第4話:青の別離①


 家には帰れない。だがこんな状況で、友達の家に行く気になるわけもなく、直輝は気が付けば一人になれる場所へとむかっていた。


 同じ町内にある森のふもと、その昔、神が腰かけたといわれているという立札が飾られた岩の上に座り込み、大きくため息をつく。


 虫の鳴き声、鳥のさえずり、風がそよぐ音。ここには直輝の心を塞ぐ雑音はない。だが心の中ではいろんな声がせめぎ合っていた。


 父と母は離婚してしまうかもしれない。父はどうしてあぁなってしまったのだろう。父があんな風にならなければ、母も少し気の強いだけの母でいてくれたのかもしれない。……律。律がいなければ、何か変わっていたのだろうか。


 そもそも律と出会っていなければ……。三年前のあの日、マンションの近くでうずくまっていた律を無視して通り過ぎていれば、こんなふうな未来にはなっていなかったのだろうか。


「ナオくん……」


 律のことを考えていたので、聞こえてきたその声は空耳かと思った。か細い声にふりむくと、そこには律が途方にくれたような目をして立っていた。


 レースがふんだんにあしらわれた裾のふっくらとした愛らしいスカートに、それに似合うフリルのついた靴下。しかしここに来るまでに転んだのだろう。一昨日買ってもらったばかりだと喜んでいた小さな黒い靴は泥だらけで、袖口や靴下にも泥がたくさんついてた。そして、そんな様はいたって普通の幼い女の子で、確かに尋常ではない容姿ではあるが、父の言う、表情や所作がどうなどということはやはり理解できなかった。


「どうしてこんなところに来たんだ」


 一人になりたくて来たのに、なぜここに律がいるのか。声に苛立ちが混じっていて、律を怯えさせることはわかっていたが、直輝は感情のまま突き放すような言い方をした。


「寂しくてナオくんの家に行こうと思ったら、ナオくんがどこかに行くのが見えたから……ついていこうと思って」


 無邪気な答えだが、それはさらに直輝を苛立たせただけだった。


「それで? もし迷子になったり誰かに連れ去られたらどうするつもりだ? 一人で出かけるなと言われているだろう? 俺を追いかけてくるなんて迷惑だ。もし律に何かあったら俺のせいにされるじゃないか」


 律の顔が悲しみにゆがむ。だが、直輝の鋭い言葉は止まらなかった。


「だいたいいつも一緒にいてやっているが、俺が律みたいな子供と一緒にいて楽しいわけないだろう? いやいや一緒にいて楽しいフリをしてやっているんだから、たまには一人にさせてくれよ」


 言葉にしてみて初めて分かる。あぁ、本当はこんなことがいいたいんじゃないと。


 でも今は、むしゃくしゃして、すべてを誰かのせいにしたくて。母の言った通り、すべてを律のせいにしてしまえば話は簡単で、この幼くて愛らしい存在を傷つけたくてたまらなかった。


「ナオくん……」


 律は泣いてどこかにいくと思っていた。


 このまま一緒にいればさらに傷つけてしまいそうな気がして、早くどこかへ行ってくれと思っていたのに、それでも律は怖がらずに直輝のところにやってきた。そしてその小さな手でそっと直輝のシャツの袖を握った。


「りつのこときらいなの? どうしたら好きになってくれる?」


 泣くのをこらえながら、大きな瞳で律は健気に問いかけてくる。直輝は自己嫌悪に陥りながら、そんな気分にさせる律が心底鬱陶しいと思った。


「うるさいな。あっちへ行ってくれ」


「だめ。りつはナオくんがりつのことを嫌いでも、りつは好きだから、ここにいる」


 今まで律にこんなにひどい態度をとったことはない。なのにそれでもひるまず慕ってこようとする。そしてそんな律の好意をどこかで喜んでいる自分が、父の律に対する偏愛を思い出させ、直輝は心底ぞっとした。だからこそ――やはりすべての原因は律なのではないかと思う。


 そうだ。――教師が悪いんじゃない。父が悪いんじゃない。そして、自分が悪いんじゃない。


 律に自分の家族を、そして自分の未来をこれ以上惑わされることはあってはならないと、直輝は思った。


 直輝は立ち上がり、律からはなれるため、森の入り口の方へと体を向けた。そしてそこで、あの青い鳥居のことを思い出す。


 ――そうだ、律などいなくなってしまえばいいのだ。


 ふと直輝の心に影がさす。だがその時の直輝には、今の窮状から抜け出す救いの光のように思えた。


 律がいなくなってしまえば、父もきっと正気を取り戻すだろう。……おそらく自分も。


 律はどこか普通と違う。そばにいればよく分かる。幼いのに……ただの子供だというだけで片付けられない、何か人を惹きつける力がある。教師も父も、そしてきっと自分も律の悪魔のような力にたぶらかされただけに違いないのだ。


「律、ちょっとここを散歩してから帰ろうか」


 今までずっと険しい表情だった直輝はいつもの優しい笑みを浮かべて律に向き直った。


 律は心配そうな眼差しではじめ直輝を見ていたが、微笑みかけられて嬉しいのか、満面の笑みを浮かべながら直輝の手をとった。


「ナオくん、元気でたの? 変な顔、してあげるよ? 笑って?」


 律はいつも直輝の気分に敏感で、そして一生懸命だ。そんな律をとても愛しいと思う。どういう意味で? そんなことは分からないが、そのせいで父のように言われるのであれば、律などいなくなればいいとさえ思う。愛しくて、こんなに疎ましくて苛立たせられるのに、あぁ、自分の頭の中がよくわからない。


 だが律がいなくなれば、こんなふうに悩むこともなくなるのだろう。

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