第7章 妣(はは)の国にて二人は出会う
1
約束の土曜日。
服もばっちり。メイクは控えめに。
やっぱり緊張する。
緊張しすぎて全然眠れなかった。
クマはできてなかったのが幸い。
朝一番に
――
ありがとう。
ちょっと気が楽になった。
青空。晴れ。
今日も相変わらず暑い。
夏。
1時間も早いけど落ち着かないから待ち合わせの場所に行った。
9時。
駅前。
まさかの姿があって吃驚した。
「なんで」
ツルがすでに待っていた。
有珠穂が見繕ってくれたのだろう。悪くないセンスの全身コーディネイト。いつもの堅苦しいスーツでなく、カジュアルめの普段着という感じで好感が持てた。
服は申し分ないけど、あらかじめ聞いてはいたけど。
その顔は思わず息を呑んでしまう。
「おはようございます」ツルは丁寧に頭を下げた。「遅れてはいけないと思い、早めに来たのですが」
ガーゼで覆ってはいるが、顔の半分が青アザになっている。
ひどい。
これをやったのが誰なのか知らないけど。
どうしてこんなひどいことを。
「ねえ、その顔」
「すみません。治ってからのほうがよかったですよね」
「ううん、私が誘ったんだし。痛くないならいいわ」
もともと彼は時間にルーズなほうではなかったが。て、比べちゃいけない。
彼はツルだけどツルじゃない。呼び名だって改めないと。
「ガルツでいい?」
「呼びやすい名で構いません」
「私のことは?」
「呼び捨てをご希望ですか?」
「まだいいわ。もっと仲良くなってからで」
ガルツは瞬きを多めに返した。「よろしいのですか?」
「いいの。気長にアプローチすることにしたから。観念しなさいね?」
「私なんかでよろしければ」
「卑屈なのも直してもらわないとね。ま、行きましょ」
電車で45分くらい。
10時前に着いた。
水族館と遊園地の合体したような行楽施設。
ちょっと子どもっぽいかなと思ったけど、初めてデートに行った場所なので思い出も兼ねて。
「まずはこっちからね」
園内マップを見て圧倒されているガルツを引っ張って水族館エリアへ。
前に来たのは10年くらい前。あのときは浮かれて魚なんか見るどころじゃなかったからよく憶えてないけど、10年も経てば内装は変わっているのだと思う。
夏休みなだけあってなかなかの混雑ぶり。家族連れより自然と二人連れのほうが眼につく。
ちらりと隣に眼を遣った。
「綺麗ですね」水槽を見ながらガルツが呟く。
サンゴの合間を黄色い鮮やかな魚が泳いでいる。
「あまりこうゆうところ来ないの?」
「そうですね。基本は本部にいますので」
「息苦しくないの?」
「皆さまのお役に立てるよう、日々勤めに励んでおります」
宗教みたい、と思ったけど実際に宗教だった。忘れていた。バカみたいな質問を呑み込んだ。
順路に従って人だかりの合間を進む。
最初に見た黄色い魚とおんなじだ。混雑というサンゴの合間を泳いでいる。
ちょっと眼を離した隙に、団体の間に挟まってガルツと離れ離れになってしまった。
ケータイで連絡しようにも、館内は電波が弱いようでなかなかつながらない。
どうしよう。
ホッキョクグマの水槽の前の椅子に腰掛ける。
ちょっと疲れた。人酔いかもしれない。
きょろきょろ見回してもガルツの姿はない。頭一つ抜けた高身長なので見つけやすいはずなのだが。
置いていかれてしまったのか。水槽に夢中ではあったので。
しばらくしてケータイが鳴った。
「やっとつながった。どちらにいらっしゃいますか?」ガルツは息が切れていた。
「どこかしらね」つい意地悪を言ってしまった。
「どの水槽ですか? 何が見えますか?」
「わかんないわ」
「すぐに探しに参りますのでそこを動かぬように」
「いいわよ。出口にいて。すぐ行くから」
「まだ全部見ていないでしょう?」
「もういいのよ。疲れちゃたみたいだから」
「そうなのですか?」
「そうなの。だから」
もっとゆっくりできる場所を選べばよかった。
もうそんなに若くないんだから。
もしかして。
あのときのこと、思い出してくれてたらって思ったのに。
「どこにいても捜します。だから」ガルツが言う。
なんでそんなに必死そうなの?
はぐれちゃったから?
私がいなくなると困るから?
