月下に桜花濡れて天使降る

水無月 氷泉

序章

第001話:遠景

 ベッドのかたわらに置かれた生体情報モニタが、何度目かの騒々しい警戒音を響かせた。


 懸命に処置をほどこす医師に向かって、少年が何やら大声で叫んでいる。



(私、まだ死にたくないよ。お願い、もう、少しだけ)



 少女は少年に向かって手を伸ばそうとした。

 


(ごめんね。明日、約束、果たせ、ない)



 少女の全身から力が抜けていく。


 そして、意識が遠のいていった。




「だめだよ。一人で行かないでよ。約束、したじゃないか」



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 悪夢にうなされていた。寝巻に汗がびっしりと貼りついている。



(また、この夢か。もういい加減にしてくれ)



 いつもの起床時間には随分と早い。この夢を見たが最後、これ以上は眠れない。


 嫌なことだ。何度も繰り返して見ているせいか、悪習慣になってしまっている。



 風向織斗かざむかいおりとは布団を勢いよくいで、ゆっくりと立ち上がった。


 ベッド横に置いているカップから水を一口含み、寝巻を無造作に脱ぎ捨てる。



 あの日を境にして、織斗は変わってしまった。


 あふれるほどの後悔が自身をさいなみ続けている。言いたくても言えなかった言葉は、今も胸の奥深くに突き刺さったままだ。



 織斗は緩慢かんまんな動作で窓を開け放った。


 部屋にカーテンはない。暗闇が怖い。全てを連れ去っていく。


 少しでも明かりがないと眠れなくなった織斗にとって、外の薄暗さは心地よく感じられた。



 吹き込んでくる風が、火照ほてった身体をましてくれる。


 タオルで汗をぬぐった織斗は、着替えを済ませると、しばらく窓際でたたずんでいた。



 焦点の合っていない目は、ただただ遠くを見つめている。


 何の問題もない。


 脳裏には、ある光景がはっきりとうつし出されている。



 小高い丘の上、一本桜の巨樹きょじゅがその姿を威風堂々いふうどうどうと見せつけている。


 大地に広く、深く根差した推定樹齢千五百年とも二千年とも伝えられるこの荘厳そうごんな桜は、神月代櫻じんげつだいざくらと称されている。



 月の光に照らし出された神月代櫻は、まさに今日、満開を迎えようとしていた。




 もう一度、逢いたい。



 心からの願いは、もはや叶わない。



 あれから三年がった今も、神月代櫻は何も変わらない姿を誇示こじしている。



 ただ、そこに少女が、いないだけだ。




 織斗は脳裏に浮かぶ神月代櫻を見つめ、肺いっぱいに冷たい空気を吸い込む。


 それは自分自身を痛めつけているかのようでもあった。




(俺の天使は、もうどこにもいないんだ)

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