プロローグ2 黙して語らず/語るに及ばず




 エンリングス帝国東部、あるいは東国エアスト辺境の一角、エン・ビギニーゲン――その地を預かる領主ハッキンブロール家の邸宅にて、遠方よりの使者をもてなす宴席が開かれている。


 本来であれば都市内貴族連の顔ぶれが集い、エン・ビギニーゲンの特産などをひけらかすように屋敷のホールを用いた盛大な立食パーティーが行われるところであるが、これを遠方よりの使者は丁重に固辞した。

 それでもケイネス・ハッキンブロール辺境伯は使者を宴席に招くことを譲らず、こうして二人の少女が夕食の席についている。


 一人は室内であるにもかかわらず、黒いレース生地の軽聖套パーカーで身を覆い、フードで頭を隠している。これは聖教徒の正装であり、下には質素な胴衣を着ている。額と耳を出すようにくすんだ金髪をきれいに切り揃えた小柄な少女で、歳は十代中頃か後半といったところだろう。その口はもぐもぐと忙しなく動き、供された料理を遠慮なくその身の糧に変えている。


 彼女は主賓ではない。本来のゲストはその左手――部屋の入口にほど近いところにある下座に座っている。……のだが、室内に集まった人々の視線を独り占めしているのは、右手で無作法に銀のフォークを握りその口に料理を次々と放り込んでいく傍ら、左手の五指をさながら音楽指揮でも執るように中空に躍らせている彼女の方であった。


 本来のゲストもその躍動する指先に目をやっていて、そしてそれが一通りの意図を伝えると――ようやく、口を開く。


「ハッキンブロール子爵におかれましては、本日はこのような席を設けていただき、すごく恐悦……恐悦至極デ参ります」


 不自然極まりない片言カタコトを話す主賓は、フィセスという名の少女だ。薄く緑がかった黒髪を肩まで伸ばし、軽聖套のフードは脱いでその整った顔立ちを晒している。すっと背筋を正して腰かけており、食器類を扱うその所作も相まって大人びて見えるが、年齢は横で食事を続けている少女とそう変わらない。


 その名はセステン語で「平和」を意味している。それもあって、少女の口調がたどたどしく言葉遣いが怪しいことについても、おもに古ロマンセ語が使われているこのエン・ビギニーゲンの人々は「まあそういうものだろう」となんとなく受け入れている。

 しかしそれはそれとして、傍らで寡黙に料理を食し続ける少女の"指図"はなんなのだろうか。礼節を重んじる東国貴族であるハッキンブロール子爵であるが、相手が説明しないのであればこちらから問いただすような無礼はしない。

 まるでこちらに伝わらないように、しかし公然と秘密裏なやりとりとをしているようではあるが、相手が相手なので、それを咎めようという気は起らなかった。こちらに危害を加えるような類でもないようだし、何より、仮にそのような気を起こそうとすれば――


 フィセスの背後、部屋の入口のドアには彼女に付き従う聖教騎士団の男が控えている。しかし、その数は一人。部屋の外にはハッキンブロール子爵の私兵が二人立っているし、室内にはその倍の兵が二人の少女を見張っている。


 彼女たちをこの都市まで護衛してきた騎士団の者たちにも見張りがついていて、仮に何か起こそうとしてもただちに制圧可能だ。彼らは現在、護衛というより人質といっても過言ではない立場にある。


 信心深く、ゆえに聖教会第三位と謳われるこの少女の来訪を歓迎した子爵であるが、「第三位の聖女」と呼ばれる彼女を軽んじているつもりは毛頭ないものの――それでも、立場はこちらが上であるし、武力で以てすれば少女二人と騎士一人など恐れるに足らない。そう考えていた。


