高つ国の姫物語

茉白いと

第1話

 戦い続けろ、とあの人は言った。

 たとえ腕がなくなり、視界が閉ざされ、足さえ使い物にならなくなったとしても、心に灯る熱意だけは絶やしてはならないと。

 そして、その相手が手にかけたくない人間だったとしても、生きていくために、生涯罪を背負いながら生き続けろと。

 だからわたしは、戦わなければならなかった。

 守られる人間ではなく、戦うことを選んだわたしの選択を、だれの言葉も意思も反映させてはならない。これは、己との闘いでしかなかったのだから。


 春爛漫という言葉は一体どこから生まれてきたのだろうか。庭の木々に止まった鶯を眺めては、この広大な屋敷を囲うソメイヨシノに問うてみる。

 桃色の桜が陽を浴び、一枚、また一枚とひらりと踊りながら蓮池へと落ちていく。 

「いいですか、わが国であるたかくには最も神聖な場所として崇められているんです」

 子守唄に最適なその声は、鼓膜を通り、頭の中で解釈するよりも先に消えてしまう。

 鶯の鳴き声によって、子守唄はよりまどろのみの向こうへと誘うものへと変化していく。

「その国の王の娘である美琴みこと様は偉大な人になるべき存在なのですよ」

 これまで幾度となく聞かされてきた話は眠りにつくまでに十分過ぎるものだった。うつらうつらとしていると、突然、バシンと小気味のいい音とともに肩に痛みが走っていった。「いったあ」と顔を上げれば、満面の笑みで痛みを与えた本人と目が合う。

「美琴様、お昼寝はせめて終わってからにしてください」

「ずっと座ってるから眠くなるの。それより、座学の時間が増えたのはどうして? わたしは剣術の稽古を増やしてほしいと森羅しんらにお願いしたのに」

「国王がそれをお許しになると?」

 穏やかな言い回しと、怒りながらでも笑う癖があるのは森羅のお得意だ。この国の先生だと崇拝され、実際、森羅はなんでも知っていた。それこそ、この国の成り立ちなんかも、天からのお告げとやらで授かったものらしい。

 まだ二十代そこそこだというから女中からの人気も厚い。優しいと評判ではあるけれど、わたしには厳しい顔を見せることのほうが多いから不公平だ。

「座学は大切です。高つ国がいかに神聖であるか、それ故、他国がその神の力を授かろうと今にも攻め入ろうとしているか、危機感を持たれてはいかがですか」

「うそだぁ。だって、この国はとっても平和よ? たしかに城下の方では喧嘩もあるみたいだけど、だからってみんな幸せに暮らしてる」

「戦とは突然起こるものなのです」

 この話をするとき、森羅は穏やかながらも、険しい空気を纏う瞬間がある。それはきっと本人の無自覚からなるもので、森羅にしか見えていない世界があるんだということを嫌というほどわかってしまう時間でもある。

「特に、なかくにの勢力を侮ってはいけませんよ」

「たしか、三つ分かれた国のひとつでしょ?」

 高つ国、中つ国、くにでこの世は領土を争うように日夜や戦っているらしい。

 けれど正直言って、戦いがどうだと言われても、実感がない。少なくとも、わたしが見えているのは、少し怒った森羅と、城内を激しく駆け回る足音、そして庭の木に止まる鶯ぐらいだ。

