第6章 千五百人を産ませよう

     1


 社長――母さんが人質に取られている。

 なんで。

 なんでそんな。

「弟子、大丈夫か? しっかりしてくれ」水封儀みふぎさんの声がする。「失意のエネルギィがクソジジイの餌になる。気をしっかり持ってくれ。社長はわたしが必ず助ける」

 本堂が開放されて、その中に黒がみっちり詰まって。

 母さんは黒の間に横たわっている。

 全身はほぼ黒に覆われていて。

 服の一切を身に纏っていない。

「説明しないとわからんかね」住職が得意そうに言う。「お嬢さんが私を封じるのであれば、それと同時に私は源永もとえちゃんを呑み込んでやるのだと」

「じゃあどうしたら母を」

「弟子、クソジジイと話すな」水封儀さんが言う。

「天秤はすでに傾いとるだろ?」住職が指を差す。「その手の甕と水を捨てて、お嬢さんを差し出せ。トランスに入れないお嬢さんなど怖くない」

「水封儀さん」

「いちいち手間がかかる」水封儀さんが言う。「さっさとわたしにかければいい。絶対に助けてやる。だから」

「でも」

「でもも何もない。わたしを信じてくれ」

 甕に水を移そうとした手を。

 払いのけられた。

 住職は本堂の階段から動いていない。

 とするなら。

「やめてください!」有珠穂うすほさんだった。「源永さんが。源永さんが」

 駆けようとした足がもつれて絡まる。

 石畳に膝を付いて転んだ。

「有珠穂さん!」

 大きなケガはしていなさそうだった。

 しかし、どうしてここが。

 こんな朝早くに。

「私が呼んだんだ」住職が言う。「君の天秤を更に傾けさせるためにね」

「祖父さんとか呼んでませんよね?」

「呼ぼうか?」

「クソジジイと会話しようと思うな」水封儀さんが言う。「早く。早く水を持ってきてくれ」

「お嬢さん、何度言えばわかるんだね。を用意しろと」

「使うなと言ってみたり、使えと言ってみたり」水封儀さんが言う。だいぶイライラしているのが見て取れた。「いまわかった。お前のげんは信用ならない。何一つ。その実、私を惑わすために発した虚ろな言にすぎん」