 ……事実としてその通りである。フィセスには子爵一同に抗する武力はなく、刃を向けられれば大人しく降伏するよりない。


 しかし、彼女には言葉があった。


 何より、彼女には彼らと敵対する意思はない。ここには争いに来たのではない。争いを、止めに来たのだ。


 フィセスが顔を上げ、子爵を見据える。その青い瞳を前に、子爵は知らず固唾をのんでいた。


「リィン第二王女の処刑を取りやめてはいただけませんか」


 単刀直入に、彼女は要件を口にした。それまで料理の感想等といったぎこちない談笑で温めていた空気が、一気に冷え切ったように子爵は感じた。周囲に控える近衛兵たちにも緊張が走り、その場に静寂が訪れる。唯一聞こえるのは、いっそ場違いにも感じられる、かちゃかちゃと食器を鳴らす音だけだ。それでも、その音の主、シィレーヌも口をもぐもぐしながらも多少顔をしかめていた。


「それは……、」


 子爵はワインで口を潤してから、改めて青い瞳に対峙する。


「私の一存では、どうにもなりません、聖女殿」


「…………」


 フィセスは何か言いかけたが、それを制するようにシィレーヌが左手を振るう。フィセスは一瞬だけ不満そうな顔をしながらもその指の動きを目で追ってから、改めて口を開いた。


「ハッキンブロール子爵。貴方は東西の別を抜きにして、この席を設けていただいた。貴方は、正しい心の持ち主なのでしょう。であるならば、貴方は意味のない、罪のない者の死を歓迎するべきではない」


 言葉遣いのたどたどしさもあって子爵はわずかにその意図を図りかねたが、要するに……同じ聖教徒であるならば、無益な殺しをするべきではない、と言いたいのだろう。それはもっともである。しかし、これは意味のない行為ではない。


「……停戦の和平を反故にし、先に我らが東方領に攻め入ったのは貴女方、西側です。裏切りには、報いを。右の頬をぶたれたのなら、相手の右頬をぶちのめしなさい――これは聖教の教えでもあります。誓いが破られた以上、その代償をこちらは見せしめる必要がある」


 ゆえに、東側で"人質"として身柄を預かっていた西国第二王女を処刑する。

 明日の正午、城壁の外にてその絞首刑を執り行い、その亡骸を領土を侵した賊どもの前に晒すのだ。貴様らの行いによって、一つの命が失われたのだ、と。


 これが東国貴族が重んじる礼節である。やられたら、その行為の意味を思い知らせる。責任の所在を明らかにする。相手の意思、選択の結果の是非を問う。


 何もしないと誓ったのに、それを破ったのだから、こちらは預かっていたものの死を以て――両者の関係は対等だ。そのうえで、こちらは奪われたのだから、それを取り返すために行動する。


 明日行われる公開処刑はそのための――戦争の開始を告げるための一種の儀式と言えよう。

 あちらは王女を殺され、その死体を野に晒され、復讐心を燃やすことだろう。もちろん当然の報いだが、あちらがそうして殺すつもりで来るのなら、こちらが相手を殺すことにためらう理由はない。


 正義をつくりだすための大義名分――冷戦を終わらせ、戦火を再び燃え上がらせるのだ。


 ……つかの間の平和が終わりを告げる。子爵も人の子である以上、少なからずその一端に関わることへの抵抗がある。


 しかし、だ。


「何より、これは王命であります。王の命とはつまり、神による啓示でありましょう。なぜなら、王は神によって選ばれるのですから」


 そして、その「王」が二人いる現状は、間違っているのだ。

 誤りを正し、過ちを糺す。そのために血が流れるのであれば、それが運命というものなのだろう。火が酸素を食らい燃え上がるように、水が大地を削って流れるように、帝国がその真の姿を取り戻すために失われる人命があるだけだ。


