二郎ラーメン襲撃事件【文学フリマ東京37】

柿.

二郎ラーメン襲撃事件

君は人に、愛する人に、「好きだ」と言ったことはあるか? ぼくはある。ついさっき言った。面と向かって好きだ、としっかり、はっきり言ってやった。残念ながら相手は一切態度を崩さなかった。まるで時計だ。まあ、無理もない。ぼくたちは夫婦なのだから。ぼくがなにを語りかけようと構わずひたすら秒針を刻む時計のように、夫が妻に、好きだ、と、愛している、と呼び掛けても目の前の人物は何ら変わらない息をする。なにか変化があるとすれば、だしょーね、といった感じで鼻をふーっ、と吹かすくらいだろう。妻は僕を睨みつける。早くしろと急かしているのだ。話の続きをしろ、と。では、ご要望にお応えしようかしら。


 小一時間くらいまえかな。僕と妻は深夜、同時に目が覚めた。結婚して3年目、交際して5年、はじめて知り合って5年と半年と3週間と2日ではじめてのことだったと思う。正直に言って嬉しかった。なぜ同時に目が覚めたのが分かるかというと、まるで鏡に見えたからだ。自分のまぶたとはっきり同じ動きをするまぶたが、目が縦一列に浮かんでいたからだ。結婚して3年経つが同じベッドに同じタイミングで入るし、週に3日はセックスをする。1日につきぼくは最低2回射精するし妻なんて3回は気をやる。このことを既婚者の友人達に話すと笑われる。最近にいたっては聞くだけ聞いといて黙り込んでしまう。ま、そんな話はいいか。ああ、すまない。ぼくは時々話がそれる。さっきも妻に語り掛けている途中で好きだ、なんて口走ってしまった。広告代理店で働き始めて8年くらい経つが、未だにプレゼンが下手くそだ。ほら、逸れた。兎角ぼうっと肌に埋もれていた眼球が同時に4つも露出したんだ。午前2時過ぎ東京砂漠の某所、2DKの一室で。

「なにか食べるものあったっけ」

妻の発言だ。妻はしゃべるのだ。

「ん、どうだろう。ないことはないだろう」

この寝起き日本語の話者はぼくだ。ぼくもしゃべるのだ。

 ふたりとものそりと起きて冷蔵庫へ向かう。自宅の冷蔵庫というものは、文明が発展しているのか滅んでいるのかわからないこの広大な砂漠のオアシスだ。腹をぽりぽりと搔きながら妻についていく。二人しかいないキャラバンがたどり着いた先にあったのはバターとビール缶が3缶、麦茶の入った容器のみ。ぼくたちは落胆した。異常な空腹に襲われて目が覚めたのだから。空腹という名の怪物から逃げおおせてやってのことで着いたオアシスがこれである。ああ、追いつかれた、怪物に。ガッデム!! ぼくたちは食われてしまう。空腹なぼくらは空腹の空腹を満たしてしまう。さて困った。だが、ここで倒れる隊長ではない。彼女はすぐさま台所脇にある収納棚の扉を開けた。中には常温保存の食べ物が入っているからだ。しかし、不思議なこともあるものでそこには佐賀の実家から届いた大量の焼き海苔とのりしおポテトチップスしかなかった。これにはぼくらもかなり驚いた。彼女は収納棚の中に頭を思いっきし突っ込んでしまい、ぼくに至っては一度外へ出て表札を確かめたくらいだ。よかった。ぼくらの家だった。とりあえず不法侵入・不法占拠の罪はないようだ。さて、ぼくらは首をかしげる。クローゼットの中にはパックのご飯、インスタント食品、パスタ麺、インスタントパスタソースが必ずあるはずなんだ。それがないなんて・・・。ぼくは寝室に戻った。蘇ったミイラよろしく収納棚から今度は頭だけぴょんと出して彼女はなんで、と呼びかけた。なんで、というのは、「なんで寝室に行くの? そこには食べ物なんてないじゃない」という意味だ。ここまで食い物がないなんてあり得ないことだ。せっかくだからってつい洗いたくなるくらいにぼくたちの胃は空っぽで、ここがぼくらの家なら次に考えられるのは空き巣だ。のりアレルギーの空き巣だ。だから寝室に行って財布やキャッシュカードを確認したかった。そして全部あった。よく見渡せば家具も家電も各々定位置でしっかりどっしり構えていた。頼もしい家族達だ。それにしても、と思う。なぜ食べ物がここまでないのか。さっきも言ったけれどこんなことは初めてだ。なんならぼくの独身時代にもなかった。あ、いや・・・。

