第6話 都々理夫人(with瀬央)とのお茶会

 初めて訪れた都々理邸は、レンガの壁が美しい洋館だった。「明治の頃に建てられたらしいよ」と、瀬央が興味なさげな声で教えてくれる。


 車を降りて、庭の小道を進み、玄関まで続く階段を登ると、重そうな木の扉が現れた。真鍮製のドアノッカーがついていたが、瀬央は当然それを使わず、自分の手でドアを開いた。



「ただいま」


「お帰りなさい、瀬央さん。斎宮様、ようこそお越しくださいました」


「あ、ありがとうございます、お邪魔します」



 迎えに出てきたのは、どうやら使用人のようだった。丁寧に頭を下げる壮年の女性に、芽依も慌てて頭を下げる。



「うん。斎宮さんを連れて来たけど、母さんは応接間?」


「はい。とても楽しみにされておられるようですよ。すぐにお茶をお持ちしますね」



 スリッパを用意してから、そう言った使用人は奥へ消えていった。応接間へは瀬央が案内してくれるようだ。


 その瀬央が振り向いて、呆れたような顔をする。



「使用人に礼を尽くすなとは言わないけど、ちょっと腰が低すぎない?」


「そうかな……?」


「君の家にはいないの?」


「うちは、派遣のハウスキーパーさんが来てくれてる。家事だけやって帰るから、私が家に帰る頃にはもういないの」



 それでもたまに見かける時もあるが、大抵母に吹っ掛けられた無理難題をこなすのに必死で、芽依は彼女と話したことがほとんどない。


 斎宮家で芽依がよく話すのは、学校や習い事の送迎をしてくれる運転手だ。だが、それなりに高齢で話が合わないからか、特別仲が良いというほどでもない。



「じゃあ使用人が家にいるのって、あんまり慣れてない?」


「そうだね。あとは、うちのおじいちゃんがね、相手の身分や立場に関わらず、人としての礼儀は忘れるなって。……あんまりできてる気はしないけど」


「ふうん」



 話をしながら、広い邸宅の中を歩く。


 廊下に飾ってある季節の花は、さっきの使用人が手入れをしているのだろう。壁にかけられた絵画の額縁にも、埃ひとつ付いていない。


 手当たり次第に母が買った絵画や置物が、無造作に置きっぱなしにしてある斎宮の屋敷とは、大違いだ。それなら花くらいは活けてもいいのに、と芽依は思うが、盟子は「花びらが落ちる」「枯れた花を片付けなきゃいけない」と言って、頑なに花だけは飾らない。どうせ、世話をするのは芽依かハウスキーパーなのに。



「ここだよ、応接間」



 瀬央が足を止めたので、芽依も惰性の思考を止めた。


 ノックに、柔らかな声で返事がある。今更ながらに、緊張がぶり返してきた。心臓が脈打ちながら肥大して、腹の奥まで落ちていくような気分だ。


 胸を押さえながら、芽依は促されるまま応接間に入った。



「いらっしゃい、芽依さん。突然お呼びしてごめんなさいね。ずっとあなたと話がしたかったのよ」



 にっこりと笑って、そう出迎えてくれたのは都々理夫人だった。穏やかに細められた目の際に、小皺が咲くように集まっている。


 芽依は一瞬だけ瀬央を見てから、胸元を押さえて一礼した。



「ご……、ご招待いただき、ありがとうございます。それから、母が日程のことで無理を言ったようで、申し訳ございません」



 絞り出した声は、意識した以上に掠れて小さかった。都々理夫人がころころと声を上げて笑う。



「芽依さんが謝る必要なんて、まったく無いのよ。むしろ、私はすぐに会えて嬉しいわ。ほら、座ってちょうだい。この近所にね、美味しいケーキ屋さんがあって。たくさん買ってきてしまったから、好きな物を選んでね」



 夫人は妙に上機嫌だった。


 応接間にはガラス張りのローテーブルと、三人掛けの長いソファーが二つ、お誕生日席には一人用のソファーが一つ置いてあった。


 夫人は芽依を上座の席に座らせ、その隣にウキウキしながら腰を下ろした。瀬央はさっさと一人用ソファーに陣取っていた。



「いろいろと思う所はあるけれど、私は芽依さんが瀬央を受け入れてくれて、本当に嬉しいの。この子ったら、随分性格が悪いでしょう? 学校では上手くやってるようだけど、誰かと結婚するとなったら、ねえ」



