第一章

第002話:黒髪の少女

 ゆるやかに吹く風が心地いい。


 窓際に置かれた花瓶の花が気持ちよさそうに揺れている。


 つややかな黒髪の少女が一人、病室のベッドで半身を起こしていた。窓の向こうを眺めている横顔が、いかにも寂しげに見える。


 透き通るような白い肌に似合わず、深い影を落としている。


 忙しい中をって、毎日見舞いに来てくれる母はつい先ほど帰ってしまった。無意識のうちに深いため息が出てしまう。


「お母さんと、また喧嘩しちゃったなあ」


 母の小言が自分を思ってのことだと子供心に理解はしている。それが病室に訪れるなり同じ言葉の繰り返しとなると、いい加減に鬱陶うっとうしくも感じてしまう。


「なりたくて、こんな身体になったわけじゃないのに」


 母がいなくなってからも、心あらずな状態が続いている。窓の向こうに見える景色を、ただただ見つめるだけだ。


 ここから見渡せる景色はいかにも殺風景で、四季ごとの簡単な表情しかない。



(あそこに、行けたらなあ)



 遠くに見えるそれを思いながら、少女は心のうちでそっとつぶやいた。



 少女が三歳になったばかりの頃だ。


 突然の高熱に見舞われた。


 両親の機転で即座に救急車が呼ばれ、何とか一命だけは取り留めた。医師曰く、あと一時間遅かったら死んでいたとのことだった。


 当時の記憶は全くない。


 色々な病院で何度も精密検査を受けた。結論だけを言えば、原因は不明、現代医学ではわからない、というものだ。


 それ以来、発作的な高熱が頻繁ひんぱんに襲いかかってくる。全身がむしばまれ、耐えがたいほどの激痛が走る。


 いったい、何度泣いたことか。あまりの辛さに死にたいと願うこともしばしばだ。


 そのたびに、いやいやながら病院に運び込まれ、長期間の入院を余儀なくされた。



 同年代の子供たちが保育園や幼稚園、さらには小学校に通う中、黒髪の少女の指定席は病院のベッドになった。


 幼稚園や小学校に通ったこともある。いくら頑張ってもだめだった。一週間ともたずに、身体が悲鳴をあげてしまう。


 他の子供たちが所狭しと園庭を走り回ったりする中、少女だけが取り残されていった。最初は寄り添ってくれていた子供たちも、一人また一人と離れていく。


 最後の一人が離れていき、完全に孤立してしまった少女は、通うこと自体をやめてしまった。皮肉なことに、この時ばかりは身体の不調が都合のいい言い訳になった。



 状況が好転するとは、とてもではないが思えない。それこそ奇跡でも起きない限りは。


 中学校までは義務教育とはいえ、まともに通うことさえ難しいだろう。少女は心のどこかで覚悟し、あきらめている。それが表情になって如実にょじつに現れている。



 そんな少女をなぐさめる唯一のものがある。


 少女が行きたいと願う場所がある。


 先ほど、ここから眺める景色は殺風景で、と言ったが、この部分だけは訂正しておこう。


 一年に一度、まもなくその時季が訪れる。待ちに待った、少女の一番好きな春が。春に生まれたからという理由もあるかもしれない。


 春は出会いと別れの季節、少女にとっては嬉しさよりも悲しさの方が大きい。重い病にかかった患者が入院する病棟では、元気になって退院していく方が少ないのだ。



 少女のベッドから窓越しに見える。


 遠く離れた場所、ちょうど小高い丘の上に雄大な一本桜がそびえ立っている。


 樹齢はどれぐらいだろうか。数百年か数千年か、少女には想像もつかない。それが今の少女の心を慰めてくれる唯一の風景だ。


(咲いてくれて、嬉しいよ。ありがとうね。次の季節も、無事に見られるかな)


 ほんの束の間、咲き乱れる桜の花だけが心の癒しとなっている。



(あの桜に比べたら、私の人生なんてちっぽけだもの)



 四月になれば、すぐに十四歳の誕生日を迎える。普通に通っていたなら、中学校二年生だ。



(私、あとどれぐらい生きられるのかな)



 風とともに、柔らかで優しい光が降り注いでいる。少女の肩先まで伸びた美しい真っすぐの黒髪に映え、まるでそこだけが幻想的でもある。


 どれぐらいの時間、外を眺めていただろうか。


 病室の空気が少しだけ変わったような気がした。自分の方に視線が向けられている。


 入退院を繰り返す中、少女は大人たちの視線に敏感になっていった。ならざるを得ないと言った方が正しい。医師、看護師、両親、病室を訪れる見舞いの人たちなどだ。


 視線だけではない。


 そのうち、心の中の想いまでが少しずつわかるようになっていった。そこには様々な感情がこめられている。単純なものから複雑なものまで、本当に多種多様だ。


 今、感じている視線と感情は、これまで経験してきたもののどれにも当てはまらない。初めて受け取るものだった。


 少女は窓の外に向けていた顔を、あえてゆっくりと戻す。そうしないと逃げてしまう。そんな気がした。


 向けられている視線に応じるのが、少しだけ怖いような気もする。


 反面、興味もいてくる。病室に閉じこもって退屈な日々を送る少女にとって、久しぶりに芽生えた感情だった。


 深呼吸を一つ、今度は視線が待つ方向に顔をひねっていく。先ほどよりも、ずっとゆっくりと。



 お互いの目が合う。



(えっ、子供、なの)



 感じる視線だけでは、大人か子供かまでは判別できない。少女はてっきり大人だと思いこんでいた。だからこその驚きでもある。



(可愛い。でも、男の子、だよね)



 開け放ったままの扉の向こう、一人の少年が立っている。中性的な顔立ちをしている。


 見た感じだけなら、どちらとも取れそうだ。年齢はわからない。やや幼く見える。少女よりも年下だろうか。


 しばらく、きっかけがないままに、じっと見つめ合う。


 何とも奇妙で不思議な時間だけが流れていく。どちらが先に視線を切るのか。そんな勝負にさえなってきている。


 はたから見れば滑稽こっけい、この子供たちはいったい何をしているんだ、となっているに違いない。



(ど、どうしよう。こういう時って、どうすればいいのかな。初対面だし、挨拶するべきなのかな。わからないよ)



 戸惑うのも仕方がない。何しろ、同じ年頃とおぼしき少年と見つめ合うなど、少女にとって初めての経験だ。


 このままではらちが明かない。


 少女は意を決した。思い切って声をかけてみる。



(すごく勇気がいるんだよ。まずは笑顔、それから挨拶、だね)



 布団の下に隠れた小さな両手の拳を、よし、と言わんばかりに握ってみる。それから慣れない、苦手な笑みを浮かべてみる。



 直後にそれは起こった。

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