そうして僕は、小説家になった

吹井賢(ふくいけん)

現在地



 東京都内は某所、ある高級ホテルのラウンジだった。

 ……正確に言おう。そこが高級なホテルなのかどうか、僕は知らない。予約を取ったのも代金を支払ったのも僕ではないからだ。もっと言えば、宿代が支払われているのかどうかさえ、僕は知らない。僕は受付で名前を告げただけだ。

 本名ではない。

 ペンネームを告げた。

 買ったばかりのスーツのポケットからスマートフォンを取り出す。約束の時間まではまだ少しあった。「私は当日、他の方のアテンドがありますので行けませんが、別の編集者がお迎えに上がりますので」。二、三回会っただけの担当編集の言葉を思い出す。

 同じく買い立てのネクタイの色はオレンジだった。オレンジは好きな色だ。けれど、フォーマルなスーツに合わせるには派手めの色合いだ。でも、それで良いと思っていた。どうやら今日の主役は僕であるようだし。

 これも、正確ではない。正確には、“僕達”だ。

 ところで、と僕は思案に耽ることにする。

 小説家というのは、いつ、どのタイミングで、そうなるものなのだろう?

 自作の小説が、本屋に並んだ瞬間? はじめての校正を終え、見本が手元に届いた時? それとも賞を取った時? ……いや、これは違う。何の文学賞も受賞してない作家は小説家ではないってことになる。僕はライトノベル作家なら入間人間が好きだが、あの人は受賞経験がなかったはずだ。

 ……これは、今の内に直しておくべきだろう。

 入間人間“先生”だ。

 気を付けなければ。

 閑話休題。考えてみれば、書籍化デビューをイコールで「小説家になった」と結び付けるのも狭量な気がする。カクヨムのような小説投稿サイトの大人気作家は小説家ではないのか? いや、小説家だろう。

 だとしたら、小説家って、なんだろうか。

 小説を書いている人のこと?

 なら、僕は十年前から小説家だったことになる。

 しかし、人によっては、今日という日を以て「小説家になった」と言うだろう。


 今日は受賞式。

 僕は賞を貰うことになっている。

 これより数時間後、僕はさる小説賞を授与され、記念写真を撮っていただいたり、業界の関係者、文壇の先輩の皆様に挨拶することになるのだが、そんな夢のような時間の中で、僕はずっと一つのことを考えていた。


 ……なんで僕、小説家になっちゃってるんだ?



 僕はこの日、小説家になったらしい。

 なお、小説家を夢見たことは一度もない。







 今だから言える笑い話として、僕は出版社からの電話を着信拒否したことがある。

 締め切りの催促の電話に耐えかねて、というような小説家らしいものではなく、デビュー前の出来事だ。

 木曜日、金曜日と同じ番号から何度も電話が掛かってきて、ネットで調べても東京の会社ということしか分からなかったものだから、不動産か何かのセールスだろうと着信拒否に設定してしまったのだ。それが出版社の人間、後に僕の担当編集になる人間からの電話だということは、土曜の昼に知った。メールで問い合わせがあったからだ。「何度かお電話差し上げたのですが、繋がらないので」という前置きで。

 繋がらないのは当たり前だ。こっちは着信拒否をしている。

 未だによくは知らないし、今後、知る機会もない事柄なのだが、小説の公募には「電話待ち」という状態があるらしい。受賞が確定した段階だったか最終選考に残った時だったか、なんだか知らないしあまり興味もないのだけど、そういうタイミングで、出版社から電話が掛かってくる。

 ……らしい。

 あまり口外しないでくださいね、と伝えられた覚えがあるが、どうも小説家を目指す界隈では常識なようで、Twitter(現:X)やネット掲示板には、電話を待ってるとか、電話が来ないとか、そういうことが書かれている。そのことも、受賞後に知ったのだが。

 未知の世界だ、と思う。僕は、生まれてこの方、小説家なんて目指した覚えはないし、なれるとも思ってなかった。「小説家になると決めていた」というカッコいい話ではなく、「既に小説家は生き方だった」というような自認の話でもない。ごくごく単純に、考えなしの人間が受賞した、というだけの話だ。

 受賞が決定し、書籍化デビューが決まり、僕がまず心配したのは「公務員になれるだろうか」というものだった。

 当時の僕は大学院生で、適当に院生活をこなしつつ、講義内容にインスピレーションを受けて作品を作る……、ということを繰り返していた。思えば今と変わらない。違いは修士論文から解放されたことだけだ。