自分の醜さに辟易する。
「白いクマがね、泳いでるのが見えるわ」
「わかりました。一旦切ります。すぐに迎えに行きますので」
ガルツはすぐに来た。
「大丈夫ですか?」椅子が埋まっていたので私の前で腰を屈めた。「具合が悪いなら」
「ううん、ちょっと休めば大丈夫よ。来てくれてありがとう」
「よかった。本当に良かった」ガルツが項垂れながらしゃがんでしまった。「あなたが無事で」
「なによ、大げさね。ちょっとはぐれただけじゃない」
「あなたに何かあったら私は」
「有珠穂に怒られる?」
「あなたがいなくなったのに気づいたとき、さあっと血の気が引いてしまって」
「だからそれ、有珠穂に怒られるからでしょ? 行きましょ。
といって、遊園地に行くのも。
「どこに行きましょうか」ガルツが園内マップを見ながら言う。
11時前。
お昼にするにも早すぎるし。
「高いところがお嫌いでなければ、あれは?」ガルツが指を差す。
タワー。
「夜景なら綺麗でしょうけど、昼間じゃね」
「船は? 酔いますか?」
「ちょっと座らせて?」
ガルツがせっかく考えてくれてるのに。
なんか、どれも嫌になってきちゃって。
嫌な女。
「飲み物買ってきますね」ガルツが立ち上がろうとする。
「いいの。ここにいて」
園内のベンチ。
日陰じゃないからとにかく暑い。座面も焼けるように熱かったけど我慢して座った。
「水分を摂らないと」ガルツが心配そうな顔をする。
仕方ない。
「わかったわ。炭酸のやつね」
「いってきます」
何も要らない。
あなたが横にいてくれればそれでいいのに。
「お待たせしました」ガルツがカップを二つ持って戻ってきた。
氷のいっぱい入った黄色い飲み物。
「マンゴーとレモンのミックスです」
「ありがとう」
冷たくて喉越しはよかったけど味はよくわからなかった。
「甘いのに酸っぱくて、なんか変な感じですね」ガルツが半分ほど飲んでから言う。
「喉乾いてたのね。ごめんなさい」
「いいえ、催促するみたいになって申し訳ない」
ガルツは悪くない。
悪いのは、
わがままな私だけ。
「ちょっと早いけど昼にしましょう。何食べたい?」
「源永さんの食べたいものがいいです」
「じゃあ」
パンケーキのお店があったはず。
時間が早いのでそこまで混んでいなかった。海が見える窓際の席に座った。
「パンケーキ、初めてです」ガルツがメニューを見ながら言った。
「そうなの?」
一緒に行ったことはあったはず。
ちょっとちくりとしたけど聞き流した。
「どれがいい?」
「迷いますね。どれがいいでしょうか」
「選べないなら選んであげるけど?」
「お願いします」
私が食べたかった二つを注文した。半分ずつシェアしようと思った。
「これじゃ足りない?」
「いえ、食べてから考えますので」
いい匂いがする。
肉料理もあるらしい。
「やっぱり追加するわ」
「ありがとうございます」
パンケーキとチキンプレート。
同時に来たけどまあいいか。
「いただきます」ガルツが手を合わせた。
「いただきます」私もつられて言った。
お腹はそんなに空いてなかったけど、ガルツが美味しそうに食べるのでまたもつられてしまった。
「いつもどんなもの食べてるの?」ふと気になったので聞いてみた。
「皆さんが作って下さるのでありがたくいただいています」
皆さんというのは信者のことだろう。有珠穂は料理なんかできないし。
「私が作ったら食べる?」
「それは勿論。楽しみです」
次は自宅に呼んでもいいだろうか。
会計は割り勘にした。チキンは私も味見したし。
12時半。
「次はどこに?」ガルツが言う。
「行きたいとこないの? 私が行きたいところ、以外で答えて」
「そうですね」ガルツが園内マップを見つめる。「こことか」
ホラーハウス。
「え、ここ?」
それはちょっと。
「駄目ですか?」
「ごめん、無理」
「怖いの苦手ですか?」
「苦手っていうか、ダメ。無理ムリ」
あ、いいことを思いついてしまった。
これなら怖くても我慢できるかも。
「あのね、手、つないでくれたら行けるかも」
「構いませんよ」ガルツが手を差し出す。「どうぞ?」
大きくてあったかい手。
手はそのままだった。
変わってない。
変わってないとこもあったのがわかって嬉しかった。
ホラーハウスは正直怖すぎて何も憶えてないけど、どさくさに紛れてガルツに抱きつけたので良しとする。
