第9話
「お母さん、どうか力を貸して……!」
蓮也が倒れれば、障りの標的は紫緒に変わるだろう。
それはまずいことだ。紫緒が怪我をするという面でもまずいが、巫女であるにもかかわらず、目の前で人が倒れるなんて到底巫女としての矜持が許せることではない。
何枚も持ってきていた紙に文字を描き、力を込める。するとその紙がぱあっと白く光はじめた。
「……きた!」
これは紫緒が障りを祓うときや、瘴気の泉を浄化するときと同じ光だ。つまりこの紙には今、紫緒の巫女としての力が込められている。
「どうぞ、召し上がれ!」
紫緒の巫女の力を込められた紙――札を紫緒は押し付けるように瘴気の泉に突っ込んだ。
肘まで浸かるくらい奥に、ちゃんと届けと札を送り出す。
本来であれば瘴気の泉の表面に触れるだけで泉を浄化することができる。しかし今回はいつもと手順が違う。
巫女の力を一度札に閉じ込めて、それを泉の中に突っ込んだ。
すると瘴気の泉は薄く光って、すぅっとその姿を消した。
そこにはもう、どろどろとしたあのおぞましい泉の姿はない。
「……はぁ、なにをしたんだ?」
瘴気の泉を浄化したことでその泉からあふれる瘴気で形作られていた障りは姿を消した。
肩で息をしながら、それを整えつつ蓮也は紫緒に問いかけた。
「私たち巫女は瘴気の泉を浄化します。けれど、泉だって浄化されてなお復活することがある。なので二度目の復活を阻止するために札を入れました。それっぽくいうと封印、と言ったところでしょうか。これでこの世界に瘴気が二度と現れることはない、とは残念ながら言えませんけど、それでもこの周辺でまた泉が湧き出ることはないでしょう」
「瘴気の泉が復活……? 聞いたことがないな」
それは未来での話ですからね、と心で突っ込みを入れながら紫緒は苦笑した。
この時点では瘴気の泉が再発することはわかっていない。それを紫緒が知っているのは悲惨な未来を知っているからだからなのだが、それを口にする気はない。
「とりあえず、これを繰り返していけば瘴気の量は減少傾向に持っていけるかと思います。地道な作業になりますけどね」
瘴気の泉に巫女の力を込めた札を入れる。それは瘴気の泉が発生してからではないとできないことなので、結局のところ対処は後手後手に回る。しかしそれでもただ浄化するよりはマシなはずだ。
こんなこと、きっと一度目の人生では思い付かなかっただろう。それでもこの方法を思いつけたのは一度目にはいなかった蓮也という協力者がいてくれたということと、母親が紫緒に残した鳥の形をした愛のおかげだ。
母親は鳥の形をしたアザを紫緒に残すことで、紫緒のまじないをかけた。それに着眼点をつけて、紫緒も紙に文字を描いたのだ。
巫女の力は、物に宿すことができる。それに気がつけたのが運が良かった。
「よくわからないが……それはあとで甘い物でも食べながらゆっくり話を聞くとしよう。さすがに疲れたからな」
「そうですね。私のわがままに付き合ってくださってありがとうございました」
「なに、俺はただ協力したまでのことだ。障りをなんとかできるならなんでもするさ」
めずらしく、いや初めてふっと笑った蓮也に驚きながらも、紫緒は町に向かった。怪我人はあっちに、などの叫び声が聞こえてくる。
おそらく紫緒が瘴気の泉を浄化したことでこの町を襲っていた障りも姿を消したのだろう。
軽症を負った蓮也の隣を歩きながら紫緒は考える。もし、一度目の人生で蓮也に協力を仰ぐことができていたなら。もしもっと早くに瘴気の存在の根本に気が付けていたなら。あんな悲惨な未来は訪れなかったのだろうか。
「なんて、今更なにを後悔しても遅いか」
あの未来はもう存在しない。今の紫緒にできるのは、あの未来のような悲惨な世界が訪れないように巫女として頑張ることのみだ。
「ア゛ア゛ア゛」
「え?」
町が前方に見え、殲滅部隊の隊員たちの声が聞こえてきて、紫緒は完全に油断していた。
そこに現れたのはどうやら瘴気の泉とともに浄化されることのなかった障り。それは木の影から姿を見せたかと思うと、なんの躊躇いもなく紫緒に襲いかかった。
「っ……」
それを理解するには時間を有した。
