第2話:罪と恥


 人見知りで父親以外にまったくなつかないという律は、だが直輝だけにははじめから素直になついてきた。


 氷上も目を瞠るほどの男前だと思ったが、当時から、彼の娘の律の美しさはまだ三歳だというのに、どこか恐ろしさを感じさせるくらいだった。肩まで伸びた金色の髪に、見たこともない金色の瞳、そして唇はまるで熟れた果実のよう。その愛らしいというよりは、他者を圧倒させる強さを持つ美貌は、そばで感じる体温があってもなお、この世のものなのだろうかと疑ってしまうほどだった。


 だが見た目がどうであれ、律の中身はいたって普通の子供だった。


 そして今、六歳になった律は、少女らしい無邪気さと幼さの中に、直輝が気後れするくらいに、どこか完成された大人の女性の美しさのようなものを持つアンバランスで不気味な存在になっている。


 不気味というと言葉が悪いが、そうとしか言いようがないのである。美しいだけの子供ならあちこちにいるだろう。だが、どうしても目が離せないような絶対的な吸引力を持ち、見ていて微笑ましくなるのではなく、何か胸をざわつかせるような小学一年生が、不気味でなくて一体なんだというのか。


 律のそんな不気味さは、一部の大人たちの関心をひくようだった。ふらふらと一人でいれば、知らぬ大人の男に手をつかまれて、どこかに引っ張られていきそうになったことは一度や二度ではない。小学校に入ってからは必ず直輝が送り迎えをするようになったのだが、それでもまだ問題が起こるくらいだ。


 先日、律の担任の教師が、学校の屋上から飛び降り自殺をはかろうとする事件が起きた。学校中が騒然として、一体どうしてそんなことになったのかと、今でもみんなその話題でもちきりだ。直輝も律の家で、氷上に頭を下げている校長の姿を見かけなかったら、まさかその発端がただの小学一年生の女の子によるものだとは思いもしなかっただろう。


 律の担任は、律の目の前で、屋上から飛び降りようとしたらしい。


 その理由は、律に結婚を迫り、断られたからというものだ。……小学一年生に結婚を迫る大人。頭が狂っているとしか思えないが、直輝の見る限り、律の担任だった教師は、普通の大人にみえた。だが、律の担任が一生徒である律に執心していることは、同僚内で噂になっていたらしく、律と担任が屋上の方へ消えていくのをおかしく思った他の教師が後をつけていなければ、律の担任は本当に屋上から飛び降りていたかもしれなかった。


 後をつけ、その場で一旦様子を見ていた教師によると、律の担任は、結婚してくれなければ、ここから飛び降りるといって律を脅したそうだ。律は「飛び降りるなんて痛いから絶対ダメ」と止めたらしいが、結婚に関しては「ナオくんと以外は結婚しない」と断言したらしく、それが、律の担任教師に、屋上の柵をまたがせたらしかった。


 まさか生徒たちも、一教師の自殺の経緯がそんなものだとは思いもしないだろう。


 校長たちが氷上の家にやってきたのは、謝罪もあるが、今回の件を口外しないでほしいという依頼らしかった。直輝は隣の部屋で律と一緒にその話を聞きながら、情けない大人ばかりだと呆れたものだ。だが、大人だけを責める気にもならなかった。


 教師が悪いのだ。大人なのに子供にいれあげる教師が、愚かで気持ち悪いとも思う。だが、ただの大人をそんなふうに狂わせた律のことが少し怖い。


 結婚を強要されることもだが、大人が眼の前で飛び降り自殺なんてしようものなら、律にとってもひどいトラウマになっただろう。律のことを可哀相に思い、心配してやらなければならないのに、どこかその気持ちに、一抹の恐怖が混ざり込む。


 律の担任は事件の翌日に退職した。夏休みを直前に控えた時のことだった。


「律、そういうことがあったのなら、俺にも言って欲しかったな」


 飛び降り未遂の事件があった帰り、一緒に帰ったはずなのに、律は何も言ってこなかった。


 この話を知った時、直輝は律のことが心配でそう言ったのだが、律はなぜか「むり」と言って顔を赤らめた。


「言おうと思ったけど、りつがナオくんのお嫁さんになるつもりだってことは絶対に恥ずかしくて言えないもん。先生の話をしたら、そのことも言わなきゃいけなくなると思ったの」


 上目遣いでもじもじする律に、直輝は思わず吹き出してしまう。大人の男に道を踏み外させるくせに、当の本人は無邪気な小学一年生。可愛いけれど、困った子供だ。


 その後、校長たちとの話が終わった氷上から、今後はできれば送り迎えだけでなく、学校内でもできるだけ面倒をみてくれないかと頼まれた。でも、どうしてだろう。はじめて、そういった依頼を断りたいと思った。自分でも分からないが律と距離を置きたいと思ったのだ。


 自分でも説明できない衝動だが、断る理由なら山ほどある。一年生と六年生では接する機会もないので、校内で面倒をみるのにも限界があるし、正直面倒くさい上に、学校でくらい友達とも遊びたい、とか。だが、「直輝くんは頼りになるから」などと、憧れている大人の男の人に言われると、反論をぶつけにくかった。


 律と出会って三年。ナオくん、とひたむきに慕ってくる律のことは可愛いと思っているが、それと同じくらいにまとわりついてくる律を邪魔に思うこともある。


 二人きりのときならばまだいい。だが、人目のある場所で律にかまうことに直輝は恥ずかしさを覚えるようになってきた。どうして恥ずかしいと思うのかは直輝自身にも説明がつかなかった。周囲は律の面倒をよくみる直輝に同情的であったり、誉めそやしたりするのに、後ろめたさにも似た羞恥は日に日に膨らんでいくのだ。直輝は自覚していなかったが、律に結婚をせまって屋上から飛び降りようとした教師が愚かだと思った頃から、それは顕著になっていた。

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