竜帝さまの番に選ばれた私は、世界で一番幸せな女の子です!

桜香えるる

竜帝さまの番に選ばれた私は、世界で一番幸せな女の子です!


 この世界には普通の人間のほかに「竜人」と呼ばれる人々が生きている。

 我が国を創り給いし、偉大なる「竜神」。その血を現代まで受け継いできた、竜の子孫たる人々のことだ。

 人数こそ少ないものの人並み外れて優れた能力と美しい容姿を持っていた彼らは、その多くが我が国の長い歴史の中で多大なる功績を残してきた。

 現在でも竜人一族を率いる「東雲しののめ家」を筆頭に、その活躍を耳にしない日はないというほどである。

 そんな竜人たちには「頭に角が生えている」などただの人間とは異なる特質がいくつかあるのだが、その中でも有名なもののうちの一つが「番」の存在であろう。

 竜人の「番」――またの名を、「逆鱗」。

 竜人には生涯でただ一人、本能が求める運命の番が存在しているのだそうだ。

 とはいえ、この世界はたった一人の人間を探すにはあまりにも広すぎる。

 番に出会えるか否かは、完全にその人が持って生まれた運次第と言えた。

 従って、出会えぬままに一生を終えることも決して珍しいことではなかったのだけれど――。


「おめでとうございます。東雲家の当主であらせられる早霧さぎりさまの番は、あなたさまであると判明いたしました」


 竜人一族の頂点に立つ、東雲家。

 幼くしてその当主の座につき「竜帝」と呼ばれるようになった才人・早霧さまは非常に強運な人だったようで、見事に人生でたった一人の自らの番を探し当てることに成功したらしい。

 しかも、その相手というのが……。


「わ、私ですか……!?」

「はい。あなたさま――皐月綾乃さつきあやのさまこそが、早霧さまの番でございます」


 ここは私が生まれてからずっと両親と一緒に暮らしてきた、ごく普通の一般家庭の住宅の玄関。

 そこに頭に二本の角が生えた、見るからに竜人という容貌の威厳ある紳士がわざわざ訪れて発言したのだから、彼が言う「早霧さまの番」は彼の目の前に立つ私以外にいないと理屈では理解できた。

 理解できたのだけれど、理屈がわかることと心から納得することはまた別の話であって。

 ……ああもう、ちょっと待ってちょうだい。一回冷静にならなくちゃ!

 ふうと大きく息を吐き出した私は、必死に頭を回転させて自分がいきなり放り込まれたこの数奇な運命――「竜人の番」について、知りうる限りの情報をもう一度頭の中で反芻し始めた。

 まず確認しておきたいのは先ほども言った通り、竜人には本能が求めるただ一人の番がいるということだ。

 とはいえ広い世界の中でたった一人を見つけることはあまりにも難しく、必ずしも生涯の中で番に出会えるわけではない。

 それでももしも、たくさんの奇跡が重なって自らの番にめぐりあう僥倖を得ることが出来たのならば。

 そうしたならば、竜人は相手をひと目見た瞬間に本能でわかるのだそうだ。

 絶対に間違いない。この人が自らの半身であるのだ、と。

 そうして確信を得た竜人はその番に身も心も捧げ、一生をかけて深く愛し抜くことになるらしい。

 この話を知った人々の中には「そんなふうに一途に愛されてみたい!」と憧れを抱く者も少なくなかった。

 あるいは、それでなくとも我が国では竜神信仰が深く生活の中に根付いているものだから、その末裔である竜人の伴侶となれることはこの上ない名誉であり幸せだと考える人が多かった。

 だからこれは、至極当然の反応なのだ――。


「おめでとう、綾乃! あなたが『番』に選ばれるなんて、お母さんは誇らしくてたまらないわ!」

「そうだな、お父さんも嬉しいよ! 綾乃は……どうかな?」


 両親が諸手を挙げて、私にもたらされた幸運に喜びを表したことは。

 そして、私も――。


「もちろん、私だって。私だって……すっごく嬉しいよ?」


 私にとっても、竜人の番に選ばれることは喜ぶべきことだった。

 ……

 だから私は意識的に満面の笑みを形作り、誰に対しても誇らしげに認める。

 私こそが竜人の番、それも東雲家の当主の番であると。

 何度も、何度も。繰り返し、自分の頭の中に徹底的に刷り込んでいくように。

 そんな私を、大事な幼馴染である「あなた」はどんな顔をして見ていたのだろうか。

 ……わからない。というよりは、正直に言うとこの話題が出るたびにあなたの顔を見る勇気が出なくて、その顔から目をそらしてしまっていたと言うほうが正確であっただろうと思う。

 しかしただ一度、報告だけはしておかねばとあなたと交わしたやり取りの声は強く私の頭の中に残っている。


「ねえ、澪斗みおと。私、東雲家の当主さまの番なんだって」

「……そっか、そうなんだ。うん。おめでとう、綾乃」


 彼から笑顔でかけられた、あまりにも率直で素直な祝いの言葉。

 それは予想通りの反応であると同時に、はやっぱり叶わなかったらしいという現実もまた私に突きつけてきたことは……誰も知る由もないし、知らせるつもりもない私だけの秘密である。


***


 ――あれから少し時は経ち。


「好きです。付き合ってください」

「……へっ?」


 高校二年生になった私は、今日も元気に学生生活に励んでいる。

 いつものように六時ごろに起床して、いつものように七時すぎに家を出て、いつものようにバスと電車を乗り継いで小一時間ほどかけて学校の最寄り駅までたどり着いて。

 さて、いつものように学校へ向かおうと駅前の並木道を歩き出したところで、どういうわけだか初対面と思しき同年代の男の子にいきなり告白をされてしまったのだった。

 突然発生した謎展開に完全に思考停止状態に陥ってしまった私は、それでも必死に自分を奮い立たせて何が起こったのかを懸命に理解しようと努める。

 だがいかんせん、あまりにも前後の脈絡がなさすぎる。

 結局何がどうしてこうなったのかを全く把握することができなかったため、これはもう本人に聞くしかないだろうと私は慎重に口を開いた。


「あのぉ、誰かとお間違えなのではないでしょうか。だって私たち、これが初対面ですよね?」

「間違ってはいません。僕はあなたに一目惚れしてしまいました」

「うぅーん……」


 ……でもこれ、私を好きになった人の顔じゃあないと思うんだけど。

 感情を読ませない凪いだ瞳に、淡々とした事務的な口調。

 表情を見てもドキドキと高揚した様子は欠片もなく、まるで決められた台詞を発するロボットのようなその姿は「残念、告白ドッキリでした〜!」という札を掲げて誰かが乱入してきたほうがよほど納得できるほどだ。

