第8話

 それは手水舎の水が流れてゆく水路に詰まった枯葉をどかしているときのことだった。


「久我里紫緒」

「紫緒でいいですよ」


 紫緒が手で頑張って葉の詰まりを取り除いていると、背後から声をかけられてそう返事しながら振り返った。

 そこには紫緒の想像通り、蓮也の姿があった。


「ここから十五キロほど離れた場所で瘴気の泉の存在を確認した。今は担当の二番隊と応援に駆けつけた三番隊の隊士数人が近くの町を襲う障りの対処をしている。泉の浄化を頼めるか」

「もちろんです」


 手についた泥を落とし、袖を捲ると紫緒はいつでも行けると頷いた。


「そうか、では」

「えっ、ちょ!」


 蓮也が紫緒に近づいたかと思うと、急に小脇に抱えられた。そして蓮也はなにも躊躇うことなく境内を飛び出すと屋根に飛び乗った。


「じ、自分で走れますから!」

「だがこうした方が早い」

「それは……そうかもしれませんけど!」


 蓮也は結構天然なのかもしれない。いくらこうした方が早いからといってこうも簡単に人を小脇に抱えるものなのだろうか。

 そういえばこの前異形姿の障りに助けてもらったときも屋根の上からやってきたなと思いながら、決して紫緒を離す様子がない蓮也の姿に、紫緒は諦めてため息をついた。

 あとで絶対揶揄われる気がするので、この光景を誰にも見られていませんようにと今の紫緒にはそう願うことしかできない。


 ほどなくして、紫緒を抱えた蓮也は瘴気の泉に辿り着いた。

 瘴気の泉の近辺に人の姿はない。殲滅部隊の隊員たちは障りにかかりきりで泉の方は放置されているようだ。


「でも……」


 人はいなくても、障りはいる。

 瘴気の泉の近辺にはたくさんもの障りが発生していた。


「以前やってみたいことがあると言っていたな。それは時間がかかることか?」

「はい。ですのでその間、蓮也さんには私のことを守って欲しいんです」

「承知した」


 蓮也は紫緒から詳しい話を聞き出そうとはせず、紫緒の求めることを聞くとすぐに戦闘態勢に入った。

 巫女である紫緒は周囲が瘴気があふれていようと問題ない。しかし障りへの対処ができなかった。だから紫緒は今まで瘴気の泉を浄化するときはより素早く浄化していた。

 つまるところ一度も触りや瘴気を発生させる瘴気の泉を詳しく調べたことがなかったのだ。


 今回の目的は瘴気の泉を詳しく調べること。それによって有益な情報を見つけられれば、より有効的な対処ができるようになるかもしれない。

 蓮也が障りと戦ってくれている間に、紫緒は懸命に瘴気の泉を覗き込み、情報を探す。

 障りについて、瘴気について、なんでもいい。とにかく情報が欲しかった。


 どろどろとした瘴気の泉は、底が知れない。普通の土地が急に泥のように化したのか、それとはまったく別の成分が急にそこに現れたのか。

 瘴気というものの存在が確認されて何百年。誰もそこらへんの詳細について調べ上げることができなかった。それほど瘴気は人の体に害あるもので、障りは凶暴なものだったのだ。

 それでも瘴気はごく当たり前のようにこの世に存在する。人々も瘴気や障りを恐れながらも、その存在の根本を疑うようなことはない。

 まるで火山は噴火するものだと理解しているように。


「……そう、だったんだ」


 瘴気の根本を断つ。それが紫緒、いや人類の願いだろう。

 瘴気さえなければ、障りは現れず理不尽な死に怯える必要がなくなる。

 死にたくない、それは人が持つ当たり前すぎて普段は気にすらしない願望。なにも間違ったことではない。死を恐れるのは人として当たり前のことなのだ。

 しかしもしかしたら瘴気の根本を断つという、この考えは間違いだったのかもしれない。

 瘴気はごくごく当たり前のようにこの世に存在するもの。そう、つまり瘴気は海が津波を起こすように、大雨で川が氾濫するように、火山が噴火してしまうように、当たり前に存在する自然の摂理というものなのだ。


「それは……無くなるはず、ないよね……」


 紫緒はその場で力なく肩を落とした。

 津波を無くすには、海の水をすべてなくしてしまわなければならない。大雨で川が氾濫するのは、堤防を建てたとしても防ぎきれるものではない。火山の噴火なんてものはどうすることもできないのだ。

 瘴気が存在し、それが溢れ出て障りが発生する。これも自然の巡りだ。人には無くすことができない、どうしようもないもの。

 そう、なのだ。


「世界があり続ける限り、瘴気の存在が消えることはない……だったら」


 瘴気の根本を断つことはできない。つまり人類は瘴気を殲滅するのではなく、共存しなければならないのだ。

 それがわかれば、今後の対応も変わる。

 紫緒は懐から紙を取り出してぐちゃぐちゃと文字を書いていく。それはもはや文字というには適当で、絵というにはめちゃくちゃすぎた。

 それをいくつも書いては捨て、新しい紙に書いてはこれも違うと投げ捨てる。


 紫緒の母は偉大な人だ。巫女とはいえ、人並外れた力を持っていた。

 普通なら巫女だろうと人生をやり直すことなんてできない。そんなことをできたのはきっと後にも先にも紫緒の母親だけだろう。

 そんな偉大なる母親の血を受け継いだ紫緒なら。


「ぐぅっ」

「っ!」


 紫緒が泉に向かって格闘を始めて何分いや何十分が経っただろうか。

 背後からうめき声が聞こえて、ハッと我に帰ると紫緒は振り返った。


「はぁ、はぁ」


 そこには肩で息をする蓮也の姿があった。

 多くの障りの相手を一人でしているからか、いや紫緒を守りながら戦っているせいでかなり疲労しているようだ。体の所々に小さな怪我を負っているのが見えた。


「……はやくしないと!」


 蓮也は体力を摩耗している。そのうえでこの瘴気の濃さだ。巫女である紫緒には問題なくても、蓮也には害あるものだ。多少の耐性があろうともこれ以上この場に居させるわけにはいかない。


「蓮也さん! 最悪私のことは放っておいてかまいませんから! 無茶しないで逃げてください!」

「そんなことできるか」


 そう言って蓮也は再びぐっと刀を握りしめると障りに切りかかった。

 正義感が強いのか頑固なのか。どちらにせよ、紫緒がこの瘴気の泉を祓わなければ蓮也は倒れてしまう。

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