第2話 これが芽依の日常

 この手で握れるものしか信じない。


 鉛筆、スマートフォン、部屋の床に積まれた本、出された宿題、通学用のパスケース。


 信じないもの。


 花の香り。人の笑い声。口約束。それから、自分の名前。


 斎宮芽依。高校二年生。一人っ子。呼ばれているあだ名は「お人形ちゃん」。あだ名の由来は、日本人形に似ているから。


 そんな芽依がクラスの人気者と婚約したからといって、日常に何か変化があるわけでもない。


 学校での芽依は、友達はおらず、教師から注目されることも特になく、いてもいなくても変わらない存在だ。瀬央と接点ができたところで、彼だって用がなければ話しかけては来ないだろう。


 なにせ、芽依は「無価値」なのだから。



(……でも)



 瀬央にとっては、すべての人間がそうなのだ。彼とカラオケに行ったと写真を見せびらかす女子も、一緒に勉強会をするのだと声高に宣言する男子も、みんな。


 それを思うと、不思議と息がしやすかった。






「斎宮さん」



 話しかけられたことに、芽依はすぐ気が付かなかった。授業はすべて終わり、次はピアノ教室に行かなければならない。ぼんやりと鞄に教科書を詰め込んでいたが、顔を上げて瀬央の姿を見た瞬間、息を呑んだ。



「つっ、都々理くん」



 今日初めて声を出したせいで、最初の音が掠れてひっくり返ってしまった。


 小さく咳払いをする芽依に笑って、瀬央は一枚のプリントを差し出してくる。



「これ、先生が斎宮さんに渡してくれって」


「……ありがとう」


「うん。それじゃ」



 芽依が紙を受け取ると、瀬央は手を上げてあっさりと去って行った。これまでとまったく変わらない態度に、笑みが零れてしまう。



(本当に、婚約なんてどうでもいいんだ)



 しかしそんな穏やかな気分も、渡されたプリントを見ると溶けて消えてしまった。


 一番上には『進路希望』と書かれている。つい先日のHRで書かされたものだが、芽依は授業時間丸々悩んだ挙句、白紙で提出したのだ。


 戻って来たプリントには、付箋で「とにかく何か書くように」と記されている。


 芽依が通っているのは、そこそこ偏差値の高い私立校だ。小学校からのエスカレーター式で、持ち上がりで進学している子も多い。


 芽依も大学まで進むつもりでいた。特に目的がある訳ではないが、今は大学まで進むのが当たり前だという感覚があった。家で両親に進路希望の紙を見せた時も、父は同じ意見だった。


 しかし、母だけは違っていた。「女の子は大学になんて行かなくていい」というのが盟子の主張で、勉強よりもよい結婚相手を見つける方が優先だと言う。


 嫁入りすれば、勉強をする必要も、大学を出て就職する必要もない。時間を使うべきは勉強ではなく花嫁修業だと。


 母は昔から芽依の婚約者を探していた。瀬央との見合いを熱心に勧めてきたのも、芽依の嫁入り先を早く決めてしまいたいからだろう。


 父は「好きにすればいい」と突き放し、結局芽依は進路を決めかねて、白紙のまま提出した。


 自分の将来のことが、芽依には分からない。きっと盟子の言う通り、大学には進まずに瀬央と結婚することになるのだろう。


 芽依はしばらくプリントを眺めてから、他の紙と一緒に鞄にしまい込んだ。






「芽依、ピアノのお稽古はどうだった?」



 習い事を終えて家に帰ると、出迎えた母に決まってこう聞かれる。そして、芽依の返事も決まっている。



「うん……。まあまあ上手くできたよ」


「なら良いわ。……また図書館に行って来たの?」



 芽依が提げている図書館の貸し出し袋を一瞥して、盟子はため息をついた。


 思わず手を後ろに回すと、もう一度ため息が落ちてくる。



「お小遣いはちゃんと渡してるでしょう。そんな貧乏くさい所に行かないで、欲しい物は買いなさい」


「……はい」


「車は使ってるでしょうね?」


「うん」


「読書はいいけれど、お稽古には支障が出ないように」


「はい」


「今日は彰斗さん、帰りが遅いらしいから。ご飯は冷蔵庫よ」



 言いたいだけ言って、盟子はリビングに引っ込んでいく。


 芽依はその背中を見送って、一人で台所に向かった。


 盟子は家事をしない。料理教室には通っているが、手料理が食卓に並んだことはない。掃除も洗濯も、すべてハウスキーパー任せだ。


 通学鞄と図書館の袋をテーブルの脚に立てかけて、冷蔵庫を覗く。


 ラップのかけられたパスタとサラダが冷えていた。二人分。


 二つの皿とドレッシングを取り出して、パスタは電子レンジに突っ込む。温めを待つ間に、シンクの前で立ったままサラダを口にかき込んだ。


 パスタはペペロンチーノだ。どうせ母のリクエストだろう。父の彰斗は、帰って来た時にパスタが伸びているのを嫌がるから。



(……早く食べて、借りてきた本を読もう)



 読書は、芽依に許された唯一の趣味と呼べるものだ。編み物や刺繍といった手芸は「ババ臭い」と言われ、同級生たちがやっているゲームも買ってもらえなかった。


 本を読むことだけは、近所のご婦人方に褒められたことがあって、母に目溢しされているのだ。


 自然と読書は、芽依の拠り所となっていった。


 特に、現実離れしたファンタジー小説は芽依の心を鷲掴みにした。本を開いている間だけは、すべてを忘れて違う世界に飛んでいける。面倒なしがらみなど何もない、現実の斎宮芽依とは一切関係の無い場所へ。


 だから早く、布団に潜り込んで、携帯のライトだけを頼りに文字を追う、あの時間に浸りたかった。


 中途半端に温まったペペロンチーノは、伸びきってあまり美味しくなかった。






 本を読みながら寝てしまった、その夜。夢を見た。

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