 だからといって明白な根拠もなくそんなふうに決めつけるのも良くないかなと、すっかり困り果ててしまっていたところで。


「ちょっと待って、彼女は竜人の番だよ。それも、東雲家の早霧さまの番。彼を敵に回しても構わないというくらい、彼女に強く惹かれていると思っても良いの?」

「……佐伯くん」


 すっと私を守るように隣に並び立ってくれたのは、偶然通りかかった私のクラスメイト・佐伯悠陽さえきゆうひくんであった。

 頭に生えた二本の角を見れば誰もが分かる通り、竜人、それも東雲家に次ぐ名門家門・佐伯家の当主である彼は、笑みを浮かべたまま穏やかな口調でただ事実だけを申し述べる。

 ――私が東雲家の当主の番だという事実を。

 だがそれこそが、何よりも重要かつ強力な手札であった。


「……東雲家当主の、番?」


 現に、その一言で明らかに目の前の男子も怯んだ様子を見せる。


「……ちなみに、あなたもご当主様のことがお好きで?」

「……それは、まあ……あの方は私の番ですから?」


 衆人環視の中では肯定以外の答えができるわけもないけれどと思いながらぼそぼそと返答すると、謎の男子は「なるほど」と頷いてぺこりと頭を下げた。


「失礼しました。出直します」


 足早に去っていくその背をぼうっと見つめながら、私たちはしみじみと呟く。


「……行ってしまったなぁ」

「……行ってしまったねぇ。というか、助けてくれてホントありがとう」

「いやいや。むしろ、もっと早く気付いてあげられなくて悪かったな。くっそ。コンビニで『どの飲み物を買おっかなぁ』なんて迷っていなければ、もうちょっと早くここまで来ていたはずなんだけれど」

「そんな、見て見ぬふりせず助けてくれただけで十分だから。しかも忙しい朝に私のせいで余計な時間を取らせちゃってホントごめんね。ああもう、気付いたらこんな時間になっているじゃん! もたもたしていると遅刻しちゃうから、一緒にここから走ろう!」

「了解!」


 そこからは会話もせず二人して全力で走っていったおかげで、私たちは無事に予鈴が鳴る前に教室内に滑り込むことができた。


「おはよう、綾乃。どうしたの? 遅かったね?」


 はぁはぁとすっかり息が上がった私を見て心配そうに話しかけてくれたのは、すでに隣の席に座っていた澪斗だ。

 観月澪斗みづきみおと――頭に一本の角が生えた竜人で、幼少期は家が近所だったためほとんど毎日のように一緒に遊んでいた、私の大切な幼馴染。

 そして、今日もすこぶる顔が良い。


「あっ、澪斗。おはよう。ちょっとね、不測のアクシデントに見舞われちゃって」

「ふうん?」


 呟きながら、澪斗はこちらにもの問いたげな眼差しを送ってくる。

 それが「詳しく教えて」という意味であることは何も言われずとも察することができたのだが、澪斗には――澪斗にだけは、あまり詳しいことを言いたくはないなと思ったので曖昧な笑みを浮かべるだけにとどめる。


「……」

「……なるほど」


 すると、私がそうであったように、澪斗もまた長年の経験でこちらの意図を正確に汲み取ってくれたようだ。

 仕方ないなあとばかりにふっと小さく息を吐くと、彼のほうから話題を切り替えてくれたのだった。


「そういえば、綾乃。今日の放課後は東雲の屋敷に行くんだっけ?」

「……うぐっ」

「うぐっ?」

「うん、そうだよ」


 だが、それはそれであまり積極的に喋りたくはない話題であったため、一瞬言葉に詰まってしまう。

 彼の言う通り、早霧さまの番だと判明してからの私は、今日も含めて定期的に東雲家の屋敷を訪問するようになっていた。

 番であり、いずれは結婚するであろう人との交流。

 その重要さは、もちろん私だって理解しているつもりだ。

 だが、どうにも気が進まない。

 別に早霧さまに問題があるわけではないのだ。

 人柄は非常に穏やかで、会えばいつだってとても優しく接してくれるから、むしろ一緒に過ごしていてとても心地が良い人であると思う。

 だからこれはただ純粋に、私自身の心の問題。

 それがわかっているからこそ、彼を前にするとうまく気持ちに折り合いをつけたいのにつけられない自分がひどく申し訳なく思われて、居心地が悪くてたまらなくなってしまうのだ。


「さあ、席につけ! そろそろ朝のホームルームを始めるぞ!」


 そうこうしている間に担任の男性教師が教室に入ってきて、教壇の上に立った。

 先生の一声をきっかけに全員が私語を止め、教室内はしんと静まり返る。

 比較的優等生タイプが多いこのクラスにおいては、ここまではいつも通りの朝の光景だ。

 だが今日に限っては、それに続けて思いがけない言葉が続いた。


「今日からこのクラスに、一緒に勉強する仲間がもう二人加わる。叢雲初音むらくもはつねさんと、松原涼夜まつばらりょうやさん。これまでは海外の学校に通っていたのだが、帰国したことに伴ってこの学校に編入することになったんだ。さあ二人とも、こちらに来て自己紹介をしてくれるかな?」


 編入生だって、と教室内が一気にざわつく。

 たくさんの視線が集まる中を一歩一歩踏みしめるようにして歩いてきたのは、目の覚めるような美少女と、どこかで見覚えのある顔の少年だ。


「……っていうかさ、どう見てもさっきの人じゃん」


 背後からボソリと聞こえてきた悠陽の声に、「だよね」と私も心の中で同意を示す。

 つまり、男子の方は先程私に告白してきた謎の人物。

 制服が違ったので他校の人かと思ったのだが、どうやらただ単純に制服の用意が間に合っていなかっただけであったようだ。

 そして女子のほうは、これまでに見たことのない人ではあったのだけれど――。


「わぁ、すっごい可愛い!」


 まるで芸能人のように華やかなオーラを放つ美人であったため、私は思わずほうと感嘆の吐息を漏らしてしまった。


「見てよ、あの子も竜人みたいだけれど知り合い?」

「……」

「……ねぇ、澪斗? 聞いてる?」


 彼女の頭から生えた二本の角に目を留めながら、私は隣の席にいる澪斗へと何の気なしに話しかける。

 角が生えているということは竜人で、そして東雲の屋敷に通うようになってから聞いたところでは竜人同士は比較的交流があるらしいので、全く存在を知らないということはないのではないかなと当たりをつけたためだ。