 見合いでは挨拶をしただけだったのと、盟子が怒涛のように誉め言葉を並べていたので分からなかったが、都々理夫人は話すことが好きなようだった。


 先ほどの女性使用人が、お茶のセットを持ってくる。夫人が話したケーキもカートに並んでいたが、流石に十種類もあるとは思わなかったので、芽依は目を白黒させた。



「本当に美味しいから、遠慮なさらずに食べて。私のオススメはレアチーズケーキなんだけれど、芽依さんは何が好きかしら? 本当はシュークリームも素晴らしいから食べてもらいたいのだけれど、買うのを忘れてしまったのよ。次にいらっしゃる時には、ちゃんと用意しておくわ」


「え、あの、はい。ありがとうございます……」



 完全に気圧されてしまった芽依は、一言礼を言うので精一杯だった。


 そんな風にあたふたしていると、一人で本を読み始めていた瀬央から助け船が飛んでくる。



「母さんが喋ってるから、斎宮さんがケーキ見れてないよ。早く選ばせてあげなよ」


「まあ。……まあまあ、瀬央。やっと人を気遣うことを覚えたのね」


「これって気遣いかな? どっちかというと母さんのブレーキだよ。僕の母さんなんだから、あんまり恥ずかしい真似はしないでよね」



 都々理夫人が大きなため息をついて、芽依に少しだけ肩を寄せてくる。



「ほら、ね? 母親の私が言うのもなんだけど、瀬央は顔も頭もいいし、体を動かすのも得意なのに、どうしようもなく性悪なのよ。だから私、お嫁さんなんて諦めてたの。こうやって一緒にお茶をするのが夢だったのに、叶わないんだと思ってたわ」


「しょうわる……、性悪……?」



 もはや瀬央の精神性は、性悪などという枠に収まらない気がするのだが。


 首を傾げた芽依に、夫人は「だから」と優しく微笑んだ。



「どうも瀬央は芽依さんのことを気に入ってるみたいだから、今のでちょっと安心したわ。でも、もし意地悪を言われたらすぐ私に知らせてね。とびっきり叱っておくから」


「言わないよ」


「あなたは自覚なく言うでしょう」



 本から目を逸らさないまま反論する瀬央と、それをぴしゃりと跳ね除ける夫人。


 気の置けないやりとりが新鮮で見守っていると、そんな芽依をみて夫人が少しだけ頬を染めた。



「あらやだ、瀬央のせいで芽依さんに笑われてしまったじゃないの。馬鹿な親子でごめんなさいね」


「え……、あっ、いえ。仲が良いんだなって思っただけで……。すみません」



 笑ったつもりなど一切なかったのに。芽依が口元を覆い隠すと、夫人は軽く首を振った。



「いいのよ、むしろもっと笑ってちょうだい。瀬央がずけずけと物を言うから、うちはこんな会話が日常茶飯事なの」


「僕のせいなの?」


「当たり前じゃない。瀬央、お願いだから芽依さんに愛想尽かされるようなことはやめてね。私、もう芽依さん以外は認めないわよ?」


「そんなの、僕がどうこうできることじゃないでしょ」


「無駄に有能なその頭は何のためについてるのかしら? 芽依さんを大切にしなさいって言ってるのよ。芽依さんならもっと良い男性がいるでしょうけど、瀬央にはこれ以上の女性なんて現れないわよ」



 ぽんぽんと交わされるテンポの良い言葉に、芽依はついて行けない。ただ、夫人が芽依のことを過大に評価していることは分かった。


 そして、瀬央も驚くべきことを言う。



「それもそうだね。気を付けるよ」


「そんな他人事みたいに」


「あ、あの」



 つい口を挟んでしまった。都々理親子の目が同時にこちらを向いて、さっと血の気が引く。


 人の会話を遮ってしまうなんて。しかも咄嗟に否定をしようとしてしまった。



「すみません、なんでもありません」



 俯いて膝頭を見つめる。意に沿わない時に口を挟むと、しかもそれが反論だったり否定だったりすると、相手の機嫌を酷く損ねてしまう。だから、絶対にやってはいけなかったのに。