「…………」


 王を選ぶのは何か。

 それは、神だ。


 聖教はその神の教えを世に広く知らしめる存在。聖女、それも「第三位」と呼ばれる奇跡の担い手であるフィセスはその代表の一翼を担う立場にある。


 神の名を引き合いにだされれば、口をつぐまざるを得ない。

 彼女の正しさもまた、神の名によって担保されているのだから。


 それでもなお、この場を訪れた。そうと分かってなお、この席を設けた。

 生まれも育ちも違う、国も違えば立場も違う両者は共通の願いを抱き、同じ見解を持ちつつも――


 交渉は実を結ばず。


 お茶を濁すような静寂を伴いながら食事を終え、フィセスらはその場を後にした。


 ……何が間違っていたのか? それとも、何かが足りなかったのか。


 東国の王に直接文句を言いにいくべきだったか。自分の言葉を用いるべきだったか。


 ……いや。どう足掻いても、この流れは変えられないし、止められなかった。


 先に領土侵犯を起こしたのは西側だ。その時点で第二王女の運命は決していた。今回の遠征は無意味だった。最初から結果は分かっていたのだ。自分はただ、「彼女のために何かをした」という言い訳が欲しかっただけだ。平和のために努力したのだという歴史を刻み、のちの追及から逃れようとしただけだ。それは自分だけでなく、何も言わず送り出した聖教会幹部も、これに応じた子爵も同様だろう。


 正しさのために、人が死ぬ。


「……×××」


 とうてい聖女らしからぬセステン語のスラングを吐きつつ、フィセスはハッキンブロール子爵邸を後にした。




   *




 無人、そして無音。

 それがかつて栄華を極めた旧エンリングス帝都の王城の現状であった。


 守るものも、守られるものもない、空虚な城。


 オーランド大陸南部、今や死者のみが徘徊する暗黒域と化した旧帝都に、自然ならざる音が響いたのはどれくらいぶりだろう。


 何者かの立てる靴音のせいではないが、閑散とした玉座で深い眠りについていたその人影は己の意識を点灯させた。


 その玉座にはかつて、この帝国を治めていた歴代皇帝が座していた。その周囲は絢爛豪華に彩られ、謁見の間に至るまでの回廊にも贅の限りが尽くされていたことだろう。

 しかし今や見る影もなく、むき出しのコンクリートには埃が積もり、建物だけが唯一、人類文明の結晶といえるような状態だった。

 天井の屋根には亀裂が走り、頭上から満月の光が差し込んでいる。


 その光に照らされた人影は白く、黒い。


 肘掛けに頬杖をつき、居眠りしていた老人のようにも見えただろう。そのシルエットはそれほどまでに痩躯であった。

 あるいは玉座で斬り殺された、かつての皇帝が残した無残な血痕シミのように映るかもしれない。それほどまでに、その人影には生気が感じられず、物体としてそこにありつつ、影のように希薄な存在感を投じている。


 ソレは、薄汚れたぼろ切れをまとった、人骨であった。

 黒い結晶で継ぎ接ぎされたような全身骨格であった。

 その眼窩に、青い光を灯していた。


 ――死皇帝。


 人はソレをそう呼ぶ。あるいは「不浄の王」と。


 アンデッドどもを操り、あらゆる生持たぬものを支配する皇帝――長き時、人類の敵対者として在り、今もってオーランド大陸南部に無人地帯をつくりだしている存在である。


 彼は、眠っていた。数分か、それとも何十年か。時間を知るすべはない。果たして前に意識を灯したとき、床の埃は何センチほどだったか。


 雪のように降り積もったその上を、女のような人影が進んでいる。


 玉座より数メートル離れたところで膝をつく彼女は、人の皮をかぶった上位アンデッドである。


 人間ではない。もちろんアンデッドであるからには人間ではないのだが、彼女はそもそも生前からまっとうな人間ではなかった。隠れ里の民、エルフィンという高等種族の混血児ハーフなのだ。

 この女を見つけた当時、死皇帝は土くれの民に連なる者どもだけが不死の化生になるだと思っていた。エルフィンのアンデッドというものを見たことがなかったのだ。加えて言えば、ハーフエルフィンだ。物珍しくて傍に置いてみたのだが、彼女が言うには現代においてはエルフィンのアンデッドも珍しくはないらしい。死皇帝がものを知らないだけであった。