 だが、彼は唇をぎゅっと固く引き結んだまま返事を返してくれない。

 彼が私の言葉に反応を見せないことなんて、今までにほとんどなかったことだというのに。

 それなのに澪斗は何かに魅入られでもしたかのように、ただまっすぐ前だけを見つめていたのである。

 正確に言えば、編入生の少女だけを。

 そして少女の方も澪斗だけを見つめ――。


「見つけた。私の、番」


 ぼそりと、ただそれだけを呟く。

 たった一言。だがその一言さえあれば、他の人間たちが二人の間に起こった状況を理解するには十分であった。


「えっ、番?」

「まじ? 澪斗くんの番が叢雲さんなの!?」

「嘘っ!? 二人とも、超おめでとう!」


 クラスメイトたちが口々に発する言葉を聞いて、私も一拍遅れて口を開いた。


「……」


 だが、言葉が上手く出てこない。

 私も早くお祝いの言葉を言わなくちゃいけないと思うのに。

 竜人が人生でただ一人の番に出会えることは祝福すべきことに違いないのだから、私に番が現れたときに彼がそうしてくれたように私も心から祝福しなくちゃいけないと頭では理解しているのに。

 それなのに、体がぴたりと硬直してしまってちっとも思うように動いてくれないのだ。

 だってこれは……いつか起こるかもしれないと恐れながら、しかし永遠にその時が来なければ良いと願っていた光景にほかならなかったのだから。

 それが目の前で起きてしまったという動揺があまりにも大きすぎたがために、私はその日の授業はずっと心ここにあらずな状態で過ごすことになってしまったのだった。


***


「大丈夫かしら?」

「……あっ、はい!」


 はっと意識を現実に引き戻した私は今、東雲家の応接室でソファに座っている。

 目の前には、少し湯気のおさまったお茶と美味しそうなお茶菓子。

 下校後すぐに東雲家の屋敷を訪れたものの早霧さまのほうの準備がまだ整っていないとのことで、私はここで少し待機させてもらっているところである。

 話しかけてきたのは長くこの屋敷に勤めているお手伝いさんの女性――紡木由布つむぎゆうさんで、私もこの屋敷に来るようになってから何かとお世話になっている第二の母のような人物だ。

 そういう親しい関係にある人だったからこそぼんやりとした私の様子を心配し、声をかけてきてくれたらしい。


「もちろん、話したくなければ何も話さなくて構わないのだけれどね? でももしもなにか悩み事があって、それを誰かに話したいという気持ちが少しでもあるのであれば、一度誰かに話してみたほうが心がスッキリするんじゃないかと思うのよ」


 ……そして私は絶対に誰にも口外しないと約束するから、もし良ければ聞かせてちょうだいね?

 そう優しく微笑む彼女の優しさに絆されて、一人で自分の心に淀む澱を抱えきれなくなった私はおずおずと口を開いたのだった。


「実は私……幼馴染のことが、好きだったんです。いえ、今も変わらずに好きなんです」


 小さな頃から長い時間をずっと一緒に過ごしてきた、澪斗のことが。

 初対面のときに私に対して特に目立った反応は見せなかったため、自分が彼の番ではないらしいことはすぐに察することができた。

 だが、竜人の恋愛や結婚は番関係だけで決まるわけではない。

 番が見つからないことも多々あるわけだから、恋愛結婚をしたり、時には政略によって結ばれたりすることも珍しくはないのだそうだ。

 つまり私にもチャンスはあるということで、さあこれから頑張ろうかなと思っていた矢先に突如としてふりかかってきたのは私が早霧さまの番に選ばれるというあまりにも想定外すぎる事態。

 ……でも、これはこれで澪斗の気持ちを知る良い機会になるんじゃないのかしら。

 もし私が早霧さまと結ばれることに彼が少しでも抵抗を示してくれたなら、それは私に対する好意があることの証左となるであろうから。

 そう思って早霧さまの番に選ばれたことを告白した私が直面してしまったのは、おめでとうと笑顔で祝福してくれる彼の姿。

 そこからは私を引き止めたいというような切実な雰囲気は感じられず、むしろ積極的に縁組を後押ししてくれているようにすら思われたのだった。

 その瞬間、私は悟ったのだ。

 ああ、彼が私に持っていたのは友愛の念であって、恋愛感情ではなかったのだなあという厳然たる事実を。

 理解したからこそ、ここできちんと諦めなくてはならないと思った。

 この初恋を早く終わらせて、早霧さまがくださる気持ちにこそ私は応えなくてはいけないのだと思ったのだ。

 しかし……できなかった。結局今に至るまで澪斗を想う恋の炎は消えることはなく、ずっと私の心の中にくすぶり続けてしまっている。


「私は早霧さまの番なのだから、こんな気持ちを持っていてはいけないと分かってはいるのですけれど……」


 瞳を伏せた私は、ぐっと唇を噛んで内心で荒れ狂う感情をどうにか落ち着けてからもう一度口を開いた。


「……これでも私、自分がどれほど恵まれているかは理解しているつもりなんですよ。優しい家族に、気の合う友人。別に大金持ちというわけではないですけれど、両親は私がやりたいと言ったことにお金を惜しむことは決してありませんでした。勉強だって、習い事だって、私の好きなようにさせてくれて。その上、私を一生愛し抜いてくれる竜人の番まで現れたんです。それも、竜人の中でも頂点に立つ東雲家のご当主さまが。これ以上、一体何を望むことがあるというのですか」


 どう考えたって、私はものすごく恵まれているじゃないか。

 どう考えたって、私は誰よりも幸せな女の子であるはずじゃないか……!


「私自身はもちろん、みんなだってそう考えていますよ。だから、自分は幸せ者なのだと納得しようとしました」


 何度も何度も、自分は早霧さまの番であるという事実を口に出して。

 何度も何度も、心底幸せそうに見えるような笑みを顔に乗せて。

 そうして自分は自分の置かれた立場に満足していると、心から幸福なのだと、徹底的に刷り込もうとしたのだ。


「でも……できなかった。幸せだと、心の底から思うことはできなかったんです。だからといって自分は幸せじゃないだなんて、そんなことを言えるわけもありません。だって、初恋が叶わないくらいで……! 世の中には、もっと想像もできないくらい大変な思いをしている方だってたくさんいるというのに。この程度のことで不幸づらをするなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑っちゃいますよね。挙げ句、幼馴染かれに番が見つかったことにショックを受けて放心しているのだから、私って本当に救いようがないわ。彼の心が私にないことくらい、とっくに分かっていたくせに。私は彼にとって、ただの友人。それ以上にはなれないことくらい、とっくに覚悟していたはずなのに……!」