13時半。
他に行くところが思いつかなかったので、ショップを眺めてみることにした。
「何か欲しいものがありますか?」ガルツが言う。
ここには売ってなくて。
私の眼の前にあるもの。
とは言わずに。
「有珠穂にお土産を買いましょ。あの子がセッティングしてくれたんだし」
「それはいい。喜びます」
沢山ショップがあって迷いに迷ったけど、一応決めることができた。
ついでに実敦と、父さんと母さんにも。
今度みんなで食事会をするみたいだし、そっちも楽しみ。
ガルツも呼んでもいいのならもっと楽しみだけど、まだちょっと早いかも。
15時。
なんだかんだしてたら時間が経っていた。
遅くなっても迷惑なので早めに切り上げよう。
お別れの駅まであっという間。
「今日は至らぬところがあったとは存じますが、一日お付き合いいただきありがとうございました」ガルツが仰々しく言う。「このお土産は私が責任を持って渡します」
「また誘ってもいい?」
「勿論です。私のほうからも誘えるよう努力します」
「ホント? 言ったわね?」
「源永さんが喜ぶようなプランが立てられるか不安ではありますが」
「わからなかったら聞けばいいのよ。どこ行きたい?て」
「なるほど。そうします」
「じゃあね」
「はい、さようなら。ありがとうございました」
手を振って別れる。
また会える。また会えるんだ。
そう思ったら、全然大丈夫。
有珠穂に連絡してガルツの好きなものをこっそり調査しないと。
2
どうしてこんなことになったのだろう。
社長が思い出してしまった。
若は泣くほど嬉しかっただろう。
若が幸せなのは私も喜ばしいが、これではマサとの計画が。
マサもイライラを隠しきれずに物に当たっている。
マグカップ。
グラス。
皿。
壊れても替えの利くものが次々に破壊されている。こんなことで収まるならどんどんやればいい。
私は、
そんなことでは落ち着きそうにない。
「ちょっと出てくる」
「俺、車出します」すっきりしたマサが気を遣ってくれたけど。
「いいよ。君に当たっちゃいそうだから」
「俺でよければ当たってください」
「駄目だよ。君を壊したくない」
そんなロマンティックな意味はない。
マサは、
壊れると元に戻らない。
否定と墜落に慣れていない。
「役に立てずにすみません」マサは悪くない。
「いいよ。仕事に行くだけだから」
土曜日。
社長が白竜胆会総裁とデートする日。
誰に聞いたわけではない。社長のメールをのぞいた。
小張有珠穂。
あの女がすべての根源だ。
何かを破壊するより建設的なこと。
仕事に打ち込むこと。
10時前。
若が事務所に下りてきた。
「おはようございます」私の顔はちゃんと仕事用だろうか。
若の顔が、かつてないほどに晴々しくなっていて。
私の仕事用の顔にひびが入りそうになった。
「何かいいことがございましたか?」落ち着いて情報収集だ。
「そう見えるか」
「ええ、それはもう」
「まずいな。顔に出やすいのは」若が顔を撫でて苦笑いする。「母さんのこともだが、昨日あのあとツネに話を聞いてもらえてな。帰りが遅かったのはそうゆうわけだったんだ」
「それはよかったですね。お帰りについてはお気になさらずに。ちゃんと戸締りして帰りましたから」
なるほど。
若にとっていいことが続いている。
私やマサとは真逆だ。
「嬉しくて仕方がない。今日は母さんと総裁がデートらしい」若が言う。「有珠穂さんがセッティングしてくれたんだ。あの人には感謝してもしきれない」
「若としてはやっぱり、社長の相手は総裁が相応しいと思いますか?」
「どういう意味だ?」
浮かれきった若でなくても引っかかる。
そう取れるように言ったのだから。
「まだあの男のことを出すのか」若の表情が硬くなる。
「社長がこうなった以上、マサは本当にお役御免でしょうね。わかってます。朝からすみません。もう話題は出しません」
「朝がどうかじゃない。二度と出すな」
「すみません」
若の機嫌が少し悪くなった。こうなると世間話をしてくれなくなる。事務的な最低限の会話のみ。
情報収集ができない。
仕事をしながら、憂さ晴らしに全社員の社内メールをざっとのぞいた。
真面目に仕事している奴。
不真面目に私用のメールを飛ばしている奴。
たまに個人情報が拾える。
本社と支部の全員のデータも参照できるので、どこ勤めの誰が何をしているのか一括把握が可能。