「気づくのが遅すぎるよ」住職は全身で嗤っている。「私の本心は悪意しかない。なにせ呪いだからね」

「母さんが見えてますか?」有珠穂さんにこっそり聞いた。

「ええ、いますぐに助けないと。あのような辱めを受けて」

「母さんの周りに何か見えますか?」

 そういえば。

 俺の眼が。

「何かあるのね? 呪いというやつなの?」

「はい、いまそんな感じです」

 黒が。

 見えている。

 水封儀さんのお陰だろうか。

 それとも呪いの権化にあてられたか。

「弟子!! いい加減に」水封儀さんが珍しく声を上げる。

「有珠穂さん、すみません。自販機で水を買ってきてもらえますか?」

「源永さんを助けることにつながるのね? わかりましたわ」有珠穂さんが境内を走って行った。

 住職が先手を打たない理由。

「俺に選ばせようとしてるわけじゃないんです。あなたに母さんを傷つけることはそもそもできない」

「弟子。朝から冴えてるな」水封儀さんが後退して俺の隣に並ぶ。「どういうことか聞こうか」

「私も聞きたいな。君が一瞬モリくんに見えたよ」

 時間稼ぎをしなければ。

「あなたは二代前の巫女によってその身体に封じられた。元あった人格を追い出す形で。その人格を呼んでるんです。お名前をどうぞ」

 もやもやと霧の中で像を結ぶ。

 背の高い黒髪の青年。

 見た目は20歳かそこらの。

 でも中身は祖父さんと同年代。

「そこにいる呪いと羅亜波らあはは知ってるよ」彼がどうでもよさそうに言う。

「僕も聞いてないので」

群慧グンケイ島縞しまじ

「巻き込んでしまってすみません」

 今朝屋敷に行く前に祖父さんの家までタクシーで移動した。

 山の入り口だと目立つのでちょっと山道を上がったところで声をかけた。

 祖父さんの傍にいる人に向けて。

 絶対に聞こえているはずだから。

 協力してもらいたい。

 お願いしますと頭を下げた。

「僕は別に体を取り戻したいなんて思ってないよ」

 結果。

 一緒に付いてきてくれた。

「でも祖父さんはたぶん違うんじゃないんですか?」

「どうだろう。老けこんでビックリするだけだよ」

「見た目なんかどうでもいいんじゃないんですかね」

 島縞さん(名字を呼びたくないので名前で呼ばせてもらう)が睨むようにこちらを射る。「随分知ったかだけど?」

「知ったかでもいいです」

「島縞さんだったんですか」水封儀さんが言う。「お久しぶりです。弟子が失礼をしまして」

「気づいてなかったわけないだろ? 白々しいよ」島縞さんが溜息を吐く。

「同窓会みたいになってきたね」住職が言う。「シマくんを連れてきたところで」

「儂もいる」祖父さんの声がした。

 やっぱり。

 気づかれていないわけなかった。

 山の入り口には来客センサがある。

「儂に黙ってシマを連れていかんでくれ」

「黙っていなくなったりはしないよ」島縞さんが言う。

「置いていかれるのはもう懲り懲りだ」祖父さんが島縞さんに手を伸ばす。

 二人は愛おしそうに手をつないだ。

 祖父さんのそんな顔。

 初めて見た。

「関係者全員集合だね」住職はまだ余裕そうだった。「時間稼ぎはもういいかな」

「僕の話がまだです」できるだけ厭きられないように話さないと。「あなたはニンゲンの身体に封じられたときに力を喪っている。身体のほうの命を絶てば力を取り戻せるってのは真っ赤な嘘だ。もしそうだとするならとっくにやってるでしょう? その身体に封じられたのは何年前ですか? 30年も前でしょう? この間に何もしてないのなら何もできないってことです」

「ほお、言うね。でもこうは考えられんかな。封じた力が30年経って弱まったのだと。こいつも」住職が数珠を鳴らす。「効力が薄まっていると。それがいまなのだと」

「そうだとしても、いまはニンゲンでしかないあなたに、直接触れずに母を傷つけることはできない」

「じゃあ直接触れようか」住職が階段から腰を浮かせる。

 やめて、と有珠穂さんが金切り声を上げる。

 ペットボトルを落としてしまった。

 それを拾って甕に移す。

「随分と口が巧くなったじゃないか」水封儀さんが自分の口を指差す。「早くそいつをかけてくれ。それですべて終わる。社長も助かる」

「いままでお世話になりました」

「誰がお別れだと言った?」

「今度はしばしのお別れじゃないんでしょう?」

「どうだろうな。やってみないとわからんよ」水封儀さんが言う。「なにせ、納家が代々封じてきた底知れぬ容量の呪いだ。封じるビジョンはあるが、そのあとがどうなるかは」

「待ってます」

「そうだな。待っててくれ」

 住職が本堂に入ろうとしたので。

 思い切り、甕の水を。

 水封儀さんの頭の上でひっくり返した。

 