 本当に自分が情けないですよと自嘲する私に対し、由布さんは真剣な面持ちを崩さずに首を横に振った。


「そんなふうに考えることはないと思うわ。そうね、ここから先の話は東雲の使用人としてではなく、一個人としての私の意見として聞いてほしいのだけれど……」


 そう前置きをしてから告げられたのは――。


「私ね、かつて東雲の先代のご当主さま――つまり早霧さまのお父さまに恋をして、告白したことがあるのよ。結果はもちろん惨敗。それからまもなくして番さま――早霧さまのお母さまとの婚約を発表なさったから、きっと私が告白した時点ではすでに勝ち目なんか欠片もなかったに違いないわ。その後は偶然の成り行きで東雲の屋敷で働くことになって、幸せそうなご当主夫妻を誰よりも間近で見る立場になってしまって。二度ほど婚約はしたものの、相手の男がどうしようもない人だったために全部婚約破棄になってしまったし……。結婚もせず、子どももおらず、ただひたすら東雲の皆様にお仕えし続けている人生。もしかしたら人は、こんな私のことを不幸せだと――少なくとも幸せではないだろうと、言うのかもしれない。でも、私は幸せよ? 失敗しようが上手くいかないことがあろうが常に自分の意思で選び取ってきた人生だから、その全てに納得しているもの。告白をきっぱりと断ってもらえたから先代のご当主さまに対する未練はないし、仕事は性に合っているから毎日が楽しいし、東雲の皆様には本当に良くしてもらっているし、今はこんな可愛らしい子を我が子同然に愛おしむこともできているし……」


 あら、長々と話に付き合わせてしまってごめんなさいねと笑った彼女は、ぱんと一つ手を打ち合わせてから「つまりね」と呟いた。


「何が言いたいかというとね、私、幸せの形っていうのは人それぞれ違うと思うのよ。誰かにとっての完璧な幸せが誰かにとっては不幸せであるかもしれないし、誰かにとっての不幸せが誰かにとっては十分に幸福なものであるのかもしれない。世間一般で幸せとされるものが、必ずしも自分自身の幸せであるとは限らない……。その意味において、綾乃さんの反応は極めて普通のことよ。他人が規定する幸せに、あなたも縛られなくちゃいけないわけじゃないのだから。もちろん東雲の使用人としては、このまま早霧さまと幸せになってくれれば嬉しいなあとは思うのだれどね? でも、綾乃さん自身がそんな人生に納得ができないというのならば。それならば一度立ち止まってみて、どう生きたいかを考え直してみるのも悪くないんじゃないかと思うの」


***


 それから少しして、早霧さまの準備ができたという知らせが入ったために私は屋敷内の長い廊下を一人で静かに歩き始めた。

 その間考えるのは、先程の由布さんとのやり取りだ。

 彼女の言葉は驚くほどすとんと私の胸の中に落ちてきたのだった。

 ……だったら、私はどうするべきなのだろう。私は、どう生きたいのだろう。

 考えてみると――結論は、すでに自分の中にあったことに気付く。


「早霧さま、綾乃さまがいらっしゃいました」

「分かった。入ってくれ」


 早霧さまの部屋の前に控えていた使用人の女性が、私の姿を見つけるとすぐに来訪を告げる。

 間髪を入れず室内から早霧さまの返答があり、室内へと続く扉が開かれた。


「失礼いたします」


 ゆっくりと歩を進めながら、これから自分がすべきことを頭の中で整理する。

 ……やっぱり私は、澪斗を諦めることができない。

 それが、私の下した結論だった。

 たとえこのままにしておけば確実に手に入るであろう、世間一般で言うところの幸せを捨てることになったとしても。

 極めて高い可能性で私の想いは叶わないと知っていても、それでも最後まで自分の思う幸せを掴むために精一杯足掻いてみたいのだ。

 そうすれば由布さんがそうであったように、どんな結末に至ったとしても自分の人生に納得と満足を覚えることができるだろうと思えたから。


「こんにちは。……早霧さま」


 だからこそ私は、まずこの方との関係にきちんと向き合わねばならない。

 そもそも、本心では他の人を想いながら早霧さまのお傍にいた今までが、あまりにも良くなかったのではないかと思う。

 そしてこの関係を維持したまま他の人に想いを告げるなど、なおのこと許される話ではない。

 早霧さまと正面からきちんと話し合い、誠心誠意謝罪し、一度関係を白紙に戻す。

 それから、澪斗に気持ちを告げる。

 全てはそこから始めるべきだし、この順番を間違えてはいけない。


「待たせて悪かった。よく来てくれたね」


 広い室内の中央部に置かれたソファから、フェイスベールをつけた私と同年代の男性がこちらに顔を向けた。

 頭に生えた立派な二本の角に、印象的な涼やかな目元。

 彼こそが早霧さま。東雲家の当主であり、私を番と愛おしんでくださる御方だ。

 東雲家の当主は伝統的にあまり人に顔を晒さないとのことで、会うときにはいつもフェイスベールを身に着けたスタイルである。

 にこやかに目を細めてこちらを見つめた早霧さまは、自分と対面となる位置のソファへと私をスマートにエスコートしてくださった。


「いえ。その間に由布さんに色々とご相談ができたので、むしろ有意義でした」


 笑顔で返答し、私はソファに腰を下ろす。

 そうして、数瞬。うつむいてふっと息を吐き出した後にゆっくりと顔を上げた私は、「早霧さま」とそっと彼の名を口にしたのだった。


「お話が、あるのですが……」

「どうした?」

「あの……早霧さまの番として見出していただいてから、私、本当に良くしていただいていたと思っています。いつも優しくしていただいて、本当に本当に、心から感謝しているんです。でも、でもだからこそ……!」

「失礼いたします! お話中に申し訳ございません!」


 その好意をこのまま受け取り続けることはできないし、してはならないと考えております。

 そう続けようとした言葉は、慌てた様子の使用人の声にかき消されてしまった。


「何かあったのか?」

「あの、叢雲家のお嬢様がこちらに……」

「あら、私の番はここにいたのね!」


 使用人の後ろからひょっこりと顔を覗かせたのは、学校で編入生として顔を合わせた叢雲初音さんだ。

 つまり、澪斗の番であるらしい女性。

 竜人の出入りの多い東雲家であるからこそ竜人である彼女がいても決しておかしくないとはいえ、「番」という言葉を発しながらここに現れたことには違和感を覚えざるを得なかった。