障りが突如現れたこと。そして障りが紫緒に襲いかかってきたこと。驚く紫緒の目の前で、蓮也が腕から血を流していること。
蓮也が、紫緒を庇ったのだ。
「あ……」
「ふっ」
利き腕を怪我して血を流す蓮也は左手で刀を握り直すと、自身の腕に噛み付く障りの脳天に刀を振り下ろした。
そのなんの迷いもない素早い動きに障りは反応できず、さぁっと姿を消した。
「う、うで……血が」
「これくらい問題ない」
「でも」
「大丈夫だ」
自身が気を緩めたばかりに障りに襲われ、それを助けるために蓮也が怪我をしてしまった。
蓮也には一人で何体もの障りの相手をできるだけの剣術の腕がある。普通に戦っていたなら、こんな怪我を負うことはまずないだろう。
今日の蓮也の怪我はどれもこれも紫緒を守ったがゆえの怪我だ。申し訳ないと思わないはずがない。
「……なんで? 蓮也さんは、私のこときらいなはずじゃ」
蓮也の怪我は紫緒のせいである。それにも関わらず、紫緒をいっさい責める気配のない蓮也に、つい紫緒の口から疑問の声が漏れた。
蓮也が本当に紫緒をきらっているかどうかはわからない。けれど、無意識的にそう思ってしまうほどの視線を向けられたことがあったのだ。
たとえそれが訪れることのない未来の話であったとしても。
「……? なぜ俺がきみをきらう? むしろ血の繋がっていない子供を庇おうとするきみの勇敢さを、少なからず俺は買っている」
「っ!」
血の繋がっていない子供を庇ったというのは、蓮也と初めて会ったあの山の中でのことだろう。
そんなことを覚えているとは、いや見られているとは思わなかった。
「きみと初めて会ったとき、きみは見ず知らずの子供を身を挺して庇っていた。その優しさは誰にでも持ち合わせられるものではない」
紫緒にとっての当たり前。巫女として人を助けるという矜持。それを蓮也はその冷たな青い瞳でしっかりと見て、紫緒のことを認めてくれていたのだ。
きっと紫緒の申し出を受けてくれたのも、詳細を言わずとも協力してくれたのも、すべて蓮也なりに紫緒への信頼があったからなのだろう。
「……あ、ありがとうございます。でも怪我が炎症を起こしたりしたら大変なので、ちゃんとお医者さまに診てもらいましょうね」
「ああ、もちろんだ」
紫緒の言葉に素直に頷く蓮也。
その瞳はずっと同じ青いままだ。けれど、その青は氷のようなものではないと気が付いてしまった。
一度目の人生で、あの処刑の場で向けられた瞳とは違う、冷たくも暖かな青。少なからず蓮也に苦手意識を持っていたはずなのに、自身の当たり前の勇気を認めて褒めてくれた蓮也を見て、少し脈拍が早くなった気がした。
心なしか顔も熱い。全身の体温の上昇を感じる。
「い、いやいや」
気のせいだ、気のせい。首を軽く横に振って、紫緒は小走りで町に向かった。
はやく蓮也の怪我を診てもらわなければならないのだ。モタモタしている場合ではない。
そうだ、蓮也の怪我もそうだが、瘴気の問題だって解決していないのだ。瘴気に対する有効そうな対処法を見つけた今、紫緒はその対処に追われるだろう。
心臓をどきどきさせている暇なんてないのだから。
「紫緒」
「は、はい」
蓮也を町まで見送り医者に預けると、先に神社に戻ることにした紫緒は背後から名前を呼ばれて立ち止まった。
「またな」
「……はい」
正直なところ、今の表情は誰にも見せたくなくって、紫緒は振り返ることなく駆け出した。
軽い足取りで向かうのは市井を抜けた先にあるいつもの神社。
「ああ」
きっとこれから先、紫緒が一人で瘴気と立ち向かうことはないのだろう。
瘴気の泉を見つけ出して、それに札を入れる。単純な作業であろうとも、そこにはきっとあの意外にもお節介そうな彼の姿があるに違いない。
あくまで紫緒の仕事は瘴気の浄化。それでもきっと孤独な仕事にはならない。
少し嬉しそうに表情を緩める軽やかな足取りの紫緒のはるか上空で鴉が鳴いていた。まるで運命は変わったと言わんばかりに――。
起き抜け鴉は空に唄う 西條 迷 @saijou
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