  来る(う)な止まれ


  否定でなく中枢でなく


  水のやうに封じ


  儀式はここに


 水封儀さんのトランス用の呪文がやけにはっきりと聞こえた。

「お嬢さん一人では足りんよ。言ったろう、触媒を」住職の周囲が黒に塗りたくられる。

「触媒なら僕だよね?」シャオレーさんの声がした。

 黒く長い髪。

 全身黒のドレス。

「レー! 遅いぞ」水封儀さんの声が僅かに上ずった。

「ごめんごめん。みーちゃんの準備に時間かかって」

「お母さん、おまたせ」

 小さな少女。

 真っ白のワンピース。

「みー! そうか。ありがとう。一緒にやれるか?」

「うん、てつだう」


  あら(は)れ塞げ


  ほうきであり蛇であり


  鉄のやうに荒々し


  黒けき我が母


 満心炉ちゃんの高い声が透き通って。

 もう一度、水封儀さんの呪文が聞こえた。


  狂(う)な止まれ


  否定でなく中枢でなく


  水のやうに封じ


  儀式はここに


 黒が。

 消える。

 俺が、

 水封儀さんの大仕事をこの眼で目撃したのは初めてだった。

「別にそんなこと望んでないのに」という島縞さんの声が聞こえて。

 世界が元に戻った。

 水封儀さんがいないことを除けば。














     2


 元・水封儀みふぎさんの屋敷から水封儀さんがいなくなった。

 前までは、容量の大きな黒のときは屋敷の中で祓い続けていたのに。

 気配がまったくなくなった。

 住職の身体にはもともとの持ち主の島縞しまじさんが戻り、不服そうな本人をよそに、祖父じいさんが人目を気にせず抱きつくほどの喜びようだった。

 30年ぶりに再会できたと、祖父さんが言っていた。

 母さんは有珠穂うすほさんが病院へ連れていき、特に問題ないとのことで検査だけで帰って来れた。

 だいじを取って、今週いっぱいは仕事を休むらしい。

 祖父さんも有珠穂さんも、母さんが無事でよかったと感極まっていた。

 俺の眼も元通り、黒は見えなくなった。

 水封儀さんのことがわからないのはそのせいかもしれない。

 きっと戻ってきてくれる。

 早くて一年後。

 俺は高校に行っているだろう。

「そう緊張しないで?」有珠穂さんが声をかけてくれる。

 翌日。

 水曜日。

 朝10時。

 仕事は明日からなので、今日が仕事上の夏休み最終日。

 とんでもないことになっている。

 すでにひっくり返りそうになっている。

 嘘だろう。

 嘘に決まっている。

 そう思う反面。

 奇跡だろう。

 生きていてよかったと思ってしまっている。

 母さんが俺に会いたいと言っているらしい。

 有珠穂さんがセッティングしてくれた。

 事務所に呼んでくれると。

 何度も何度も確認した。

 母さんを騙して連れてきていないかどうか。

 母さんに負担をかけていないかどうか。

 有珠穂さんはそのたびに否定した。

 母さんのほうから提案してくれたのだと。

 母さんは、俺のことを思い出してはいない。

 でも、俺のことを息子だと会いたくなったらしい。

 記憶が戻ったというより、新たに結んだという感じだろうか。

 どっちでもいい。

 そんなのどうでもいい。

 母さんと会えるのなら。

 祖父さんは知っているのだろうか。

 伊舞イマイは聞いたのだろうか。

 水封儀さんにも報告したい。

 巽恒よしつねにも話したい。

 嬉しい。

 嬉しすぎる。

 時間になって、母さんが事務所にやってきた。

 事務所の前の通りは駐禁なので、車で来たなら裏のパーキングに止めただろうか。

 カジュアル寄りのパンツスーツ。袖が夏仕様だった。

 大通りに面した壁がハーフミラーなので、事務所のドアを開ける姿がよく見えた。

「おはよう」母さんが俺を見ながら挨拶をくれた。

「おはようございます」俺も挨拶を返した。

「おはようございますわ」有珠穂さんも挨拶をした。「じゃあ、わたくしは席を外しますわね」

 止める理由がないのでお礼だけ言った。

 沈黙。

 どうしよう。

 何を言えば。

「あなたが、私の息子なのね?」母さんが俺を見ながら言う。

「はい、実敦さねあつです」

 名前くらい知っているだろう。

 自己紹介しながらおかしいと思ったがそれしか言えなかった。

 俺が母さんの視界に入っている。

 いいのだろうか。

「座っていい?」母さんが言う。

「あ、はい。お茶持ってきます」

「お願い」

 手が震える。

 伊舞のお茶コレクションを検分する。

 やっぱりこれだろう。

「どうぞ」

「ほうじ茶? あ、これ、あの店でしょ。伊舞ね。愛用してくれてるのね」

 向かい合って座る。

 パーテーションのない席に。

「いい事務所ね」母さんが店内を見回しながら言う。「上の階は父さんが使ってたみたいね」

「祖父さんが?」

 知らない。

 そうだったのか。道理で立地がいいのに長らく空き店舗になっていた。

 あ、いや。え?