「美琴様にはきちんと学んでいただいて、よりよい国造りを──」

「もうわかった! はい、学びの時間はおしまい」

「あ、美琴様! お待ちなさい」

 学び部屋から駆け出すように出ては、すぐに木刀が置かれた倉庫へと向かう。あのままでは体が訛って仕方がない。

 しかし、倉庫へと入る前にはいつも、どこかに目があるのではないかと思うほど、だれかの監視が入る。

 ──ちなみに今日は、最悪の日だった。

「美琴、お前はまた座学を逃げ出したな!」

 背後から聞こえた怒号に肩がびくりと震える。

 父さまだ、と振り返らなくともわかる。わたしの父でありそして、この国の王でもあるこの人は、絶対的な力と権力を持っており、誰もが逆らえなかった。

「ここには立ち入り禁止だと言っただろう」

 立派に生えた顎髭が不愉快さをより演出させているように見える。

「座学はもう学び尽くしたんです。この国の歴史やら、今までどんな戦争をしてきたのかなんて聞き飽きました」

「たいして頭に入っていない人間がなにを言う。なんのための座学だ」

「王になるためです」

「違う、お前は王になどなれない」

 王にはなれない。これまで懲りずに言われてきたセリフだった。

 父さまはいつだって、この言葉でわたしの気持ちをはねつける。

 わたしは王の娘であり、偉大な存在になるべきだと幼い頃から教えられてきた。だというのに、わたしは王にはなれない。

「王はたけるであり、お前ではない」

 生まれたときから、わたしは王の娘であり、そしていずれ王位を継承する双子の弟、尊の姉でしかなかった。

 尊は、男というだけで王の継承を受け継ぐ形となり、わたしは守られる側になってしまった。

「わたしは戦いに出たいのです」

「お前が戦う理由も、必要もない。いいか、お前がしなければならないのは結婚だ。婿はこちらで用意する。よき妻となるよう花嫁修業をすることがお前の使命だ」

 やりたいことではなく、駒のように生きていかなければこの世界に、なんの意味があるというのだろう。今日の父さまだって、戦地から帰ってきたばかりか、ところどころに傷があった。

 同じ人間だというのに、わたしは戦えない。

「わかったら、ここには一切立ち入るな」

「……はい、父さま」

 気が済んだように去っていく足音は、今日も今日とて廊下にどしんどしんと大きく響いていた。大きな甲冑は、父さまが動くたびに音を立て、父さまの命を守っている。

「また国王に食ってかかったのか」

 その後ろ姿を見ていると、ふいに聞き慣れた声に胸が弾んだ。

刹那せつな!」

 長身な背丈と、漆黒色の髪。ところどころ毛先が不揃いなのは、わたしが彼の髪を切るからだ。それでも本人はいつも満足そうな顔をする。

「いつからそこにいたの。剣術の稽古をつけてほしかったのに」

「国王に止められているからな。それに女と戦うのは趣味じゃない」

 森羅と肩を並べて女中たちに人気なのが、幼なじみの刹那だった。人たらしで、愛想ばかり振りまき、陽気な声と女中から歓声が聞こえれば、そこに刹那がいるとすぐにわかる。

 この屋敷で共に生活をする家族のひとりだ。

「お前がするべきことは座学だろ」

「ねえ、過去ってそんなに大事? 何百年も起こった大いなる災いとか、地球が滅びかけたとか、それの影響でひとつにまとまっていた国が三つに分かれましたとか、現実味がない」

「おとぎ話とでも思ってるのか?」

「そんなことは思ってない。だけど、今も戦争は続いていて、誰かが戦わなくちゃいけない。そんなとき、どうしてわたしは座学に専念しなければならないのか納得がいかないの」

「お前が女だからな」

「だから納得がいかないって言ってるの。父さまも刹那も同じことしか言わない」

 女だからなんだというのだろうか。わたしは戦える。もし戦えないというのなら、戦う術を身に着けたいだけ。だというのに、拒まれる理由など見当たらない。

「それに、わたしの使命が花嫁修業だなんて聞いて呆れる。わたしはまだ十五よ」

「十分だ。それに来週には十六なんだから、いい加減諦めろ」

「いやよ。そんなこと言ったら、刹那だって同じ日に十六でしょう? 結婚がどうのと言われてもおかしくないのに、わたしだけよ、こんなこと言われるの」

「お──」

「女だから、でしょ。もうわかってるわよ」

 それでもわたしは花嫁になるために生きてるんじゃない。王になるために生きている。そう思うことさえ許されないなんておかしい。

「はあ、それより今年の誕生日はどんなお祝いにする?」

 辛気臭くなる気持ちを入れ替えるようにすると、刹那は眉を下げて笑った。

「盛大はごめんだね」

「誰よりも盛り上がってるのは刹那じゃない」

 その日は、わたしと尊、そして刹那の誕生日でもある。

 刹那は父さまがここに連れて帰った日が誕生日になった──というよりも、わたしが勝手にそう決めてしまった。初めて会ったとき、どう見ても同い年ぐらいの子が、自分には誕生日なんてものはない、と言われてしまっては、なんだか放ってはおけなかった。