 だって、ここには私と早霧さましかいないのだから。

 学校で別れたきりなので澪斗が今どこにいるのかは知らないが、少なくとも彼が現在この部屋にはいないということは一目瞭然である。

 それなのに、朗らかな笑みを浮かべた初音さんは「顔、どうしたんですか?」などと語りかけている。

 その視線の先にいるのは、どう見ても早霧さまで――。


「あの、その御方は早霧さま……」


 だから彼女が本人の意図しない形で早霧さまに無礼を働いてしまうことのないように、私はそっと訂正しようと試みた。

 だがあまりにも声が小さすぎたようで、初音さんの耳には届かなかったようだ。


「いつの間にか学校からいなくなってしまわれていて、びっくりしてしまいましたよ」


 早霧さまを澪斗と誤認したままに、初音さんはなおも会話を続けている。

 そうこうしている間に使用人なども屋敷の異変を感じ取ったようで、初音さんの向こうに何人かの人が集まっているらしき様子が見受けられるようになった。

 これは、早めに事態を収拾したほうが良いのかもしれない。


「あの、叢雲さん!」


 そう思った私は、先程よりも強い声で彼女の名を呼んだ。

 だが私よりも一瞬早く、早霧さま自身が事態の収拾をせねばと動いた。

 初音さんの肩をそっと押して、「少し話がしたい」と囁きながら別室に移動しようとしたのだ。

 しかし――。


「あっ……!」


 二人で移動しようとした時に焦ってしまったらしく、二人の足運びが乱れた拍子にもつれるように転倒しそうになってしまう。

 だが足を踏ん張ったおかげで転倒自体は辛うじて回避し、二人ともに体勢を立て直すことができていた。

 だが、ほっと安堵したのもつかの間のこと。


「……えっ?」


 何かが顔に当たったのか、早霧さまのフェイスベールが外れて素顔があらわになってしまっていた。

 加えて頭にも何らかの衝撃が加わったのか、二本あったはずの角が一本外れて床に落下してしまっているではないか。

 ……って、角は外れても大丈夫なものなの!?

 いや、それ以前に一本の角と毎日のように見ているこの顔立ち……。

 嘘でしょ? だって、この姿は間違いなく――。


「みお、と……?」


 私の幼馴染である、澪斗であるように見える。

 私が呆然と立ち尽くす中で、周囲の人々が気を取り直すほうが早かった。


「何が起きたの!?」

「どういうことなの!?」

「……落ち着きなさい!!」


 ざわめきを切り裂くように現れたのは、東雲紗千しののめさちさま。

 先代当主の夫人にして早霧さまの母親である彼女は、当主夫人のいない今の東雲家の家内を代替わり後も変わらず女主人として取り仕切っている御方だ。

 彼女の一喝で、とりあえず人々は引き下がってくれた。

 だが運悪く、野次馬たちの中には偶然東雲家を訪れていた竜人界の重鎮たちもいたようで――。


「これは、どういうことですか!? 即座に会議を招集するので、今回の事態をどうかご説明くださいますように!」


 そう言い残し、素早く場から走り去っていってしまったのだった。


***


「あの、これはどういうことなのでしょうか……?」


 人々が去り、多少落ち着きを取り戻した室内にて。

 私と紗千さま、そして早霧さま……だったはずの澪斗の三人だけがこの場に残され、ソファに向かい合って座っている状態である。


「ごめんなさい、騙す形になってしまっていて……」


 紗千さまは悄然とした顔をして、私に深々と頭を下げた。


「言い訳になるけれど、悪意はなかったの。とはいえ詰られても当然だということは十分に理解しているし、許されなくても仕方がないとは思っているわ。いずれにせよ、今に至るまでに何が起きていたのか、ちゃんと説明しなくちゃいけないわよね」


 そう言うと紗千さまは一度言葉を切り、気持ちを落ち着けるように数度深呼吸してから再び口を開いた。


 今から二十年近く前、紗千さまが東雲家当主に嫁いだ時、屋敷にはまだ当主の妹が同居していたのだそうだ。

 名前は、東雲百合しののめゆり

 竜人社会の中心にいながら竜人よりも普通の人間の友人と遊ぶことを好んでいた彼女は、やがて普通の人間である恋人・観月煌大みづきこうだいと結婚を考えるようになった。

 番ではないものの思い合っていた二人の関係を、紗千さま夫婦も心の底から祝福した。

 結婚後家を出た百合さんは、まもなくして懐妊。

 そうして生まれた息子・澪斗は、両親の深い愛を受けて育った。

 ところが夫である煌大さんが病気で早逝してしまい、一人で幼子を育てることに不安を覚えた百合さんは、紗千さまたちの誘いを受けて東雲家に戻ることを決める。

 だが、東雲家――正しくは東雲家に頻繁に出入りしていた竜人社会の重鎮たちは、百合さん母子を歓迎しなかった。

 というのも、澪斗は一本の角しか持たない「半竜」であったからだ。

 身体的、あるいは能力的に完璧な竜人としての特質を備えていない竜人は、竜人社会において「半竜」と呼ばれている。

 竜人の中の半端者である半竜は、竜人社会の中で伝統的に見下されている存在であった。

 実は百合さんが結婚前から竜人社会に馴染めていなかったのは、こうした旧来の排他的な感覚に反感を覚えていたことも大きかった。

 その悪意の矛先が愛しい息子に向いたことで、百合さんは竜人社会に完全に見切りをつけた。

 自分がどれだけ苦労をすることになっても構わないから、可愛い息子は頭の硬い重鎮たちとは関わりないところで育て上げたい。

 兄夫婦に恨みは一切ないけれど、どうかこの決断を理解して応援してほしい。

 そう言われてしまえば、紗千さま夫婦は引き止めることもできなくて――。

 荷物をまとめて去っていく母子の姿を、ただ黙って見つめていることしかできなかったという。

 ところが今度は百合さん自身が不慮の事故で早逝することとなり、残された澪斗は紗千さま夫婦に引き取られることが決まった。

 かつてはあまりにも幼くて重鎮たちの冷たい視線の意味を解することもできなかった澪斗だが、今度はさすがに自分の置かれた立場をきちんと理解することができてしまった。

 しかし澪斗は、せっかく引き取ってくれた優しいおじとおばに心配をかけたくない一心で、何があっても誰にも言わずに一人で耐え続けてしまったそうだ。

 限界が来るまで耐えて、耐えて、耐え続けて……結果として、澪斗はある日突然心身に不調をきたして倒れることとなる。

 そこに至り、極力人々の悪意から遠ざけようと気をつけていたつもりだったのに全く澪斗を守れていなかったことを痛感した紗千さま夫婦は、もっと根本的に環境を変えねばならないのではないかと一つの決断を下した。

