フィラデルフィア 1992

加福 博

メラニー

 1992年の夏、私は会社の休暇を利用して、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコにいた。正確にはメラニーと、と言うべきだ。私は24になっていたが、実は1990年に大学を一年休学して半年ペンシルバニア州のフィラデルフィアで語学留学をしている。フィラデルフィアは、ニューヨークとワシントンDCの中間に位置しており、大都会だが、くだらない保守的な街だ。語学学校の先生には美人が多かったのだが、その中でもお気に入りだったのが、私の10年上のメラニーだった。金髪のフリッピー・ヘアと青い目。私が大好きな歌手のオリビア・ニュートンジョンに少し似ていた。


 フィラデルフィアで私は、学校の授業を終えるとトレーニングジムで汗を流して、アジア系の留学生が嫌いな白人の娘がいるホームステイ先で夕食をとり、宿題をしてという真面目な生活を送っていた。そんな中、一日の最後にメラニーの授業を受けた後、彼女と話すことが楽しみであった。エジプト人のエンジニアとの結婚が上手く行かず、離婚しかけだと彼女は頭を抱えていた。私は、ソープランドに行ったことはあったが、女性と付き合った事はなかった。それで、彼女にアドヴァイスをすることができず、ただ、彼女の話を聞くだけだった。


 私が、学校を卒業して帰国する間際、思い切って彼女に文通を申し出た。すると、彼女は、「じゃあ、学校のアドレスに送って」と言った。私は、その通りにして何度かやりとりがあった。彼女は、私に興味を持ったらしく、私たちはまず、再会して、リトル・東京の日本食レストランに行った。確か鶏のから揚げ定食を頼んで、日本酒で乾杯した。彼女は、定食の味噌汁が辛すぎると言って私に飲むようにうながした。可愛い人だなと私は思った。私の今までの一番幸せであったデートだった。何しろアジア系が白人女性とデートできる確率は低かったから、私はものすごく誇りに思えた。それに彼女はものすごく美人なのである。現在は、2024年でアジア系との白人女性との差は縮まった。私の知り合いの韓国人のお兄さんは医者で白人女性と結婚しているし、何しろ野球選手の大谷が大活躍しており、ロサンゼルスの白人女子のメジャーリティーは大谷のことを人種を超えてヒーロー視していると思う。


 彼女は、男女別のユースホステルに宿泊していたので、私が泊まっていたオリンピック・ホテルでゆっくりしようと私は提案した。彼女は承諾しホテルの階段を上がったのだが、私の部屋のドアの前で右手の人差し指、中指、親指を胸の前に持って行ってぎゅっと握って、覚悟を決めるポーズを取った。私は、「あ、これは駄目だ。彼女はアジア系である私と寝るのをためらっている」と思った。部屋に入って、私たちはベッドに寝そべって話を始めた。どんな内容だったかは、おぼえていないが彼女はしきりに髪をかき上げて私を誘った。その時に彼女の指からキラキラした金粉が舞ったように見えた。しかし、彼女のあのポーズを見た私は、手を出すことができなかった。


 夜半、彼女はユースホステルに戻って行った。翌朝彼女は、サンフランシスコからフィラデルフィアに飛ぶので迎えに行って、荷物を持ちバスに乗ってサンフランシスコ国際空港まで行って見送った。その時彼女に、「あなたのホテルの前にストリップ小屋が二つあったでしょう。あなたは、ああいうところに行くべきよ」と言われた。私は、あっ、しまったなあ、あまり堅苦しく考えなくても良かったんだ!と思ったが、後悔先に立たずである。しかし、まだ、フィラデルフィアで会う約束もしている。チャンスはあるだろうと考えた。


 翌日、フィラデルフィアに着いた私は、レンタカーを借りて乗り、三年前にアメリカ横断旅行をする前に、サンディエゴでホームステイした時に知り合った熊谷君のワンルームマンションを目指した。彼は、偶然にもフィラデルフィアに留学していたのだった。彼は日本食レストランでアルバイトをしており、私は彼にくっついて店に行き、料理をご馳走になった。そして、メラニーに会いに行った。メラニーがどこに泊まっていたかも忘れたが、私たちは彼女の提案でペンシルバニア州ピッツバーグに行く事になった。車を数時間転がして当地を観光して、フィラデルフィアにあるアレンタウンに近い田舎町に投宿した。アレンタウンは、歌手ビリー・ジョエルの曲でも有名な街である。


 モーテルの一室で、私たちはピッツバーグの夕食に残したハンバーガーとジンジャーエールで乾杯した。そして、彼女はシャワーを浴びに行った。素っ裸で出てきた彼女はベッドに横たわり、テレビを見始めた。それを横目に私もシャワーを浴びて出てきた。キスは自然と始まった。しかし、彼女は今日買ったキャンドルを車から取ってきて欲しいという。ロマンチックなムードを盛り上げたいと言った。速攻行って戻ってきた私は、タバコのライターですぐに火をともし、ペッティングをしたが、今度はハンドバッグを取ってくれという。そして、彼女はバッグの中からクリームを取り出して、私の指に塗りクリトリスを刺激して欲しいといった。


 私は、その通りにしたのだが、彼女は早々にエクスタシーを感じてしまった。私は、アダルト・ビデオの中でもプロの中でも、体を九の字に曲げてエクスタシーを感じる女性を見るのは初めてで、驚いてしまった。そんな私の様子を見たメラニーは、私に人差し指を刺して「初めて、女のエクスタシーを見たの?あなた童貞でしょ」と言って、顔を紅潮させた。私は、違うと言った。そして、彼女は私たちは、インターコースはしないほうが良いと言った。インターコースって何だと言うとセックスの事だという。そして、その代わりにオーラル・セックスをしてあげるといった。しかし、何だか白けてしまって、私はイクことができなかった。


 フィラデルフィアに戻り、また熊谷君とメラニーの三人でまた食事に出かけたり、メラニーと日帰りでニューヨークに行って、観光したりしていたのだが、私が日本へ帰国する日が来た。夜、私たちはフィラデルフィア国際空港の駐車場にいた。アメリカの英語教師というのは、本当にカネを持っていない。給料が安いから。そこで一泊、車中で浮かせとなったのだ。私の性欲は爆発一歩手前であった。スーツケースの中身を車のバックウィンドーに積み込んで、後ろから見えないようにし始めた。メラニーは、好色な笑みを浮かべながら、「何してるの?何してるの?」と言った。そして彼女は、”This is crazy”と言っていた。あの活気の溢れていた1992年の夏は、私にとって特に忘れられないものになった。

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