第3話:崩壊の日③
常に律と一緒で、どの女子を見ても律と比べてしまうことはあるが、律のことをそういう意味で好きかといわれるとよくわからない。だが、そういう意味で好きになってはいけない、好きだと周囲に誤解されてはいけないのだと直輝は以前から薄々感じていて、その感覚が間違いでなかったことをこの時痛感した。
「ほうら直輝。これを見れば、子供を好きになることがどれほどおかしいことか、意味がわかるんじゃない?」
「やめてくれ!!」
ずっと力なく直輝と妻とのやりとりを傍観していた父が、声を荒げた。しかし父の懇願もむなしく、母はのびてきた父の手をふりはらうと、呆然とする直輝にスマホの画面をつきつけた。
そこに映っていたのは、何の変哲もない写真。
幼い少女がはにかみながら、隣に立つ影を見上げている。
幼いながらも愛らしさだけではなく、朝日に照らされた美しく端正な横顔は見る者の視線を引き寄せる引力を持っている。
律と直輝の朝の登校時に撮ったのだろう。律の隣に立つ直輝はほとんど見切れていて、この構図の中心は明らかに自分の息子ではなく、上司の娘だった。
だがほほえましいと思って写真をとるくらい不自然ではない。息子しかいない家庭で、本当は娘もほしかったんだと、通勤時にたまたま見かけた近所の子供の写真をとって愛でることくらいあっても、不自然ではあるが不思議ではない。時折父は直輝たちよりも早く家を出ることがあるのだが、まさかこんな隠し撮りをするためだったとは思えない。
だが。どうしてかわからないが、たった一枚の写真を見ただけで、指がふるえてきた。その指で次の写真をスライドする。律が直輝の家で夕食を食べている時のものだ。めったにあることではないが、父が早く帰ってきて、たまたま律が夕食をここで食べていることもあった。おそらくはその時の写真なのだが、リビングの外から撮ったらしいアングルで、隣の直輝に一生懸命何かを話している律の横顔や、テーブルの上のハンバーグを不器用に切り分けようとしている姿が写っているものもあった。
そしてどの写真の主役も律だった。だが、きっと娘がいる家庭の写真をとってみたかっただけなのだろう、と直輝は考えた。だが指は震えたままで、直輝の動揺をそのまま表している。
写真をいくつもいくつもスクロールしていく度に、直輝の中で写真に対する言い訳が量産されていく。
だが。まだ子供である直輝が見てもわかる。
これらの写真はそういうものではなかった。
どれもこれも、律の写真。マンションの部屋の前で寂しげにたたずむ律。雨の中、空にむかって手をひろげて笑っている律。散歩帰りの住人の犬をおそるおそる撫でようとしている律。
いつ撮ったのか、どれもすべて目線はこちらにはない。
「父さん……」
直輝の口から洩れたのは失望の声。
どの写真も見ている方が恥ずかしくなるくらいに、滑稽なほどの愛に満ちていた。そう、家族のそれではなく、執着をまとった偏愛。まだ愛の何も知らない直輝でも、その尋常ではない枚数から、狂気じみた思いは伝わってきた。
息子に知られたことに絶望したのか、父は床にがくりとひざとつき、「違うんだ……」と言い訳を口にしようとする。直輝はそれを遮るように「異常だ」と口にしていた。
「父さんはおかしい。気持ちが悪いよ」
言った途端、母が直輝の肩を抱いてきた。
「よかった。直輝は母さんの味方よね」
母は満足そうな笑みを浮かべると、「でも」と言葉を付け加えた。
「噂で聞いたんだけれど、直輝の学校の先生で、飛び降り自殺しようとした先生がいたんですって? なんでも氷上事業部長の娘さんがそもそもの原因だとか。もう直輝もあの子には近づかないでほしいわ。……たぶらかされた方も悪いけれど、こうも男をたぶらかすなんて、諸悪の根源はあの悪魔の娘なのよ」
母は直輝に、「もう会わないと約束して頂戴」と、硬い声音で約束を強要してきた。
その迫力にうなずくしかできない直輝から、彼女は夫に視線を移す。
「離婚して頂戴。異常者と一緒には暮らせないわ。直輝のためにも。直輝はこれからの子なの。昇進も閉ざされているうえに、小児性愛者のあなたとは違うのよ」
離婚を切り出された父は、その場に崩れ落ちた。そして「違う」と何度も繰り返す。
「私は小児性愛者などではない。あの子だけだ。あの子しか愛していない!」
離婚と言われたことに絶望しているのだと思った。だが、違ったのか。父の言葉は小児性愛者と言われたことに対して憤っているように聞こえ、直輝は失望する。
「どうしてあの子の美しさ、魅力が分からない? 容姿だけの話じゃない。言葉は無邪気で素直なのに、表情や所作はこの世界のどんな女性よりも洗練されていて美しい。直輝、いつも一緒にいるお前ならわかるだろう?」
父は病んだ眼差しを直輝に向けてくる。直輝の隣で、母は怒りと夫に対する軽蔑で震えていた。
律が無邪気で素直だからかわいいということは理解できる。だが、父の言うことはまったく理解できなかった。大人になれば理解できるのだろうか。だがこんな風になるのならば、永遠に理解できなくてもいい。
黙り込む直輝に、父はなお、「お前は恵まれているくせに」と恨めしげに言い募った。
「あれだけあの子に慕われ、すがりつかれて、さぞ満足だろう? どうしてお前なんだ。私じゃない? あぁ、私はお前になりたい。直輝、お前に生まれ変わりたいんだ」
狂っている。
そう思ったのは母も同じだったようだ。だが慄く直輝と違って、何故か母親は直輝に笑みを向けてきた。
「ほうら、賢い直輝になら、わかるでしょう? あの娘は人の魂を蝕むガンなのよ。今すぐあの子との交流を絶ちなさい。でないとこんなクズに成り果てるわよ」
そして、直輝の足元にすがりついてくる父を、母は足蹴にしながら、「クズが」と連呼する。
地獄のような光景に、直輝の目から涙が溢れてきた。
これは夢なのだろうか。
昇進の遅い父に文句を言いはするものの、それなりに仲の良い両親に見えた。母のきつい言動に傷ついていただろうが、父は愚痴を返すものの軽く受け流し、何よりもふたりとも、一人息子である自分を愛してくれていた。
そう、思っていたのに。すべては幻だったのだろうか。
夢なら醒めてくれ。
父と母を振り払い、直輝は家を飛び出した。
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