 ということは、事故物件だった理由は祖父さん?

「父さんからの指示?」母さんが訊く。

「いえ、俺が自分から頼んだんです。役に立ちたくて」

「そうなの? 立派にやってるのね」

 嬉しい。

 もう泣きそうだ。

「父さんはあなたのこと、なんて呼んでるの?」

「サネです」

「じゃあ私もそう呼ぼうかな」

「どうぞ」

「サネ」

「はい」

 駄目だ。

 嬉しくて。

 嬉しい。

「なんで泣くのよ。私が泣かせたみたいじゃない」母さんが手を伸ばす。

 俺の頭を撫でてくれた。

 もっと泣いてしまう。

 事務所は閉めたままだろうか。

 きっと大丈夫だろう。

「サネの話聞きたいのに、今日は無理そうね」

「また来てください」

「もうちょっといるわよ」

「忙しいのに」

「今日は休みよ? 今週いっぱい休みなんだから」

 知ってる。

 有珠穂さんから聞いた。

「有珠穂ね、ずっと私のこと気にしてくれてたのよ。自分のことは二の次で。いつも私のことばっかり。惚気みたいだから恥ずかしいけど、今週末ね、ツル――えっと、白竜胆しろりんどう会の総裁とデートすることになったの。ふふふ。もうね、楽しみで楽しみで。何着て行こうかな~って毎日クローゼット眺めてるくらい。それとも新しいの買っちゃおうかな~」

 母さんが嬉しそうだ。

 これ以上の幸せはない。

 また泣けてきてしまった。

「もう、ハンカチぐしゃぐしゃじゃない。泣きすぎよ? 大丈夫?」

 頷くしかできない。

 嬉しい。

 本当に嬉しい。

 結局俺がずっと泣いてて会話らしい会話にならなかった。

 改めて仕切り直しの機会をくれるらしいのでそのときは泣かないようにしたい。

 母さんが帰ってもなかなか涙が止まらなかった。

 やっと落ち着いたお昼頃、有珠穂さんから連絡があった。

 12時半。

 ぶり返して泣きそうなのを必死でこらえて、精一杯の感謝を伝えた。

「わたくしはね、源永もとえさんと実敦さんが幸せなのがいいの。それ以外は要らないの。喜んでもらえて良かったわ」

 母さんの言っていた通りだったが、どことなく底深い暗いものを感じて首を振った。

 適当に昼食を摂って、祖父さんに連絡した。

 祖父さんも先んじて母さんから聞いていたらしく、我がことのように喜んでくれた。

「今度皆で集まる機会を作ろう。家族みんなでな」

 島縞さんも一緒でいいと伝えたら、祖父さんはちょっと恥ずかしそうにしていた。

 事務所が事故物件になっていた理由も直接聞けるといい。

 きっと黒が原因だろうから。

 水封儀さんは知っていたのだろうか。

 もっと昔の話だろうか。

 母さんの週末デートもうまく行くといい。

 俺も早く、

 巽恒に会いたい。













     3


 住職という黒を祓って、経慶けいけい寺から立ち去るとき、意外な人物から呼び止められた。

 とかく巨大な黒い影。

「いたのか」

「ここ、俺の家」彼が言う。

 群慧グンケイ武嶽むえたけ

 住職の弟の孫。

 俺の支部で仕方なく臨時バイトとして雇っている。本当に仕方なく。

 なにせ、

 俺の巽恒に懐いている。

 ただの駄犬。

「こそこそのぞき見か?」

「だから、俺の家だ。お前こそ俺の家で何やってた?」

「見たのか?」

 すでに撤収した後。

 ここにいるのは、立ち去りがたかった俺だけ。

 9時。

「じいさんの兄貴がいた」駄犬が言う。「何か悪いことをしたのか?」

 見えるわけがない。

 俺以外にはただの。

 なんだ?