 だが、青くなった芽依にも二人は優しかった。


 瀬央は本を閉じて、夫人は芽依の方に体を向けて、それぞれ名前を呼んでくる。



「斎宮さん」


「芽依さん」



 二人は顔を見合わせて、瀬央の方が肩をすくめ、発言権を夫人に譲ったようだった。



「言いたいことは言っていいのよ。大丈夫、瀬央より失礼になることなんて無いもの。それよりも、あなたが全部溜め込んでしまう方が問題よ。何を言われても私は気にしないし、瀬央だって、まあ方向は違うけど気にしないわ」


「す、すみません……」


「ふふっ、謝っちゃうのは芽依さんの癖ね。でも、悪い癖だからちょっとずつ直しましょう。ほら、さっきは何を伝えようとしてくれたのかしら」



 都々理夫人は芽依の手を上から握った。手の甲を優しく撫でられて、小さく息を呑む。



「……えっと」


「ええ」


「私は、別に、すごい人間では、ないから。……都々理くん、あ、瀬央くん、に相応しいとは、あまり思えなくて……。その」



 夫人はゆっくりと頷きながら、芽依の話を聞いている。瀬央はじっと芽依のことを見ていた。



「だから……、私よりも瀬央くん、の方が、絶対いい人が見つかると、思うんです」


「うーん……、そうねえ。芽依さんがそう思ってしまうのも分かるけれど。瀬央は本当に、目に見える部分だけは優秀だから」



 でもね、と夫人は茶目っ気たっぷりにウィンクする。



「今日、部屋に入って来た芽依さんを見た時に、確信したのよ。ああ、この子は瀬央のことを信用してくれてるんだなって。しかも、この性悪を理解した上で。そんな優しくて聡明な芽依さんなら、きっといつか素敵な人と出会う未来もあるんでしょう」


「そんな……」


「だけど、ごめんなさい。私はこれでも瀬央の母親だから、ついつい息子に肩入れしてしまって。ここであなたを逃したら、瀬央は一生理解者を得られないままなんだろうなって思っちゃったのよ」



 そこで瀬央が「理解者なんて別にいらないけど?」と、少し不貞腐れたように差し込んでくる。


 それをさっぱりと無視して、夫人はとびきり優しい声音で言った。



「芽依さん、あなたが瀬央の婚約者になってくれて、私は嬉しいの。ありがとう。心から感謝しているわ。だから、芽依さんも私のことを母親だと思ってほしい。瀬央のことじゃなくても、何でも相談に乗るわ。さっきも言ったようにお茶会だってしたいし。あ、買い物に行くのもいいわね」


「そこまで……?」


「ええ、そこまでするわ。だって私、芽依さんのこと気に入ってしまったんだもの。……おうちのことでも、どんな愚痴でもいいわ。私に聞かせて」



 まさかこんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。どちらかと言えば、瀬央の婚約者として相応しいか見極めるために呼ばれたのだろうと。


 こんなに、優しい言葉をかけられるなんて。


 芽依は戸惑って、視線で瀬央に助けを求めた。どう対応していいのかが分からない。母には『気に入られて来い』とは言われていたが、これは芽依の想定を遥かに超えている。


 瀬央は嘆息して、再び本を開いた。



「僕が相談相手に向いてないのは当然だからね。普通の人間の悩みなんて分からないし。連絡先でも交換しておいたら?」



 助けてくれなかった。その上、ちゃっかりケーキを一つ確保して、紅茶まで飲んでいる。



「それはいいわね! 芽依さん、教えてくれるかしら? 最近の携帯は機能が多すぎて扱い辛いのだけど、最近はアプリも使えるようになってきたのよ」



 都々理夫人がわくわくとスマホを取り出して、輝く目で見つめてくる。


 芽依は困り果てたが、夫人の熱い視線を拒み切れず、自分のスマホを鞄から出した。



「……あ、僕とも交換しておく?」


「まだ芽依さんの連絡先聞いてなかったの!? ほんとにもう……」



 そうして連絡先を交換した後は、ようやくケーキを選んでお茶の時間になった。


 先にケーキを食べていた瀬央はまたもや怒られていたが、大して堪えてはいないようだった。


 都々理邸での一時は、そうして穏やかに過ぎて行った。

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