 けれど、それでよかったのか、と最近は気になっている。

 刹那は元々、誕生日というものを欲しがっていたわけではないし、今だって盛り上がってくれるけれど、どちらかというとわたしたち姉弟の生誕祭を盛り上げてくれているように見えていた。

「姉さま、また父さまに怒られたのですね」

 そんなことを思っていると、城下町に行っていたはずの尊が困ったように微笑を浮かべていた。

「尊! ちょっと聞いてよ」

 同じ顔をしていると言われるけれど、わたしからすれば尊のほうが顔は整っていてかわいらしい。姉であるわたしのことを、いつだって慕ってくれる。

「女だから剣術はダメだというの。昔は許されたのに」

 子供のころは、尊と刹那、三人で剣術を学んでいた。

 わたしが上達するたびに父さまだって喜んでくれたというのに、あるときを境にわたしには木刀さえ握らせようとはしなくなった。

「姉さまだって、父さまの気持ちがわからなくはないのでしょう。母さまを失ってから、父さまは姉さまを守ろうとしているだけです」

「……わかってるから悔しいの」

 母さまはわたしたちが幼いことに不治の病で亡くなった。あのときの父さまの悲しみに暮れた背は今でも忘れられるものではない。

「どうして戦おうとするのですか。この国のことなら僕や刹那に任せておけばいいんです」

「そんなんじゃ嫌。わたしだって王の娘で、戦う義務がある」

「それでも、王にはなれないのですよ」

 尊はとても優しく、それでいて強かった。好青年ともてはやされるほど、正義感に溢れ、王に相応しく、民からの信頼も厚かった。誰もがみな、尊がこの国の王になることは信じて疑っていない。

 けれど、わたしは尊と同じ日に生まれ、同じように育ってきた。女だとしても、わたしには剣を握る手があり、戦える足がある。見た目はなにひとつ変わりはしないのに、女だという理由で切り捨てられる。

「……ねえ、刹那、今日もわたしの相手をして。今日は絶対に一本取ってみせるから」

「悪足搔きも大概にしてくれよ。怒られるのは俺なんだから」

「わたしにとっては真剣勝負なの!」

 わたしは戦える。それを証明するためには、この国で父さまの次に強いと言われている刹那に勝つ必要がある。

 稽古場に向かう途中、尊は自室で少し休むと言い残し、疲れた顔で廊下の奥へと消えていった。その背中を見ていると、王はふたりでもいいんじゃないかと思えてくる。なにも尊が全て背負う必要なんてないのに。わたしたちは双子で、どんなときも支え合って生きてきた。


「美琴、どうしてそんなに戦いたいんだ」

 木刀を握りしめていると、刹那の声が聞こえた。

「わたしは戦える、それだけ」

 今まで刹那に剣の稽古を頼みながら、刹那に勝てたことは一度だってない。

 それどころか、刹那はこれまで本気を出してくれたことはない。わたしが勝てないときも、刹那は本気ではない。きっと、本気を出されてしまえば、わたしは刹那に心臓を貫かれているだろう。

 そんなことをしないのは、結局のところこれは茶番でしかないからだ。

 同じだけ鍛えても、同じだけの稽古をしても、ふたりとはどんどん差が開いていく。女であることが煩わしかった。わたしは戦いたい。

 稽古場の前で一礼しては、これから始まる戦いに精神を集中させる。

「はあ、本当に始めるのか、美琴」

「もちろん。刹那に勝つためには何度だって続けるの」

 もし刹那に勝つことができれば、父さまに剣術の稽古を認めてもらえる。わたしも強かったんだって、そう思ってもらえる。

 試合が始まろうとすると、刹那はゆっくりと呼吸を整え、目を閉じる。そうして黙っている姿を見るたびに、刹那が刹那ではなくなるように感じた。

「刹那は、戦いたいと思わないの」

「思わない。戦争になれば、だれかが命を失う」

 うっすらと開いた刹那の目に視線が釘付けになる。片方だけ紅い瞳をしていた珍しい子。それが刹那に初めて会ったときの第一印象だった。

 一部の人間には鬼だと罵られることも多く、その度にわたしが蹴散らした。そうして暴れまわるわたしを尊と刹那が体を張って止めようとしていたが、それでもわたしの力のほうが強かった。