 そうか、何をやっているのかよくわからない集まりにしか見えない。

「話したいことがあったんだ」

「朝からか?」駄犬が食らいつく。

「起きてると思ったんだ。なんだ。そんなに気になるなら住職に聞けばいいだろ」

「じいさんの兄貴は苦手だ」

「それはそっちの都合だろ。俺は行く。じゃあな」

 これ以上駄犬と話していたくない。

「あの人がいた気がした」駄犬が俺の背中めがけて言葉を投げつけた。

「あの人?」仕方なく足を止めた。

「あの人には世話になった。お礼を言いたかったんだが」

 誰のことだ?

「お前と知り合いだったのは知らなかった」駄犬が言う。

「だから誰のことを言っている?」

 一人しかいない。

 あの場にいたのは、全員が全員、俺と関わりのある人物。

 住職。

 有珠穂さん。

 島縞さん。

 祖父さん。

 母さん。

 そして、

「生きてたんだな」駄犬が遠くを見るように言う。

 水封儀さん。

のか?」

「なんとなく」

 どんな関わりがあったかは知らないし聞くつもりもないが、水封儀さんが駄犬か駄犬周りの黒を祓ったに違いない。

「よろしく言っておいてくれ」駄犬が言う。

「自分で言え。伝言は知らん」

「だいぶ先になるんだろ?」

「よくわからん。早くて1年後だ」

「わかった。憶えとく」駄犬が俺と反対側へ足を進める。「ヨシツネさんの家にいる気がするから」

 なんだ。

「知ってるんじゃないか」

「なんとなく」駄犬が言う。「じゃあ」

 巽恒がよく、駄犬に超常的な力があるとか言っていたが、それの一端だろうか。

 それとも単に住職の血縁のせいで、黒が見えるのか。

 どっちでもいいか。

 駄犬のことなんか本当にどうでもいい。

 帰りに、通り道なので元・水封儀さんの屋敷を見に行った。

 水封儀さんはいなくなっていた。














     4


 木曜日。

 お盆が開けて仕事が始まった。

 伊舞も普段通り出勤した。

 9時半。

「このたびは、私の浅慮からご迷惑をおかけしてしまい」伊舞が俺の顔を見るなり膝に着くくらい深く頭を下げた。

「悪いと思うなら二度としないでくれ。近づけないという約束を守ってほしい」

「わかりました」

「わかったなら顔を上げてくれ。仕事にならない」

 伊舞の顔が仕事用に切り替わった。

 10時。

「まだ一週間経ってへんやないか」と言いながらも巽恒は事務所に顔を出してくれた。

 駄犬を連れて来ていたがいつものことなので気にしないことにした。

「久しぶりだな」

「久しぶり違うやん。押し掛けて来よって」巽恒が息を吐く。「まあ、雨降らんくてよかったな」

 雨天限定の仕事がある。

 買い物代行。

「降っても一人でやるつもりだったがな」

「ああ、せや。報告があるん」

「なんだ」

「午後から雨やさかいに。持って来たん」

「なんだ。勿体つけるな」

 とか言っていたら、本当に雨が降ってきた。雨天の予報をチェックしそびれていたらしい。

 17時。

 事務所の裏に案内された。

「これや、これ」巽恒が年季の入った自転車を指した。

「拾ってきたのか?」

「ちゃうやろ。乗れるようになったん!」

「練習したのか?」

 ああなるほど。

 水族館はカムフラージュだったか。

「独りでか?」

「教えてくれる人がおうてな。連絡先聞いたし、改めて礼を言いに行かへんと」

「それはいいことだが、まずは仕事だ。お前が乗れるんなら効率がだいぶ変わる」

「ケイちゃんも自転車ある?」巽恒が駄犬に訊く。

「持ってくる時間がもったいないです。行きましょう」駄犬が答える。

 いつもは徒歩で回るコースを自転車二台で回ったので相当に早く終わった。

 18時。

 巽恒はさくっと夕食を作るとさっさと帰ってしまった。

 話したいことがあったのに。

 駄犬がいたので他のときのほうがよかったかもしれない。そう思うことにした。

 巽恒が帰ったので駄犬も帰った。

「帰ってしまいましたね」伊舞が片付けながら言う。