 可能であれば自分たちの手元で育てたかったが、こうなった以上は東雲の家から遠ざけてあげたほうがあの子も心穏やかに過ごせるであろうと。

 そうして澪斗は東雲の屋敷から少し離れたところにある別邸へ、世話係の使用人とともに移ることになったのだった。


「その別邸がたまたま綾乃の家の近くだったから、周辺の地理を把握しようとしがてら散歩していた時に偶然出会うことができたんだよね」


 澪斗の一言に、私はなるほどと頷きを返す。

 確かに私は近所で遊んでいる時に、見慣れない男の子――澪斗と出会って、一緒に遊ぶようになったのだった。

 そうして生活拠点を移してからは、澪斗も普通の子どもらしくのびのびと過ごせるようになったのだそうだ。

 しかし――澪斗がもうじき十四歳の誕生日を迎えようかという頃。

 東雲家は、とんでもない悲劇に見舞われることになる。


「私の息子……つまり本物の早霧が、亡くなってしまったのよ」


 それまでは入院一つしたことがなかったような人だったのに、大病を患ってあっという間に死の淵に瀕してしまったのだそうだ。

 早霧さまはその数年前に、亡き父の後を継いで東雲家の当主の座についていた。

 そんな彼が最後の気力を振り絞り、母である紗千さまといとこである澪斗を枕辺に呼んで語ったのが、今の状況に至る大きなきっかけとなった提案であったのだという。

 ――僕が死んだら、澪斗が僕の名前を使って生きていっても構わないのだからね?

 自分は一人っ子で、自分亡き後に東雲の後継者の座に一番近いのは父の妹の子である澪斗だ。

 しかし澪斗は半竜で、たとえ東雲家の養子となったとしてもどう考えても東雲の後継者の座にすんなりと収まることができるとは思えない。

 ただ普通に竜人として竜人社会で生きていくことですら眉をひそめられるというのに、その頂点に立とうというのだから言わずもがな。

 だから、年も背格好も風貌も、いずれも似通った自分に成り代わってくれても構わない。

 家中が平和であることに越したことはないのだから、それで重鎮たちが抑えられるならば悪くない話なのではないだろうか。

 声は少し低めに発声してもらえば自分と似ているはずだし、顔は自分とよく似た目元以外の部分はフェイスベールでほとんど隠れてしまうから大して気にしなくても大丈夫なはずだし、角は色味は自分のものと変わらないのであとはフェイクの角をもう一本作ってつけてしまえば何とかごまかせるはずだし。

 ついでに言えば自分の番は綾乃さんだから、「東雲早霧」になってしまえば彼女との縁組だって支障なく進めることができるようになるだろう。

 澪斗が澪斗として当主になった場合は澪斗自身の番を見つけるように求められるか、あるいは重鎮たちが自分の娘との縁談を進めてくるだろうから、番でもなければ竜人社会とも何の関係のない普通の人間である彼女と結ばれることはかなり難しくなってしまうのではないかと考えられる。

 ……そんなことを苦しげな息の中で必死に言い募った早霧さまは、どうやら澪斗がずっと胸に秘めていたはずの思いを知っていたらしかった。

 つまり、いとこの番である少女に報われない恋をしてしまったという事実を。

 竜人社会の頂点に立つ東雲家の当主になることと、最愛の少女を手に入れるということ。

 その二点を複雑な立場にある澪斗がなるべくすんなりと押し進めることができる奇策として、早霧さまは「東雲早霧に成り代わる」という荒業を提案したのだった。


 やがて早霧さまは亡くなってしまい、澪斗は紗千さまと相談しながら頭が痛くなるまで悩み抜いた末に、早霧さまが言っていた通りにする道を選ぶことになる。

 その日から、澪斗は「観月澪斗」と「東雲早霧」の二つの人生を歩み始めた。

 澪斗としてこれまで通りの学校生活を送りつつ、早霧として紗千さまの補佐を受けながら東雲家の当主としての仕事もつつがなく果たしていって。

 そうして誰にも気付かれずに危険な二重生活を送っていたのだが、ついに今日、その仮面が剥がされてしまったというわけである……とのことであった。


「その結果として、こんなふうに複雑な状況に陥ってしまったわけなのだけれど。……悪いのは、全て私よ。死の淵にある息子にこんなことを考えさせてしまったり、可愛い甥っ子にとんでもない人生を歩ませることになってしまったり。二人の保護者として、竜人社会の頂点に立つ東雲の先代当主夫人として、もっと上手く立ち回ることもできたんじゃないかと思うのに。それなのに可愛い子どもたちに苦労ばかりかけることになって、本当に申し訳ない限りだわ」


 うつむいた紗千さまに、私は何と声をかけて良いか分からなかった。

 沈黙が続くこと、数瞬。


「お養母かあさま」


 ぽつりと呟いたのは、何事かを決したような強い眼差しで紗千さまをまっすぐに見据えた澪斗であった。


「これは俺自身で決めた道でもあるので、お養母さまだけの責任ではありません。俺も、あまりにも浅慮な判断だったと反省しております。だからこそ、この機会にちゃんと改めたい。俺はもう、最期の最期まで優しかった早霧の名に甘え、死後ですら彼に守られるばかりの自分であることは止めようと思うのです。つまり、観月……いえ、東雲家の澪斗として。当主の座も好きな人も、ありのままの自分自身として手に入れてご覧に入れます。そして、綾乃。突然の話で戸惑っていると思う。今は会議が迫っていて時間がないからちゃんと話し合えなくて申し訳ないのだが、俺の気持ちが綾乃にあることは知っておいてもらえたら嬉しい。そして、これからの俺の覚悟と有り様を見て、自分の未来を預けるに値する男かを判断してもらえたらと思う」


***


 ――それから少しして。


「これより会議を始めます。議題は先述の通り、早霧さまが早霧さまではなかったという問題についてです。では、紗千さまか澪斗さんからまずは我々にご説明をいただけますか?」


 会議の召集が決まってからわずかな時間だというのに、東雲家の大広間にはそれなりの人数が集まっている。

 多くは東雲の屋敷の周辺に自分たちの屋敷を構えている、竜人の旧家の長老たちであるようだ。

 中には佐伯家の当主としてやってきた悠陽や、叢雲家の後継者であるらしい初音さんの姿も見られるが、同年代の若手はそれくらい。

 ほとんどは圧倒的に私たちよりも年上の、竜人社会の重鎮たちばかりである。


「では、私からご説明を」


 すっと手を上げたのは、紗千さまだった。

 彼女の口から語られたのは、先程私が聞かされた通りの内容である。

 一度語ったことである程度話が頭の中で整理されていたようで、よどみなく語っていくその声を私はふすま一枚を隔てた隣室から静かに聞いていた。

 早霧さまの番とはいえ竜人でも正式に結婚したわけでもない私は、竜人たちの会議への参加資格がない。

 だが成り行きだけでも把握できれば嬉しいという私の願いを聞き入れてくださった紗千さまのご厚意で、密かに隣室から会議の様子を覗き見ることを許してもらったのだった。


「このような経緯で、澪斗には早霧と成り代わってもらっていました。非は本件に関わった大の大人である、私に問うてください。心より謝罪をいたします。ですが、澪斗はこれまで本当によく働いてくれておりました。その点はどうか、皆様も御心に留めておいていただければありがたく存じます。そして今後は澪斗に東雲の養子に入ってもらい、嘘偽りのない『東雲澪斗』として東雲の後継者になってもらいたいと考えております。この点も合わせてご検討いただけますように」


