2話 王の素質
絞首台を上る、白い少女の姿がある。
頭には布切れを被っていて、その顔は見えない。しかし白いくるぶしまでを覆う胴衣は庶民のそれとは異なり上質な素材が使われていて、布切れからはみ出した銀の髪は陽光を反射してきらめいている。まるでそれ自体が光を放っているかのようで、天上にある日輪の下、その姿は聖人を想起させた。
彼女を拘束するのは、前に出された両手首を繋ぐ手錠のみ。前後に兵士がいて、それぞれ帯剣しているが、その気になれば逃げだすことも出来るだろう。周囲には当然多数の衛兵がいるものの、それでも。
しかし、少女はその足を、己が正しいと信じる道へと進ませていた。
階段を上る。前を行く兵士もまた階段を上り、絞首台の上に移動した。後ろの兵士は階段の下で佇んでいる。
目の前にぶら下がる、この日のために設えられた、輪状にされた縄。同じく檀上に上っていた兵士は少女にそれを促すと、前の方にある別の階段を下りていった。
……あとは、この輪に首を通し、その時を待つだけでいい。
この絞首台は本来は磔刑用のものだったのか、それとも両方の用途があるのか。檀の上には十字を模した木製の組み木がある。それを見上げて、遅れて少女は気付いた。ああ、そうか。これは死体を見せしめにするためのものだ。
今、自分は高いところに立っている。そう実感する。実際は見上げるところに壁があって、その上にも大勢の人々がいるのだけど、同じ地上の中ではいちばん、高いところに立っている。
それなりに離れてはいるようだが、周辺には結構な数の人々がいるらしい。何をしに、なんのために。そこにいるであろう人々を見渡してみたい気もしたが、布袋から覗ける視界は狭く、どうでもいい人々のために首を巡らせるのも億劫に感じた。
ともあれ、十字架を背にするように、目の前に吊るされた輪に首を通す。
足元の床がなくなれば、それでおしまい。
……出来れば、一瞬で終わりにしてほしい。
そうすればもう、何も考えなくていい。何不自由しなくていい。楽になれる。
今さら、生きたいとは思わない。未練も、ない。
……どこからか、酷い罵詈雑言が聞こえる。
何も考えないようにする。縄に体重を預けると息が出来なくなって苦しいから、ただ黙ってその場に佇んでいる。
……いろいろなことが、面倒くさい。正直、神さまがいようといまいと、どうでも良かった。死んだ後はどうなってしまうのか、それが分からなくて恐くて不安だから、だから縋っただけだ。それ以外の何ものでもない。
――じゃあ、なんのために生きてるの?
「あんたが生きてきた意味ってなんだったのよ……!」
……さあ?
たぶん、意味なんてないんじゃない?
ただ、生まれた。空に向かって石を投げたら、自分の上に落ちてくるように。前に進むと、昨日には戻れないように。そういう、自然というものの一環に過ぎなくて。
石や時間と違って、わたしというものには無駄なことを考える機能があった。ただ、それだけ。
……あぁ、また考えてる。もういい。早くしてほしい。
それとも、もう終わってしまったのか?
*
人々のざわめきが聞こえる。
その方向へと馬を走らせる。
人々は突然現れた騎馬に驚き自ら道を開けるが、衛兵たちは剣や槍を手に追ってきた。
「何者だ――!?」
誰何の声に、
「この
馬上の少年は大声でそう応えると、高笑いと共に馬を飛び降り絞首台へと駆け出していく。
武装した衛兵たちが集まってくる。走り去っていく銀髪の少年の背中を見送りながら、槍を持った衛兵に取り囲まれたチシャ・イルサーバーはため息を一つこぼすと、意を決し、腹に力を入れた。
「あの方を誰だと心得る! 帝国市民を自認するなら道を開けろ! 控えろ、控えろ……! その人こそは――!」
あれは。まさか。そんな。知る人ぞ知るその姿に気付いた者たちがいたらしい。陥落したという旧国境の都市から逃れてきた難民か、都市間を行き来する商人たちか。彼らが次々にその名を口にする。衛兵たちもそれを耳にし、思わず手を止め足を止める。
「その方こそ、
――リーオ・オーゼンハント皇太子殿下だ!
――王子さま!
――おい、娘たちを隠せ! あの王子に言い寄られるぞ!
