第3話:崩壊の日②
律はしぶしぶといった感じで笑顔をつくり、その無理をしている感じが愛らしくて直輝は思わず苦笑をもらす。笑って、とお願いすれば律はいつでもどんな時でも無理をしてでも直輝のために笑顔をつくってくれる。どんなにわがままだろうと、その一生懸命な愛らしさですべてが帳消しにできるのだから、まったく得なものだ、と思う。
「そうだよ、律は笑顔が一番かわいいんだからいつもそうしておいで」
直輝は自分のシャツをつかむ律の手をつかみそっとそこから離すと、途端に心細げな眼差しを向けてくる律の頭をぽんとたたいた。
「じゃぁな、また明日」
律の気持ちを慮っていてはいつまでたっても家に帰れそうにない。直輝は元気のない律が気がかりではあったがひらひらと手を振って、ドアの隙間から大きな飴色の瞳でこちらを見送る律に背を向けた。
エレベーターに乗り込み、我が家の階のボタン押すと、壁にもたれ「ふぅ」と思わずため息をもらす。
律にまとわりつかれて一日を過ごすのも複雑な気分だが、家に帰るのもためらいがある。直輝の母はこの四月に父が昇進しなかったことに大いに苛立っているらしく、数か月たった今でもそれがおさまる気配はない。
今日もどうせ、ため息交じりに父の愚痴をきかされることになるのだろう。憂鬱な気分になりながらエレベーターを降り、我が家へと歩を進める。そして家に帰りドアを開けた瞬間、言い争う男女の声に、直輝は思わず息をひそめた。足元を見ると父の靴があり、どうやらこんなに早い時間なのにもう帰宅しているらしい。
普段であればまだ仕事のはずなのに、ヒステリックに叫ぶ母の声に淡々と対応しているのは間違いなく父だ。不審に思った直輝は気づかれぬようそっと玄関のドアを閉め、リビングへと近づくと、ガラス越しに二人の様子を眺めた。
「どういうことよ!! 気持ち悪いわ!! あなた頭がおかしいんじゃないの!?」
母の金属を叩いたような耳障りな声が自分の名を告げたことにどきりとしながら、直輝は飾りガラスのわずかな隙間から、うなだれる父の視線を追った。
父は、母が握っているスマホを見つめていて、あれは父のものだと直輝が理解した途端、この件の一端が見えてきた。
今朝、確かその日は父がスマホを忘れていったとかで、リビングの机の上に置きっぱなしになっていたのだ。
そして今、母は父の前でそのスマホを握りしめて、父を糾弾している。
つまりはあのスマホの中には、もしかすると年若い女との浮気の証拠があったのかもしれない。と直輝はしたくもない下世話な想像をしてしまう。だが、真面目で優しい父に限ってそんなことはありえないし、おそらくは母の誤解なのだろう。
母のヒステリーの矢面に立つのは腰がひけたが、父を放ってはいけないと、直輝はごくりと唾をのみこみ、リビングへと続くドアをそっと開けた。
「ただいま」
いましがたの会話など知らないふうを装って、明るく声をかける。
二人の大人は弾かれたように振り返ったが、どこかほっとしたような父の表情とは裏腹に、母は何故か憎々しげな眼差しを直輝にまで向けてきた。普段から、いい子だ、自慢の子だと褒められることしかなかった直輝は初めて見る母のそんな反応に、思わず後ずさる。だがそれを阻むように母が腕をつかんできた。
「直輝。直輝はほんとうにいい子で、お母さんは本当に直輝のことが自慢で大好きなんだけど、氷上事業部長の娘さんのことは、頼まれて仕方なく面倒をみてあげているだけなのよね?」
母は直輝をまるで薄気味悪い【何か】を見るような眼差しで、問うてきた。
「どういうこと?」
ここで義務だからと答えるべきなのか、骨が折れるものの、律と一緒にいるのは嫌じゃないからと答えるべきなのか。だがそれはどちらも嘘ではないが真実でもない。自分の気持ちがよくわからない現状と、母の問いの意図がわからず、気が付けば逆に問い返していた。
「ほら……あの子、かわいいでしょう? でもいくらかわいくてもまだ幼児じゃない? まさか直輝があの子のことを好きだなんておぞましいことを言うわけはないわよね、と思って」
母の言う好きが、年下の幼馴染やペットに対するような軽いものを指していないことだけはわかった。
「どういうこと? 俺にはよくわかんないよ。律のことは嫌いじゃないけど、好きだとおぞましいという意味がよくわからないな」
言った途端に母の形相が変わった。彼女は直輝の肩をつかんで激しくゆさぶってくる。
「何ですって? 相手は子供なのよ? 気持ちが悪いと思わないの!? けがらわしいっ!!」
確かに相手は小学一年生だ。恋の相手には幼すぎるし、少し異常かもしれない。だが、直輝の本心はどうであれ、母の反応は過剰すぎて、直輝は思わず眉をひそめてこう告げていた。
「でも、俺と律の年の差は母さんと父さんの差とそのまま同じだよ」
律のことをかわいい、愛しいと思う度に、自分はおかしくないと言い聞かせるために心の内で繰り返してきた言い訳は、だが母の激情をさらに煽るだけだった。
「いいこと、それは大人になったらの話。今のあなたが大人の女性に憧れることは普通だけれど、もしあんな子供を好きなのだとしたら頭がおかしいとしか思えないわ」
嫌悪感をあらわに、母は断言する。
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