 妻はダイニングテーブルの椅子に腰掛けてビール缶を開けてしまった。のりしおの袋も開けた。外には繰り出さず一旦はここにあるもので凌ぐ腹積もりらしい。だが、なんだか辛そうだ。これで空腹を満たせるなんて思っていないのだろう。そして食べられるビールとポテトチップスにいたっては叫んでいた。せっかく醸成されたのに、せっかく薄くスライスされたのにそんな暗い顔して食ってくれるな。ビールとポテチ、自宅で映画を観るのに最高の組み合わせだ。これにはJとKも大きくうなずくだろう。慌ててぼくも彼女の向かいに座りむしゃむしゃ食べた。この行動に妻は一切小言を口にしないで(ポテチは口にしているけれど)ビールを煽った。

 ポテトチップスが無くなった。食べている途中でぼくもビール1缶を空けた。

「これほどまでの空腹をいままでに感じたことって、ある?」

「ないわ。こんなひもじい想いをしたのは生まれて初めて」

「ぼくはある」

はっきりきっぱり言った。

「まじ?」

目をまん丸にして言った。心なしか背筋も伸びたように見える。ほんとうに驚いたようだ。

「ああ、大まじだ。ちょうど今と同じくらいものを」

「あなたよくここまで生きてきたね。こんな空腹人生一回で十分よ。いや、できるなら体験したくなかった。裕福とは言わないまでもそれなりの暮らしをしてきたというのに。まさか、人は二度突発的で信じられないような空腹を味わうのかしら。どうしてだれも教えてくれないのよ、サンタクロースなんてほんとはいないってすぐバラしてくるくせに」

彼女は少し激しいときがある。まして空腹で冷静じゃなかった。ぼくもさっきまではそうだったが、昔のことを、今日と似たような日を思い出したからほんの少しだけましになった。

「あの時は大変だった。ぼくが男数人でシェアハウスをしたことがあるのは知っているよね」

「ええ、確か大学を一回中退しているときね」

「そうさ。ぼくが大学を中退して勘当されたんで仕方なしに高円寺でシェアハウスしてたんだ。その時さ」

「それはやっぱりお金も食う物も無くてひどい空腹になったということ?」

「お金はほんとうになかった。立川の競輪場でハズレの車券を食べちゃうくらいに。けれどその程度の空腹は常時あったんだ。つまりぼくらは慢性的に腹を空かしてた。あの晩突然ぼくらを襲った空腹はそんなもんじゃなかった。今日と同じくらいの空腹だ。いまの君にはわかるだろう」

「つまり貴方と同居するとこういう空腹を味わうことになるっていうのね?」

「たしかに・・・。そうなるな! どういうことだろうか」

どういうことなんだろうか。ぼくはほんとうに驚いた。地の文で同じことを繰り返してしまうくらいに。対して妻はなにか言いたげな表情を浮かべたあと、話して頂戴、とだけ言った。

「当時のことを?」

「当時のことを。だってそこにヒントがあるかもしれない。この現象の理由が。こんな思いもう二度とごめんだわ。しっかり原因を究明して潰さないといけない」

「わかった」

ぼくは極めて真剣にうなずいた。

 こうしてぼくは妻に昔話をする。

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