 進路の希望は中学生の頃から変わらず、公務員。両親も公務員だ。公務員の家なのだと思う。そんな僕にとって、小説家になってしまったばかりに公務員になれないかもしれない、というのは、大きな問題だった。

 その時の僕は、「どうせ一年もしない内に創作意欲やアイディアが尽きて書けなくなるだろう」「作品だって大して売れもしないはずだ」と考えていて、――いや、数年が経過した今も同じように思っているけれど、――だからこそ、小説家をやめた後の人生、当たり前に続く普通の毎日を成立させる為にどうすればいいかは色々と考えていた。

 結論だけ述べると、全ては杞憂に終わった。

 そもそも公務員と小説家の二足の草鞋を履いておられる先達は数え切れないほどおられた。付け加えると、創作意欲もアイディアも尽きることはなかった。燃え尽き症候群とは無縁だったらしい。

 ……当たり前か。

 小説家になるぞ、と闘志を燃やしたことなんて、一度たりともないのだから。

 僕はただ、あの日の延長として小説を書き続けている。執筆の邪魔だなと出版社の電話を着信拒否した時と同じ気持ちのまま。







 小説家になって――ここでの「小説家になった」は、即ち書籍化デビューを指し示すが、――何かが変わったかと言えば、大きく変わったことは何もなかった。

 よく、好きなことを仕事にすると、そのことばかり行い、考えなければならなくなり、好きだったはずのことが嫌いになる、といった類の文言を耳にするけれど、どうやら僕はそういうタイプではなかったらしい。

 小説を書くことは、好きだ。楽しい。というよりも多分、僕は書かずにはいられないタイプの人間なのだと思う。

 僕が好きなアニメの主人公が、こんなことを言っている。「人が空を飛ぼうとするのは、飛ばずにはいられなかったからだ」。その主人公は戦闘機のパイロットで、人々の空に対する憧れ、つまり、自らの動機をそう表現したのだろうが、僕もその手の人間だった。

 小説が好きだ。文章を書くことが好きで、プロットを考えることが好きだ。誇張抜きに、毎日、小説について考えている。歩きながら、車を運転しながら、音楽を聞きながら。キャラクターや舞台設定、物語におけるどんでん返しなどをずっと、考えている。我ながらよく飽きないものだと思う。

 そもそも、僕はどうして小説を書き始めたのだろう? 小説家になることを夢見た経験のないまま、小説家になった僕は、そんなことも覚えていない。覚えているのは、叩かれたことと笑われたことだけだ。でも、何度叩かれても笑われても、小説を書くことだけはやめなかった。やめられなかったのだと思う。

 いつだっただろう。「執筆活動は、今回の公募で最後にしようと思う」「来年は就職だしね」――そう兄に話したことがある。僕の兄は詩人だった。詩で生計を立てているわけではないが、兄曰く、「詩人は生き方」らしい。格好の良い言い回しには腹が立つが、兄は大学院で専門的なことを勉強し、受賞経験もある人間だ。昔から兄に勝てるものは一つもなかった。僕は凡人だが、兄は天才だった。

 そんな兄は、僕の言葉を鼻で笑った。

「『書くこと』から逃げられると思わない方がいい」

 何かを書き記すこと。表現し、伝えようとすること。その先輩である兄は、そんな風に言った。当時は「相変わらず腹の立つことを言うな」「どうしておちょくるようなことを言うんだ」と内心憤慨していた。けれど、違ったのだと思う。兄は、詩人という生き方を選んだ人間として、真摯に答えたのだろう。

 事実、僕はまだ、『書くこと』から逃げられていない。

 書かずにはいられない人間のままだ。







 小説を書き始めてから小説家になるまで、約十年掛かった。

 回り道も寄り道も多かったと思う。当然か。そもそも、『小説家』なんて目指してもなかったのだ。

 しかし、思い返すと、僕は「小説家になりたい」と口にすることから逃げていたのかもしれない。叶うかどうか分からない夢と真剣に向き合うことから、逃げていた。それでも『書くこと』からは逃げられなかった。書かずにはいられない人間だった。ずっと、ずっと。

 あれから数年が経った。

 僕が小説家になった日から。


 僕はあの日、小説家になった。

 なお、小説家を夢見たことは一度もない。

 けれど、執筆をやめようと思ったことも、一度もない。

 これからも多分、ないだろう。

 今なら恥ずかしがらずに言える。僕は小説を書くことが好きだ。

 だから、売れなくなっても、本を出せなくなっても、小説を書き続けると思う。


 僕は、書かずにはいられない人間だから。

 多分、小説家という生き方を選んだ人間だから。





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