「土曜日から一週間だから、まだ休みのつもりなんだろ。好きにさせる。自分で言ったことだしな」

「そうですか。じゃあ私も帰りますね。ああ、聞きましたよ? 社長が」

「ああ、うん。お前にも言わなきゃいけなかったな」

 母さんが会いに来てくれた。

 母さんと話せた。

 母さんが頭を撫でてくれた。

「よかったですね。何がどうなったのかはわかりませんが、若が嬉しそうでなによりです」

 伊舞も帰った。

 事務所の3階に上がる。

 静かだ。

 水封儀さんにも聞いてほしかったな。













     5


 翌日。

 金曜日。まだまだ夏休み。

 いつもの通り仕事をした。

 巽恒が来なかったので駄犬も来なかった。

 17時。

 元・水封儀さんの屋敷、もとい巽恒に貸している家に行った。

「せやからね、なんじょうそないに」巽恒は夕食を作っているところだった。エプロン姿だ。

「話したいことがある」

「もう、なんなん? 明日やったらあかんの?」

「早く話したかった」

「わーった。わーったさかいに。これだけ作らせてな? 一緒に食わはったらええよ」

「待ってる」

 冷やし中華だった。

 美味しかった。そう伝えた。

「で? なんなん?」

「母さんが」

 全部話した。

 巽恒は黙って聞いてくれた。

 そして、俺がぜんぶ話し終えたのを見計らって「そらよかったな」と言ってくれた。

 19時。

 珍しく帰れコールがない。

 気を遣ってくれてるのかもしれない。

「聞きたいことあるんやけど」巽恒が天井を見ながら言う。

 幽霊について。

「いまも」

「いなくなった」

「ホンマに?」

「ああ、このたびのでな」

 なるほど。

 これを聞きたくて追い出さなかっただけか。

「ほんならもう居ィひんのね? よかった」

「俺はいてくれたほうがよかった」

「その、師匠ゆうの? なんなん? おま、霊感バリバリやったんやな」

 言おうか。

 どうしようか。

「長くなるが」

「ほんならええわ」

「簡潔に言うとだな」

「言いたいだけやん」

 生前の話。

 納水封儀という黒祓いの巫女の話。

「あの人のお陰で俺はいまここにいる」

「ほお。随分持ち上げるんやな。社長サンにしては珍しな」

「すごい人なんだ。なにせ」

「簡潔になってへんけど?」

 なんだかんだ言いながら巽恒は最後まで聞いてくれた。

 俺が初めて水封儀さんに会ったときのことはちょっとだけ伏せて。

 黒になった時寧さんを祓ったときのこと。

 シャオレーさんが水封儀さんをだいじに想ってること。

 満心炉ちゃんと夏休みを過ごしたこと。

 そして、

 この屋敷に溜まった黒を祓うため、水封儀さんが犠牲になったこと。

 ついこの間も、住職に成り変わった呪いの権化を祓うため、水封儀さんやシャオレーさんや満心炉ちゃんが大勝負に挑んだこと。

 俺の口から誰かに伝えたのは初めてだった。

 誰かに伝えたいと思ったのが初めてだった。

 22時。

「どえらい時間になってもうたな」巽恒がケータイで時刻を確認する。「夏休みでよかったな」

 泊まって行きたかったがさすがに自重した。

 そうゆうのはもう少し距離が縮まってからで。

 ――そうだぞ?

 水封儀さんが笑ったような風が顔を撫でた。

「どないしたん?」巽恒はこれまた珍しく玄関口まで送ってくれた。「早う帰りィな」

「手、握ってもいいか」

「なんなん? ほら、これでええか」

 騙し討ちなんかしない。

 今日は、

 手を握るだけ。

 さらりとした陶器みたいな手だった。

「なんなん?」

 巽恒の手に握らせた。

「もなかだ。そこの寺の」

 満心炉ちゃんにあげるつもりだったのだが、しばらく会えそうにないので。

「くれるん? おおきに」巽恒が言う。「和菓子好きやで」

「また明日」

「おやすみ」巽恒が握ったのと逆の手で手を振ってくれた。「また明日な」

 ああ、今日は。

 いい夢が見れそうだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る