを太くすることはできないんだ。だからね、今ある血管を弱らせないように、強くする必要があるんだ」



 加賀の説明が続く。


 織斗がお手上げだとばかりに、うんうんうなりながら考え込むと、そこで中断し、理解が追いつくまで待つ。質問が来れば、適切に答える。


 一人当たりの診察時間は限られているものの、加賀はできる限り織斗のために時間を割いてくれている。



「そうそう、さっきはMRI検査と言ったけど、正確には冠動脈MRA検査のことだよ」



 そう言って、メモにペンを走らせる。書き上がったところで、織斗に差し出す。



 MRA/Magnetic Resonance Angiography/マグネティック・レゾナンス・アンジオグラフィー

 日本語で磁気共鳴血管撮影法と呼ばれる検査方法で血管状態を詳しく調べる



 達筆で書かれたメモを恭しく受け取る。



「先生、いつもありがとうございます」



 織斗は礼を述べてから、メモを自分のノートに大事そうに挟み込む。


 これで今日の診察も終了だ。



「今度の診察は二週間後だね。そこで大丈夫かな」



 壁に貼りつけたカレンダーを確認しながら、加賀が日時を指定してくる。織斗も同じカレンダーを見上げている。



「はい、大丈夫です」



 加賀がディスプレイに映し出された織斗の電子カルテにあれこれと入力している。軽やかにキーボードを叩く音が心地よく感じられる。



「次の冠動脈MRA検査は半年後になるから、それまで無理をしないようにね。心配事があれば、すぐに電話してくるんだ。いいね」



 目力が凄い。織斗は圧倒されつつ、素直に頷く。



「わかりました」



 退室前に加賀に聞いておきたいことがある。むしろ、今日一番聞きたかったことだ。



「加賀先生、もう一つ質問したいんですが」




 午前の診察を終えた加賀がディスプレイを眺めながら、一人思案している。



 医師には守秘義務があり、それを守れないような者は絶対に医師になるべきではない。なってはいけない。


 某病院での出来事だ。一部のスタッフが勝手に患者のカルテをのぞき、あまつさえその情報を外部に流出するという、大事件が起こったことは記憶に新しい。



「織斗君の口から、この少女の名前が出てくるとは。不思議な縁があったものだ」



 映し出されているカルテには、佐倉優季奈の名前が記載されている。彼女はこの病院でも有名な患者の一人だ。


 カルテを一とおり確認、おもむろに内線電話を取り上げる。昼の休憩に入っているかもしれない。それでも構わない。



「はい、血液内科の長谷部です」



 相変わらずだ。コール音が鳴る前に、受話器が取り上げられ、いつもの声が返ってくる。


 長谷部は二歳下、大学の後輩で、同じ内科を預かる同志でもある。まるで十代のような溌溂とした声を聞くと、羨ましく思ってしまう。



「加賀です。教えてほしいことがあるんだ。今晩、いつものところでどうかな。時間は長谷部先生に合わせるよ」



 受話器の向こうから手帳をめくる音が聞こえてくる。



「お待たせしました。では、二十時でいかがですか。加賀さんは何を知りたいのでしょう」



 指定された時間は、こちらとしても好都合だ。十分に残務処理を終わらせることができる。加賀は迷わず即答した。



「佐倉優季奈さん、彼女について。今、長谷部先生が受け持っていましたね」

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