ああ、どいつもこいつもどうでもいいことばっか。
こっちは将来に関わる大事な局面で大ミスかまして台無しになったってのに。
今後把握すべきは社内にはいない。
総裁はもちろん、二代目マチハ様こと小張有珠穂だ。
信者の誰かを買収してスパイにさせるか。
しかし、あの団体は良くも悪くもひどくまっとうな団体。目的は全人類の幸せ。そのために日々慈善事業に励む。教義はたったそれだけ。このどこに付け入る隙があるというのか。
むしろ総裁本人に真っ向から近づくのがある意味正攻法か。
そうなるとやっぱり小張有珠穂が邪魔か。
どうすればいい。
どうすれば。
10時半。
若が懸想しているバイトの少年・
夏休みだというのに精が出る。中学生らしく遊べばいいのに。
意気揚々と本日の依頼先に出掛けて行った。
若は留守番で。
「行ってもよろしいんですよ?」これはいつも言っている。事務所は私一人で残れるので。
「駄犬がな」
駄犬と言うのは若の恋のライバルであるところの、群慧武嶽。
彼と顔を合わせるといつも巽恒を取り合ってケンカになっている。客の前で醜い言い争いを見せたくないのだろう。そこらへんはきちんと会社のイメージを気にしてくれている。
19時。
仕事を終えて戸締りをする。
マサは迎えに来ていなかった。今日ばかりは控えてくれたらしい。
正直そのほうが有難かった。
さて。
行くところがある。
「いまからお時間よろしいですか?」
「怨みつらみでしたらお受けしておりませんわよ?」小張有珠穂が電話口で言う。
「私たちの完敗です。つきましては敗北宣言などを直接いかがですか?」
「そんな無駄な時間はありませんわ。もうよろしいかしら?」
「待ってください。あの」
「今日、お迎えが来ていませんでしたでしょう?」
「よくご存じですね」
信号で止まる。
「もう二度とお迎えは来ませんわよ」
「どういうことですか?」
ふふふ、と小張有珠穂が電話口で笑った。「確認したほうがよろしいですわよ」
電話を切って走った。
マサに電話がつながらない。
マサの家まで急いだ。
鍵は開いていた。
「マサ!?」
いない。
室内に争った跡はない。
朝方に割ったグラスやらの破片がそのまま。
「マサ?」
どこかに出掛けたのだろうか。
鍵のかけ忘れがおかしいし、キーも置いたまま。
なにより靴が置いたまま。
シューズケースを開けたけど、なくなっている靴はなさそうだった。
とすると。
電話が鳴った。
ベッドの下からだ。
マサのケータイ。
「見つからないでしょう?」小張有珠穂からだった。「捜しても無駄ですわ」
「居所をご存じなんですね?」
息が苦しい。
胸が詰まる。
「わたくしが消しましたわ」
それを確かめる術は私にはない。
3
火曜日。
住職に呼ばれて経慶寺に駆けつけると、
あろうことか源永さんが裸で囚われていて、それを実敦さんと、実敦さんしか見えない何者かが救った。
住職に呪いが取り憑いていたのだろう。
それを実敦さんしか見えない巫女が祓った。
巫女は、
力を使い果たして消えた。
巫女が消えた証拠として、
いま、
巫女の力がわたくしの元にある。
わかる。
ああ、これが。
呪いを祓う力。
祓うというのは違うのかもしれない。
自らの中に猛り狂う禍々しいものを感じる。
「さっきぶりだね。新しい巫女」頭の中でざわざわと風を揺らすような声がした。「僕の名はないけど、かつての巫女が付けてくれた名を君に教えるよ」
「これからよろしく」
「あの、わたくし、やりたいことがありますの」
「いいよ。君にはその力がある」猛天幡さんが言った。「でもまず力の使い方を知らなきゃならない。手始めに呪いがどういうものか見せてあげる。いつも通りに信者の話を聞いてあげて?」
一刻も早くやりたいことがあるのに。
あの男を消さなきゃいけないのに。
「大丈夫。君がだいじにしてるモリくんの次女のデートの日には間に合わせるから。まずは僕の言うことを聞いて?」
「本当ですわね?」
いつも通り皆さまのお話を聞いた。
聞きながら、何か黒いものがもやもやと漂っているのに気づいた。
いや、この空間に薄っすらと充満しているそれは。
「これが黒だよ」誰もいなくなってから猛天幡さんの声がした。「巫女には見えないんだけど、いま特別見えるようにした。普段は見えないけど、気配はわかるから。この独特の怖気?寒気?みたいな感覚が強まったら僕に教えて? 間違いなく黒が集まってきている証拠だから」
