第004話:天使は微笑む

 少女がきらめく瞳で、先を続けて、と促してくる。



「何て言うんだろ。ほら、こう、左右に翼がばっと伸びていて」



 少女は身振り手振りを交えて語る少年を楽しげに見つめている。



「頭の上で光がきらきらしてるんだ。天使の頭にある、あれだよ。あの輪っかが浮かんで見えたんだ」



 これで終わりとばかりに身振り手振りも止まった。


 微笑みながらこちらを見ている少女は何も話しかけてこない。おしゃべり好きなのかと思ったものの、そうではないのかもしれない。


 そんな取り留めもないことを考えているうちに、小さな声が聞こえてくる。



「ねえ、天使って」



 言いよどむ少女を前に、少年は気の利いた言葉の一つも思いつかない。ただ黙って待つしかできない。


 うつむき加減の少女がどうしてか弱々しく見えて仕方がない。何か言葉をかけなければ、そう思ったところで、少女が静かにつぶやいた。



「天使って、何でも望みを叶えてくれるのかな」



 少年には、その静けさの中に切実な思いがこめられているように感じられた。ただの直感でしかない。



 たまらずに息をみ込む。語彙ごい力が乏しい自分を今ほど恨めしく思ったことはない。



(俺、国語だけはきらいなんだよなあ)



 馬鹿なことを考えている暇があるなら、持っている言葉の中からふさわしいものを選び出せ。少年は自分自身に発破はっぱをかける。



「そ、そうだね。天使って人間じゃないし、確か神様の使いじゃなかったかな。きっと特別な力を持っているんだよ」



 言ってから激しく後悔する。なけなしの知恵を絞ったものの、己の浅はかさだけが浮き彫りになっていく。


 中学生ともなれば、天使など存在しないと誰もが知っているだろう。たとえそれが慰めのための言葉であったとしてもだ。



 少年は恐る恐る、視線を落としたままの少女の顔をそっとのぞきこむ。心なしか顔色が悪そうに見える。



「あ、ごめん。無理させちゃったかな。病気だもんね」



 もっと話をしてみたい。


 そう思っても、目の前の少女は病気で入院しているのだ。無理はさせられない。



「うん、ありがとう。ちょっと、疲れたかな」



 顔を上げた少女と目が合う。たちまち心臓が跳ねる。



 微笑んだ顔も、今のようなどことなくはかなげに見える顔も、甲乙つけ難いほどに魅力的だ。


 どっちが好きかな。そんな他愛たわいもないことを考えながら、少年は無意識のうちに、ふと呟いていた。まじまじと見つめながら。



「可愛いなあ」



 少女のほおが、ほのかに赤らんでいく。



 またやってしまった。気づいた頃には、時すでに遅しだ。



「もう、また君はそういうことを。どうせ、他の女の子にも同じことを言ってるんでしょ」



 赤く染まった頬を膨らませつつ、不満げな声をぶつけてくる少女が何とも愛らしい。


 少年は慌てて否定の言葉を返す。



「言わないよ。言ったことなんてないから。学校に可愛い子なんて、いないし」



 少女が疑いの眼を向けてくる。無言の圧力がちょっと怖い。



「本当だってば。嘘なんか言わないよ。誓ってもいいし」



 必死になっている少年が微笑ましい。少女は小さな笑みを浮かべ、言葉を返す。



「どうかなあ。嘘じゃないのかなあ。うん、でも、信じてあげる」



 ようやく少女からお墨つきの言葉がもらえたからか、ほっと胸をで下ろす。



「ところでね。私って、本当に、その、可愛いの」



 言っておきながら、自分でも恥ずかしいのか。やや上目遣いで見つめながら尋ねてくる。この破壊力ときたら、今日一番だと言っても過言ではない。



「き、決まってるだろ」



 早口でまくしたてるように告げて、椅子から勢いよく立ち上がる。



「ごめん。疲れているのに無理させてしまって。俺、しゃべりすぎだよね。もう帰るね」



 椅子をもとの位置に戻し、背を向けて立ち去ろうとする少年を、少女は寂しそうに見送るしかできない。



「うん、私こそ、急にごめんね」



 少年が思いついたように立ち止まる。


 再び少女の方に振り向く。



「俺、風向織斗かざむかいおりと。天使の名前、教えてくれる」



 そういえば、ここまでお互いに自己紹介しないままだった。


 今さらながらにあきれつつも、少女が見せてくれた笑顔は、季節外れながら、大輪を咲かせた向日葵ひまわりのようだった。



「うん、いいよ。私は優季奈ゆきな佐倉さくら優季奈、天使じゃないからね。次、天使って言ったら、怒るから」



 織斗は素直にうなづく。



「わかった。もう言わない。病気、早くよくなるといいね」



 優季奈もまた頷く。



「ありがとう。ねえ、またお見舞いに来てくれる」



 断る理由などあろうはずもない。


 今度はちゃんと家族の人にも挨拶しないといけない。同い年の女の子が一人きりでいる病室に入るのは、やはり問題だ。至って真面目な織斗だった。



 病室を出たところで再び立ち止まり、優季奈を見る。



「また来る。さよなら、て、あっ」


「うーん」



 抑揚よくようを利かせた言葉とともににらみつけてくる優季奈が怖い。とにかく怖い。



 今しがた警告を受けたばかりなのに、早速やらかしかけた織斗は反省しきりだ。



(癖なんだよ。でも、これは直さないとなあ)



「ごめん、やり直す。また来るから。さよなら、優季奈ちゃん」



 名前を呼ぶのは何とも恥ずかしい。


 それはお互い様だったようだ。呼ばれた優季奈も恥ずかしそうにしている。



「うん、きっとよ。待ってるから。さよなら、織斗君」



 織斗が手を振りながら出ていく。


 優季奈も彼の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。



 再び病室に静寂が戻ってくる。



「楽しかったなあ。最初は緊張したけど、お話ができてよかったよ。今度はいつ会えるのかなあ」



 もう次のことを考えている優季奈がいた。




 ゆるやかに吹く風が心地よい。少しばかりの火照ほてりをしずめてくれる。



 窓際に置かれた花瓶の花が気持ちよさそうに揺れている。


 まるで優季奈に語りかけてきているようにも見える。



「えっ、今のは」



 病室には優季奈一人だけだ。周囲を見渡したところで、誰もいるはずがない。



 確かに聞こえた。


 それは聴覚からではない。直接、優季奈の心の中に響いてくるような、たとえるなら音のかたまりがぶつかったような感覚だった。


 心の中に届いた瞬間、それが言葉になってあふれ出していた。



「きっと疲れたからよね。休まなくちゃ」



 優季奈は自分自身を無理矢理に納得させると、身体を横たえる。


 布団を胸元まで引き上げ、ゆっくりと瞳を閉じる。織斗との楽しかったお喋りを思い出しながら。



 いつしか、小さな可愛い寝息が聞こえてくる。



 風に揺られる花びらは、優季奈を優しく見守っているようでもあった。

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