 なんにせよ、それは死皇帝の記憶に残るエピソードである。ゆえに、この女は死皇帝配下の軍勢においてもいわゆる幹部のようなポジションを与えている。


 彼女はセステン語、ロマンセ語問わず言語を流暢に操ることが出来るが、この場に言葉は不要だった。彼女の思考は全て、死皇帝には容易く読み取れるのだ。


 死皇帝が問いかけるまでもなく、彼女は今が"前に目覚めた時"より十数年を経ていることを告げた。オーランド大陸を二分した、かの兄弟戦争がいちおうの終結を見て、つかの間の平和を人々が享受する、暗黒時代。


 ……なるほど。どうでもいい。死皇帝にとって人間どもの内輪揉めなど、毎度のこと過ぎてとうに飽いている。まだそんなことを続けているのか、と呆れかえるくらいで、大して関心はない。


 女の報告は、また戦争が始まりそうだ、というものだった。


 ……下らない。


 それでも目を覚ましたのは、この女がわざわざそんなことを報告しにやってきた、その行為自体に興味を持ったからだ。死皇帝にとって人類の戦争など些事に過ぎないが、一方でこうした「とるに足らない行為」にこの偽りの生の全てを費やしても構わないほどの関心を持つ。


 ……この死皇帝が、人間どもの戦争に興味を持つと思ったのか? 死人が増えることで我が軍勢が肥えることに、今更何も思わない。放っておいても軍勢は増えるのだ。自由意思を持つ人間と違って、それで内乱等が起こることもない。いくら増えようと、まったくいないのとなんら変わらない。お前たちにはなんの価値もないのだ。


 それでも、この女にはそれが気がかりなのか。実に人間臭い思考だ。そういうことが出来るなら、寝首をかくくらいはやってみせろ。死皇帝は女への興味を失った。


 しかし、


「…………」


 少しだけ、腰を上げた。肘掛けに手をつき、微動だにしたのはどれくらいぶりか。それでも骨が軋まずに稼働するあたり、この身体はもはや世の理を超越しているのだろう。


 ――神の名を笠に着た連中に、何か動きがあるらしい。


 だが、すぐに興醒めした。どうせ、下らない権威争いの一環だろう。そもそもの兄弟戦争からして、その裏にあるのは聖教内の分裂が発端だった。


 けれども、そう思い至って自分が"冷める"ということを、死皇帝は多少面白がった。この骸にもまだ熱が灯るのだ。その心情の機微を、女に理解することは出来ないだろう。


 ――あぁ、忌まわしきヴィクタール。


 死皇帝が声にもせず口にした言葉の意味もまた、女には分からない。知能が足りないのではない。語って聞かせれば会話くらいは成り立つだろうが、語っても詮無いことなのだ。それほどまでに、下らない。ただの口癖に過ぎないものだ。


 どうでもいい。すべて、どうでもいい。どこぞの王女が処刑され、それがきっかけに絶滅戦争が起こるとしても、死皇帝にとってはどうでもいいのだ。


 ただ、少しだけ。

 興醒めを意識するほどにわずかな心の揺らぎをもたらした、その話に。


 どうでもいいし、どうなろうとも構わないが。


 かといって、何もしないというのもつまらない。


 どうせどうでもいいのなら、何かしてみるというのもまた一興か。


 ……王女を救い、戦争を止めてみようか。聖教の張り巡らせる陰謀を白日の下に晒してみせようか。東西二国の王族連中を皆、この死皇帝の配下に加えてみるというのもいいだろう。


 今さら、この世界を支配しようだとか、"魔王"を演じてみようだとか、そういう考えは浮かばない。


 それは単なる気まぐれである。超常の存在の、ほんの些細な思いつき。


 しかしそれは矮小な定命の者どもにとっては嵐や洪水、地震にも等しい圧倒的で超自然的な災厄である。


 ……久しぶりに、運動でもしようか。


 なあ――、と。


 配下の女に語り掛けようとして、死皇帝は自身が女の名前を知らないことに気づいた。



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