 なにをしても、ふたりよりうまくいった。

 それでも父さまはわたしを戦わせようとしないどころか、機織りをするべきだ、座学に力を入れろと口酸っぱく繰り返した。

 そうして月日が流れると、ふたりはわたしの身長を抜かすようになった。背比べをすると、決まって見上げるような形になることが悔しかった。悔しいことが日に日に増えていくようになった。だからこそ、剣術に力を磨いた。

 なのに、なぜわたしだけ咎められなければならないのだろう。なぜ、わたしは年々弱くなっていくのだろう。

 昔の刹那は尊と似てよく笑う子だったのに、最近、わたしの前ではあまり笑わなくなってしまった。からかうように笑うときはあっても、心から笑ってくれることがない。

 太陽のように明るかったのに、月のように静かな人になってしまったようで、大人になってしまったようにも見えた。

 わたしが戦おうと思った理由のひとつに、刹那がいる。

 初めて会ったときの刹那は、とても痩せていて、傷を負ったのか、ところどころから流れ落ちる血と、立っているのもやっとだという姿に衝撃を受けた。

 歳の変わらない子が、こんなにもひどい目を受けたのに、わたしは屋敷の中でのうのうと生きていた。父さまに言われるがまま森羅からの学びを受け、時折眠たくなるのを我慢しているような時間に、刹那は死ぬか生きるかという瀬戸際に立たされていた。

 わたしはこのままでいいのか。

 そう疑問に思ったときにはもう、木刀を片手に稽古場へ通うようになった。

 力をつければつけるほど、わたしは戦える自信だけがつくようになった。

「美琴、俺はお前を傷つけたくは──」

 その先を断ち切るよう動き始めれば、刹那も口は閉じる。

 戦ってくれないのなら、こちらから動くまで。それでも、刹那はかわすばかりで、まともに相手をしてくれない。

「刹那、わたしは戦える人間でいたい。だれかを守る存在でいたい!」

 大きく振り上げたが、それでも刹那は瞬時に移動したかのようにわたしの前から姿を消す。

「昔から変わらないな。腕は落ちたんじゃないか?」

「変わる、もんですか! ……はぁ、はぁ、それに歳を重ねたぐらいで、わたしは弱くならない!」

「戦わないことが、弱いことだとは限らない」

 また、刹那の姿を見失いかける。

「……よくわからないわ」

 同じことを学んでいるはずなのに、刹那はさらに座学も極めるように夜遅くまで学んでいた。刹那の部屋の明かりが消えるのをわたしは見たことがない。

「わたしが考えてることはおかしいの?」

 誰かを守りたいと思うことも。そのために力をつけたいと思うことも。

 守ってもらわなければ生きていけない人間に、どうして自らならなければならないの。

「間違っていない。だからこそ、俺は戦ってほしくない」

「言ってることが変よ」

「殺したくない人間を、殺すことがお前にはできるのか」

 息をつく暇もない。必死で追いかけるわたしとは違って、刹那は息切れひとつ見せない。

 人前で取り繕う刹那は、常に笑みを絶えないような人間だった。それでも、いざ戦いへと誘われたときの彼は、まるで別人のように変わり、瞳の奥に光を宿さない。

 これが本気だったら──と考えると背筋が凍りそうになる。

 戦いたいと願うけれど、わたしは刹那から一本も取れたことがない。こんなことで、誰を説得させられるというのだろうか。わたしがやらなければいけないことは、本当に花嫁修業だけなのだとしたら、それを受け入れられないわたしはなんなのだろう。

「刹那は戦えるの?」

「……戦う。どんな未来が待っていたとしても」

 刹那の片方にある紅い瞳が悲し気に光ったように見えた。

 その奥底に、なにを宿しているのか、手を伸ばしそうになるのに、きっと触れさせてはくれない。

 わたしが女だから戦ってはいけないというのなら、男だからという理由だけでそれらを担わなければならない刹那や尊の気持ちはどうなるのだろうか。感情など決して消えるわけではないというのに。