 早霧さまが澪斗と私が結ばれることをも願って……というあたりの経緯は割愛し、半竜である澪斗が円滑に東雲家を引き継ぐためにこのような事態が引き起こされたのだという話は、紗千さまの深々とした一礼で幕を閉じた。

 すると一瞬の静寂の後、場は一気に喧騒に包まれる。

 様々な人が好き勝手に喋っていたが、内容を集約すればこの一点に尽きた。


「とにもかくにも半竜が竜人の頂点である東雲の当主になるなど、何があっても認めることはできない」


 想定した通りの反応であるので――そして想定していたからこそ早霧さまは最期にこのような奇策を言い遺されたわけで、驚きというものはない。

 ないのだが、場は時を経るごとに混沌の度合いを増していっているように思われて、どう収拾をつけるのだろう、いやむしろつけられるのだろうかと不安を覚えてしまう。

 そんな中で、おそらくは世代に関係のない意見なのだと主張したかったらしき重鎮の一人が、同意を求めて静かに成り行きを見守るばかりだった悠陽に水を向けた。

 ――佐伯のご当主もそう思われますよね、と。

 すると悠陽は「そうですねぇ」と呟きながら、自らの頭のあたりを手ですっと払ってみせたのだ。

 ……何が起こったのか、一瞬この場にいる全員が理解できなかった。

 だって、誰が思うだろう。

 悠陽の頭から一本の角が床に落ちていくだなんて。

 それはすなわち竜人の名門家門の当主である彼もまた「半竜」であることの証左であって。


「我らが始祖・竜神が没せられてから幾星霜、竜人は普通の人間とも多く混じり合いながら、この血脈を保ってまいりました。竜の血が薄まっていくのは必然の成り行きで、時代を経るごとに半竜が増えていくこともまた当たり前のこと。おそらくは皆様もそう感じることは多々あったのではないかと察しますが、半竜は忌むべきという風潮があるからこそ誰も大っぴらには言い出せなかったのだと思います。かくいう自分もこうして完全な竜人であるように装っていたわけですが、皆様も多かれ少ながれどこかにこうした欠けた部分を持っているのではないでしょうか? だから、どうしても澪斗さんたちばかりを責める気にはなれません。もちろん我々を騙す格好になっていたわけですから悪いところがなかったとは申しませんが、今の事態に陥った原因は十分に理解できるものであったのではないかと思います。ついでに申し上げるならば、我々はこれまでずっと当主の入れ替わりに気付くことができていませんでした。それはすなわち、澪斗さんが完璧な仕事をしていたということ。半竜でも完璧な竜人であられた早霧さまと同等の働きができていたという事実は、今後の竜人社会の有り様を考える上で一考の価値があるのではないでしょうか」


 呆気にとられる周囲をよそに平然と意見を述べた悠陽は、ちらりと横を向いて初音さんにも「そうは思いませんか?」とさらなる同意を求める。


「一理ありますね」


 頷いた初音さんは、続けてにこやかな笑みを浮かべ、澪斗に味方するような発言をしてくれたのだった。


「きちんとこれまでも早霧さまの名のもとに当主としての務めが果たしてこられたのならば、澪斗さんとして生きるにしても少なくとも試用期間くらいはおいてから当主としての資質を判断しても良いのではないでしょうか?」


***


「……初音さま、大丈夫ですか?」


 東雲家で繰り広げられていた有力な竜人たちによる会議がようやく一段落し、人々が様々な思惑を胸の中に忍ばせながら帰路についた夕刻。

 私こと叢雲初音もその例に漏れず、会議に同行してくれていた松原涼夜を伴って東雲家の屋敷を辞した。

 専属運転手に電話を一本いれさえすれば迎えの車が来てくれることは承知していたのだが、歩きながら思考を整理したい気分だったのであえて徒歩での帰宅を選ぶ。

 涼夜はそんな私の選択を黙って受け入れてくれて、しばらく私たちは無言でまっすぐな道を歩いていた。

 だが彼の口からふと堪えきれなかったというように漏らされたのは、私を慮る言葉で――。


「大丈夫よ」


 確かに、番に拒絶されるわ東雲のお家騒動に巻き込まれるわで無駄に心配をかけてしまったなと苦笑した私は、先程の会議における自分の振る舞いについて説明しようと口を開く。


「実は会議の前にちょっと澪斗さまとお話させてもらって、彼が『観月澪斗』ではなく『東雲澪斗』として生きる道を選択したことと、番ではなく幼い頃から想っていた人と結ばれたいと考えているという話を聞かされたのよね。その時点で、私の取るべき進路は大きく変わったの。竜人社会に身を置く叢雲家の跡取りとして、東雲家を敵に回して良いことなんて何一つないからね。私は積極的に恩を売ってやることにして、その結果が会議中の私の態度になったというわけよ。だから、ちゃんと全部私の計画通りに進んでいるわ」


 ――私の運命が大きく転換したのは、ほんの数日前のことだった。

 家族の仕事の都合で長く海外暮らしをしていた私は、帰国後に街の空気に慣れるために涼夜と一緒に何の気なしに外出をしていた。

 その時、偶然道の向こうに自分の番に違いない男性を発見したのだ。

 すぐに人混みに紛れて見えなくなってしまったのだが、優秀な涼夜が叢雲家のネットワークを使いながら調査をしてくれたおかげで相手の素性はすぐに明らかになった。

 名前は観月澪斗。一本角のため、誰の目にも明らかな「半竜」。東雲家の先代当主の妹を母に持つが、観月家は一般家庭で継がねばならない家督はない。

 加えて彼は私たちが新たに通う予定の学校に在籍しているとのことだったので、だったらそこで再会できるのは確実なのだから、同級生として距離を縮めていっていずれ叢雲家に婿養子として入ってもらえば良いのではないかと考えた。

 竜人社会で眉をひそめられがちな「半竜」ではあっても、私のたった一人の番である以上は我が家に迎え入れることに誰も反対はできないだろう。

 しかし実際に会った彼は、私を番と認識してはくれたようだったが、通常の竜人なら持っているはずの番に対する愛情や執着めいた感情は湧いてきていないように見受けられた。

 私が近づいても距離を取り、一人になった隙を見計らって「私の番だよね?」と話しかけてみれば「あなたを番とは認めない」と言い放ち、いつの間にかどこかにいなくなってしまっている始末。

