第003話:出逢いは最悪から始まる

 いったい、どんな笑顔を見せてしまったのだろうか。少年の顔がみるみるうちに変化していく。


 たじろぎ、硬直してしまった少年は、それから正しく三秒後、脱兎だっとのごとく逃げ出してしまった。



(な、な、なんで。えええ、どこに行っちゃうの)



 精一杯頑張って微笑んでみたのに、なぜ逃げ出してしまったのか。少女には全く理解できない。すっかり涙目で、落胆のあまり固まってしまっている。



 どれぐらいの間、そうしていただろうか。



「あ、あの、ごめん。いきなり、逃げたりして」



 扉の方から小さな声がかけられる。


 少しばかり視線を上げてみる。


 そこには逃げ出したはずの少年が恥ずかしそうに立っている。顔を上げたり下げたりして、何とも挙動不審きょどうふしんだ。



 どう言うべきか。考えるよりも先に、言葉が口をついて出ていた。



「どうして、どうして、逃げたりしたの」



 先ほどのような笑みは、もちろんない。


 再び逃げられたりしたらいやだ。作り笑いはもっと苦手、口調も至って平坦になっている。



 少年から答えは返ってこない。長い沈黙が痛い。


 ようやくのこと、待った甲斐があったのか、少年が口を開いた。



「天使が、いた」



 あまりの予想外の言葉だった。


 今度は少女が逃げ出したくなる。



「へっ」



 間の抜けた声が少女のくちびるかられ出ていた。



「怒ってる、よね」



 少年の問いかけに、少女はゆるゆると首を横に振ってみせる。


 実際のところ、自分でもよくわからない。突然逃げ出されて、悲しかったのは確かだ。


 怒っているかと言われると、そうでもないように感じる。どうにも心がふわふわしている。



「ねえ、さっきの、質問の答えは」



 小首をかしげて尋ねてくる少女のこの破壊力はいったい何だろう。少年は思わず胸を押さえてしまう。



「ど、どうしたの。胸が、痛いの」



 一転して心配そうな声をかけてくる少女の破壊力が一段階、いや二段階ほど上昇している。



「だ、大丈夫、だから」



 すかさず否定の言葉を返す。話がしたいのに、うまく言葉が出てこない。もどかしさばかりがつのっていく。



「そ、そう。よかったよ」



 安堵したのか、少女の表情が幾分柔らかくなったように見える。



「そんなところに立ってないで、中に入ったら」



 やっぱり天使だ、と意味不明なことを考えていた少年に思いがけない誘いがかかる。少年はきょろきょろと病室内を見回した。


 どこからどう見ても、病室には少女しかいない。個室とはいえ、さほど広くない病室だ。家族なり、友達なり、誰かがいればすぐにわかる。



「パジャマを着た天使が一人でいるのに」



 何も考えず、思ったことをそのまま口にしていることにようやく気づく。口をつぐむには遅すぎた。



 少女の鈴を転がしたような、それでいて可愛らしい笑い声が病室に響く。



「君って、面白いね。私、天使じゃないよ。それでもよかったら、中に入って」



 左ほおに小さなえくぼができている。少年の中で、さらに天使度が上がった。



「そんなところにずっと立っていたら、病院の人に不審者だと思われちゃうよ」



 躊躇ためらわずにはいられない。女の子が一人でいる部屋なのだ。男の自分が入って行くなんて、どうなのか。



「誰もいないし、遠慮しなくていいよ」



(だから、困るんだよ)



「それとも、何か変なことでも考えているのかな」



 少年の顔がたちまちのうちに赤くなっていく。その言葉を口にした少女も同様だ。



「もう、恥ずかしいことを言わせないでよ」



 はにかんだ少女の表情を目にしてしまえば、文句などつけられるはずもない。照れ隠しもあったのか、少年はぶっきらぼうに告げた。



「じゃあ、入るから」



 何度来ても、病室特有のにおいにだけは慣れない。実のところ、少年もまたここの常連なのだ。



「うん、どうぞ。適当に座ってね」



 少女がベッドそばに置かれた二脚の椅子を指差す。


 選ぶまでもない。少年は少女との距離を考えて、遠い方の椅子を手に取る。さらに、もう少しだけ距離を置く。それから遠慮がちに腰を下ろした。



 少女がまたもや小首をかしげ、少年をじっと見つめてくる。少女の黒い瞳がきらきらと輝いて、いっそう魅惑的に見える。



「さっき言ったこと、気にしてるの」



 少女の問いかけも耳に入ってこない。じっと見つめてくる瞳に、ただただ吸い込まれていきそうになっている。



「やっぱり、天使だった」



 窓からの光は、ちょうど少女の後方から差してきている。光が照らし出しているのは、少女の背中から頭部にかけてだ。


 少年の目にははっきりと映し出されていた。



「君、どうしても私を天使にしたいようだけど。頭、大丈夫かな」



 遠慮のない、きつい言葉を投げかける少女なのだった。



「そう見えるんだから、仕方ないじゃないか」



 初めて反論が来た。少年はわずかに頬をふくらませて抗議の声を上げている。少女は驚きつつ、興味深そうに少年の顔を凝視した。



「じゃあ、聞かせて。君には、私がどう見えているの」



 腕を組んだ少年が、しきりに頭をひねっている。言葉にすることに躊躇ためらいはない。ただ、ふさわしい言葉が見つからないだけだ。



「うーん、うーん、難しいなあ」



 うんうんうなっている少年が何だか可愛く思える。



「ちゃんと言葉にしてくれないとわからないよ。それに、何だか、おじさんぽいね」



 再び反論の言葉だけが返ってくる。



「はあ、どこがおじさんだよ。俺、まだ十三歳なんだけど」



 少女が少しばかり驚いた表情を浮かべている。



「えええ、君、十三歳なの。見えないよ。じゃあ、この春からは中学二年生ってこと」



 あからさまに疑っている眼だ。



「な、なんだよ。本当だぞ。まあ、十三歳といっても、三月生まれだからさ。四月生まれの同級生と比べたら、ほぼ一年違いになるけど」



 なるほどと合点がてんがいく。最初、幼く見えた感覚は正しかった。



「私もね、君と同じ、十三歳なんだ。四月になったらすぐに十四歳になるんだよ。だから、私の方がお姉さんだね」



 病人とは思えない。屈託のない笑みを浮かべる少女に、少年の視線は釘づけ状態になっている。ならざるを得ない。



「お姉さんって、同じ学年だろ」



 抗議の声は受けつけないとばかりに、華麗に無視して少女が続ける。



「それでね。さっきの質問だけど。二つになったね」



 天使の笑顔が小悪魔のそれに変わる。瞳に吸引力でも備わっているのか、逃げようがない。



 少年は覚悟を決めて、素直に気持ちを吐露する。



「最初に謝る。逃げてごめん」


「うん、素直でよろしい」



 二人で顔を見合わせる。


 それから同時に吹き出す。



 病室が似つかわしくない笑い声に包まれた瞬間だった。

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