――年上が好きだと聞いたぞ! 人妻熟女なんでもござれのド淫乱らしい!
――いやおれは男を好むと聞いた! 手あたり次第見境なしだそうだ!
――しっかし想像以上に小さいなぁ……。
「おいコラぁ……! 誰だ今この
*
……騒々しさが、不意に止む。
何者かが階段を上ってくる、小さな、しかし確かな力強さを感じさせる足音が響く。
「顔を上げろ」
……言われたからではないが、少女は顔を上げた。縄はまだ、首に触れている。
布切れから見える、小さな視界。銀色の短髪が目に入る。日に焼けた健康的な肌の色、気難しそうに寄せられた眉、薄い灰色の瞳。少年のような顔立ちだった。
「王子殿下ですと……!? 何をされるおつもりか!?」
「うるさい話がしたいならそこから下りてこいエン・ビギニーゲン辺境伯! だが良い質問だ、いい加減答えてやる!」
思わず耳を塞ぎたくなるような大声を放っているのは、絞首台に立つ少女より背の低い、少年のような人物だった。
「この処刑を止めに来た!」
「とっ……!? しかし殿下……! これは父君の、王のっ、皇帝の命令で……!」
「父は死んだ! 今日から我が皇帝だと言えば、お前は我の言うことを聞くのか!」
人々のあいだに再びざわめきが起こる。
「もちろん嘘だ! おい冗談だからとりあえずパニクるな民衆ども!」
冗談にしても言っていいことと悪いことがある。特にこのご時世だ。それこそ不敬罪に問われかねない暴言である。
「いいか、よく聞け民衆!」
王子と呼ばれた少年は、腰の鞘から剣を抜いた。その一動作で再び周囲に静寂が蘇る。
「この女をここで殺すことに、なんの意味がある? 確かに、裏切りには報いを、だ。都市を追われた者もいるだろう。西側の連中に思い知らせる必要があるのは分かる。しかし、しかしだ! ――この女になんの罪がある!?」
……罪は、ない。
むしろ彼女という人質がいなければ、つかの間ではあったが、今日までの平和が訪れることはなかった。少年は民衆にそれを説く。
「平和を担保するための人質だ。それが損なわれたのなら、この女に価値はない。……この女が死ぬことに、価値はないんだ。少なくとも我たち東側にとって、それはむしろ不利益だ。なぜなら、ここで彼女を殺せば、西側に復讐という動機を、燃料を注ぐことになるからだ」
戦争になれば、それは確かに不利益になるだろう。西側の自作自演だが、それでも兵士の士気に関わるのは間違いない。
「我たちが攻勢に出る理由なら、すでにあるだろう。都市を奪われた。なら、それを取り返す。ただそれだけでいい。そしてそれは我がこれから成し遂げるから、この女を殺す理由もない」
めちゃくちゃなことを言っていると誰もが思うのだが、しかしその勢いには人々を突き動かすものがあった。
「それから、もう一つ。お前たちが死に追いやろうとしているのは、この我の親類に当たる女だ! リイン・オーゼンハント! 我の祖父の、弟の……えっと……」
「孫にあたるお方だ!」
と、馬に乗った青年が補足した。
「つまりは我の、そしてお前たち帝国市民の家族である! ついでに言うなら、西の連中も我ら同様、帝国市民に違いないのだ!」
都市国家と言われるような城塞都市に住む人々には、馴染みが薄い感覚かもしれない。しかし、それら国家をまとめた帝国――皆、同じエンリングス帝国の市民なのである。今こそ西側、東側と分かたれてしまったが、都市間を渡る商人たちは自分たちを「帝国市民」だと自認する。
そして、良くも悪くも名の知れた王子について見聞きする者たちも、自分たちが彼の国の市民であるという自覚を持っていた。それはある種の誇らしさを彼らにもたらす、勲章のような輝きを放っていた。
「ならばこそ、我はこの女の声を聴く!」
市民たちは沈黙する。この処刑に、意味はあるのか。贖いを、報いを求める礼節は根深く染み渡っているが、それは、彼女にも――国に裏切られた彼女にも、訴える権利はあるのではないか。
今こそ我らは、彼女の
王子は少女に歩み寄った。
「お前だって、死にたくはないだろう」
その意思に、問いかけた。
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