 だがせっかくたった一人の番に会えたのだからもう少し粘ってみようかなと頭を切り替えた矢先、帰国報告のために立ち寄った東雲家でふと番の気配を感じて話しかけた結果――期せずして、今の大騒動に至ってしまった。


「彼が東雲の跡取りになるならば、叢雲家の跡取りである私の夫にはなれない。まあ、私も私に愛情を持ってくれないような男とは結婚したくないから、結果的にはこれで良かったと思うわ」

「しかし、竜人は番への執着心を捨てられないものなのではなかったのですか? 僕は普通の人間なので、認識が間違っていたら申し訳ないのですが……」

「ううん、そうよ。完璧な竜人だったならば、普通は番に執着するはずなのよ。でも私は『この人が番だ』って気付くことはできたけれど、所詮はそれだけの話だったの。別に特別な愛情は湧いてこなかったし、関係がうまくいかないならそれまでだなって淡々と頭を切り替えることもできた。つまり、私も実は完璧な竜人じゃなくて『半竜』だったってことなのでしょうね。角も二本生えているし、その他の竜人の特質は全て備えていたから、自分に欠けたところがあるなんて今まで全く気付いていなかったけれど」


 ふふっと笑い、「だからね」と私は言葉を続ける。


「ショックは全然受けていないの。むしろこれまで低く見られていた『半竜』が竜人の頂点に立つ東雲の家督を継ごうとしているだなんて、こんな新たな時代の始まりに自分が居合わせられることにわくわくしているくらいだわ」

「……それで、澪斗さまにも恩を売ってみたと?」

「そうね。本当の能力的には『半竜』なのかもしれないけれど、少なくとも表面上の私は完璧な竜人として知られている。だから、たとえ若造と侮っていたとしても重鎮たちが私の言葉を一顧だにしないということはないんじゃないかなと計算したのよね。あとはもう、その場の勢いで押し切っちゃおうと。結果的には、私の意見通り。半竜は当主として認められないという空気に満ちていた会議は、澪斗さまが当主にふさわしいか見極める期間を設けるという形で決着した。ここから先は、澪斗さま自身の力の見せ所。ここまでお膳立てしてあげれば上出来だろうし、無事に当主として認められた暁には私にいっそうの恩義を感じるに違いないわ」


 そもそも叢雲家は、強いから勝ち残ってきた家ではなかった。

 有象無象の中から勝ち馬を見極め、誰よりも先にそれに乗ることができたからこそ、我が家は相応の権力を維持したまま生き残ってきたのだ。

 今回の一件もまた、長い竜人の歴史の中で一つの転換点になる出来事であると思う。

 ここで勝ち残れる当主に味方することが、今後も叢雲家が竜人社会の中で力を維持することにつながるはずだ。

 そして私は、我が家の命運を澪斗さまに賭けることに決めた。

 今は風当たりが強いが、あの人はきっと全てを黙らせて堂々たる当主に成長していくだろうと思うから。

 まあ、いざとなれば私自身も積極的に助力して、何が何でも勝ち馬にしてやれば良いのだし……などと考えていたところで。


「そういえば、涼夜」

「何でしょう?」

「あなたが澪斗さまの想い人である皐月綾乃さんに迫っていたと小耳に挟んだのだけれど、本当?」


 ふと尋ねたいなと思っていた疑問があったことを思い出したので、率直に尋ねてみることにした。


「それは、まあ……」

「どうして!? あ、いや。好きなら好きで良いのだけれどね? でも、本当に好きだったのなら、辛い結果になってしまったんじゃないの……?」

「告白はしましたが、本当に好きだったわけではありません。だから、何もダメージは受けていません」

「だったら、どうして告白なんてことを……」

「澪斗さまの身辺調査をした時に、綾乃さんが彼の想い人だということを把握したからです。だって、澪斗さまは初音さまの番。初音さま以外の女性に気があるなんて、そんなことでは困ってしまいます。そこで、綾乃さんに恋人でも出来れば澪斗さまも諦めがつくだろうと、そうなれば初音さまとも円滑に関係を作っていきやすいであろうと、そう思ったので自分が彼女を誘惑することにいたしました。結果はまあ、芳しくはないものになってしまいましたけれど……」


 当たり前のような顔をしてとんでもないことを言い放った彼に、私は大きな声をあげた。


「何をやっているのよ! あなたがそんなふうに私のために自分を犠牲にすることなんてないのよ!? あなたのご両親はうちの両親に仕えてくれているけれど、あなた自身は別に我が家とは雇用関係にないのだから。いえ、たとえあなたがうちの使用人であったとしても、こんなことをする必要なんて一つもないんだからね?」


 私とあなたは対等な友人関係。それを念頭に置いた上で、いつだってあなた自身の幸せを考えて動くようにしてよ?

 そう告げた私に対し、涼夜はぼそりと呟く。


「初音さまが幸せになれるなら、僕なんか別にどうなっても構わないのですけれど……」

「何か言った?」

「いえ。今いただいたお言葉は、ちゃんと頭の中に入れておくようにします。とにかく、こうなった以上は澪斗さまには何が何でも押しも押されもせぬ立派な当主になっていただかねばならないということで……」

「……そうね」


 何となく、話をそらされたような気がしたのだけれど。

 しかし、涼夜の言うことはその通りであったので――。


「うちに帰ったら、早速作戦会議をしましょうか。私たちには何ができて、今後はどう立ち振る舞うべきであるのかを」

「はい。何でもご下命ください!」

「だから、あなたは私にへりくだる必要はないんだってば!」


 わいわいと盛り上がりながら、私たちは宵闇に染まる一本道を歩み去っていったのだった。


***


 一方、同時刻、別所にて――。


「やはり、半竜が東雲を継ぐなど許せん。何としてでもあの男を引きずりおろさねば……」


 そう、憎々しげに呟いている者もいれば。


「ああ、なんと哀れな我らが『姫』よ! おぞましくも竜ごときに目をつけられようとは、なんともおいたわしい……。おのれ、東雲澪斗。我らは必ずや姫さまをお救い申し上げますぞ!」


 そんな世迷い言のようなことを恍惚の表情で訴えている者もおり。

 事態は本人たちの預かり知らぬところで、本人たちの望まぬ方向へと混迷の度を増していくことになるのだが――それを当の本人たちが知ることになるのは、もう少し先の話になるのであった。

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竜帝さまの番に選ばれた私は、世界で一番幸せな女の子です! 桜香えるる @OukaEruru

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