「祓うにはどうしたら?」
「この程度なら触媒は要らないね」
「触媒?」
「それは追々説明するよ。まだそこまでのものには出会わないだろうしね」
「なんですの?」
「焦らないで。すべては君の目的を達するためだ。そのためなら君がどうなっても構わないね?」
「ええ、もちろん。あの男を消すためなら、わたくしがどうなろうと」
「ああ、その返答を待ってたよ」猛天幡さんが喉を鳴らして嗤う。「君を巫女に選んで正解だった」
祓い方は簡単。
怖気や寒気と一体になる感覚。禍々しいものが身体を侵食するイメージ。
怖くなかった。
この程度であの男を消せるのなら。
水曜日。
木曜日。
金曜日。
わたくしのところにお話に来てくれた皆さまで練習をさせてもらった。
コツを掴めば案外簡単で。
これなら眼を瞑っていてもできる。
「君は才能があるよ」猛天幡さんが得意そうに言った。「じゃあ本番だ。覚悟はいいね?」
「覚悟?」
「そう。君が」
その男を呪いに汚染させて自らに封印する覚悟が。
「できそう?」
問題ない。
何ら変わっていない。目的も手段も。
本当にそう?
わたくしはこの先どうなるの?
「さあ、行こうか」猛天幡さんが言った。
土曜日。
11時。
チャイムを鳴らしても電話をかけても出ない。わたくしを避けている。
「無理矢理押し入る方法はございますか?」
「そうだね。一般的には何かを人質に脅す方法だろうね」
「あなたがやったように?」
「バレてた?」
猛天幡さんはついこの間、
いまはわたくしに取り憑いている。
「君のその深く暗い黒いものに惹かれて付いて来ちゃったんだ」
「望むところですわ」
雅鵡良にメールを送った。
言うことを聞かないと、支部の事務員を呪い殺すと。
「どういうことだよ」雅鵡良はすぐにドアを開けた。
愚かな男。
「中に入れてくださいます?」
「だから、カネイラさんは」
「無事ですわよ。まだ、ですけれど」
「卑怯な女」
「まさかそれをあなたに言われるだなんて」
キッチンの床はなぜか陶器の破片が散らばっていた。踏まないように注意して歩いた。
「で? 何の用なわけ?」雅鵡良はソファに乱暴に座った。
「いまからあなたを呪い殺します」
「はあ?」
「嘘ではございません。
「時寧? ああ、よくわからないけど死んでたアレだろ? それが」
「これを見てください」
まずは眼を。
「ぅあ!」雅鵡良が両眼を覆ってソファから転げ落ちた。
いまその両の眼は焼け爛れるように痛いはず。
「あ、あぁ、ああ」
「反省の言葉が聞きたいので口は最後にしますわね。お次は脚」
痛みに声も出ない。
床にのたうちまわっている。
両脚はもう二度と立つことはできない。歩くことも走ることもできない。
膝から下を呪いに喰わせた。
「両手も要りませんわね」
「ま、待、って」
待つわけがない。
源永さんは悲鳴すらあげられないままお前に襲われた。
指と爪の間に呪いを流し込む。
不用意なタイミングで一本ずつ爪を剥がされる断続的な痛み。
「腕も落としましょう」
汚らしい血が飛び散らないのが何よりもよかった。
そして。
「これを消し飛ばして差し上げたくてたまらなかった」
股間を踏みつける。
「ん、ぎぃ、ぁ」
「さようなら」
ボトムごとねじ切った。
こんなにやってもまだ息がある。
まだまだ。
源永さんの苦しみはこんなものではない。
もっともっと。
わたくしの怨みもこの程度では晴らせない。
「ねえ、五体満足で消してあげるだなんて、誰が言いました?」
雅鵡良の顔から血の気が引いて、芋虫のように床を這いずっている。
事務員が帰って来るまでまだ時間がある。
「まだ消してなんかあげませんわ」
タウ・デプス
4
夏休み。
暇すぎてやることがない。
ないまま終わってしまいそうだ。
それは毎年のことなのでいいとして、
最近マチハの様子がおかしい。
誰もその確信に気づいてないだろうけど僕にはわかる。
以前にも増して対外に顔を見せることが少なくなった。
信者のお話会も毎日あったのが週一、隔週、月一と減っている。
誰にも会いたくないらしく、自室にこもりきりになってしまった。
総裁がいるから実務は問題ないとして、困るのは信者だ。
一時的に体調を崩したものとして処理されているのでそこまでおおごとにはなっていない。
今後はどうなる?
気づいているのが僕だけだから。
僕が総裁になればいいのか?
ああ、そうか。
その方法があるか。
「マチハ様のことですが」総裁に探りを入れることにした。
「ああ、アズマか。来ていたのか」
僕が本部に来ることが珍しいので総裁は面食らったようだった。
総裁といえば。
「最近KREと随分懇ろにしているようですけど?」得意の鎌掛けだ。「いずれはそうなりたいという希望を現実にしているものと思ってよろしいのですか?」
「社長にはそのように言われているのだが」
「その気がないのに付き合っているんですか?」
「ないわけではないよ。ただ、自信がないんだ」
この期に及んでまだそんなことを言っているのか。
マチハ様に散々後押しされてその気になっていると思っていたが。
これは長丁場になる。
「ところで、マチハ様の件ですけど」
「医者に診せた方がいいのだろうか」
「いいもなにも。体調が悪いのならそうするのがそちらの仕事でしょうに」
「マチハ様が拒んでおられるのだ。誰にも会いたくないと」
知ってる。
知ってるからそれ以外のことを聞かせてほしい。
「食事は摂ってるんですか? 精神的な病気なんじゃないですか?」
「良ければお前も会ってくれないか。正直困り果てていた」
なんだそれは。
本当に手をこまねいていただけか。
それは何もしていないのと何も変わらない。
マチハ様の自室は地上と地下に一つずつある(地下が寝室で、地上が寝る以外のことをする部屋)が、この状態になってからは地下に閉じこもっているらしい。
部屋をノックする。「マチハ様? 僕です。アズマです。心配で会いに来ました」
「帰って」
「どうしてですか? 皆心配しています」
「帰ってください」
少なくとも会話はできる状態にあるらしい。
「少しでいいんです。顔を見せてくれませんか?」
「お帰り下さい。お願いです」
「理由を聞きます。僕でなければ会っていただけるのか。僕がお嫌なのか」
「誰とも会いません。誰にも迷惑をかけたくないのです」
意味がわからない。
総裁もお手上げとばかりに首を振る。
「あなたがそんな状態では教祖が開いたここはどうなりますか? 信者の方々は? あなた一人の都合でわがままを通さないで下さい」
しばし沈黙。
ちょっと言い過ぎたか。
「わかりました。でも短時間だけです。アズマさんだけ、お入りください」
室内は真っ暗だった。
「つけますよ?」
「やめて!」ヒステリックな金切り声が上がった。
「わかりました。言う通りにします」
精神的な病なら悪化させるのも得策でないだろう。
「僕でよければいい医者を紹介しますよ?」
マチハ様は布団にもぐって顔を見せないつもりのようだ。
室内に生物の発酵したような嫌な臭いが充満している。もう何日も風呂に入っていないのだろう。
僕はベッドサイドに椅子を持ってきて座った。
耐えがたい臭いを我慢しながら。
「病気かどうかを医者に診てもらうという方法もあります」
「必要ありません」
「この手の病気の人は皆そう言います。だからこそ」
「病気でない理由をアズマさんだけにお伝えしますので、どうか、どうかわたくしの言う通りにしてください。わたくしの我が儘を通させてください」
なるほど。一番話のわかる、かつ口の堅そうな僕を味方にしようという作戦か。
悪くない。
さすがはマチハ様だ。
「わかりました。どうぞ?」
のっそりと布団から出てきたマチハ様は、髪を振り乱しながらぼそりとこう呟いた。
「わたくしは、人を殺しました」
次回予告
「なんだ。人違いだ」
思えばこれが、お前との出会いだったな。
「だからごめんって」
時寧にも悪気しかなかった。
「じゃあ時間を元に戻してください」
いま、あの日を振り返ろう。
取り戻したいものが、そこにはあるから。
シリーズ最終回
タウ・デプス
水浸しの女
「待ってます」
「そうだな。待っててくれ」
薄暗い部屋に一人、女が立っていた。
タウ・デプス 黄獄の女王 伏潮朱遺 @fushiwo41
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