 この世は、都合の悪いものに目をつぶり過ぎている。

 個々の意思など尊重もされず、肩書と環境だけで全てが決まってしまう。

「わたしは──!」

「よそを見するな」

 一歩引こうとすれば、額に痛みが走る。刹那の指で弾かれたのだと思うと、また負けたのだと敗北を認めざるを得ない。

「今日も刹那の勝ちですね。姉さま、そろそろ諦めたらどうですか」

 すると、自室に戻ったはずの尊が、残念そうに、けれどもどこか楽しそうに微笑んでいた

 まだジンジンと痛む額をさすりながら、溜息がこぼれていく。

「諦めるなんて嫌いなの知ってるくせに」

 そうしてしまえば、わたしは守られる存在になってしまう。

 誰かが命を落としているその瞬間でも、甘い饅頭なんかを食べて、お昼寝でもしているのだろう。そんなことが許されない人なんてこの世にはごまんといるというのに。

 たとえ刹那から一本が取れなかったとしても、諦めなければ次がある。また明日でも明後日でも、わたしは木刀を持とうと思える。

「まあちょうどいい機会ですし、休憩を挟みましょう。お団子でもいかがですか」

「わ、虎屋のお団子? ずっと食べたかったの」

「さっきまでの熱気はどうしたんだか」

「じゃあ刹那はいらないってことね」

「そうは言ってないけどな?」

 二本とると、すぐさま刹那の手が伸びてくる。逃げ回っていると、尊が呆れたように笑い、刹那が返せなんて追いかけてくる。それだけで笑えて仕方がない。でも矛盾してる。こうして笑ってる時間が、わたしは嫌いなはずなのに。

 どこかで誰かが戦っているのかと思ったら、こんなことをしている場合ではないのに、刹那や尊と一緒にいるだけで、気が緩んでしまう時間もある。

「そういえば、さっき町に出たとき、若い子たちから教えてもらったおまじないがあるんです」

 尊が用意してくれた湯呑を受け取りながら、おまじないという言葉をなぞった。

「珍しい、尊が興味を示すなんて」

「僕だって男ですが興味ぐらいありますよ」

「そう言いたかったわけじゃないの。なんていうか」

「現実主義者の尊にしては、その話題が珍しいことじゃないのか」

 まるでわたしの心の内を淡々と読んでしまったかのような刹那の言葉に、激しくうなずいてみせた。と同時に、口の中に入れたばかりの団子が喉のつまりかけ、あやうく窒息してしまいそうになる。

「もう姉さまったら、落ち着いてください」

「食い意地もここまでくるとおそろしいな」

 労わるように背中をさすってくれる尊と、食べかけだった残りの団子を横からひょいっと奪っていく刹那。あまりにも対照的すぎて、胸あたりをどんどん叩きながら、尊が弟でよかったと今回ばかりは思う。

「もうっ! なんでわたしのお団子取っていくのよ!」

「死にかけるぐらいだったら俺が食べてやったほうが親切だろ。それより、まじないの話はもういいのかよ」

「その話もするけど、お団子食べられたから!」

「まあまあ、また今度買ってきますから。姉さまはお茶を飲んで」

「絶対よ? 絶対、絶対、買ってきてね。次は三本欲しいから」

「あはは、わかりました。その数だけは忘れてはいけませんね」

「食い物の恨みはすげえからな、美琴は」

「誰のせいだと思ってるのよ」

 ひとつ残らずなくなった串を皿の上に戻しては、尊が切り出したおまじないの話を戻すと、彼は思い出すように少し上を見上げた。

「なんでも、川に願いごとが書いた紙を置き、その上に重石をのせるそうです。数日経ってもまだそこに紙があるようなら願い事は叶いやすくなり、文字まで読めるようなら必ず叶うそうですよ」

「へえ、そういう話が城下町では流行っているのね」

「姉さまが前回行かれたのは、ずいぶんと前ですからね」

 これも、父さまから命じられていたことのひとつで、わたしは極力屋敷から出ることを許されてはいなかった。わたしが屋敷から出ることで、嫁入り前の娘がうろちょろ歩いていると噂になるのを避けたかったらしい。

 なにがいけないのだろうと思うけれど、危険がないわけではないことも理解はしていた。

 時折、屋敷の門の前では、国王に対する不満、怒りをぶつけに民が来ることも少なくなく、屋敷にいればどうしたって耳に入ってしまう。

 戦争で家族を失ったもの、毎日食べるものに困るもの、それぞれがそれぞれの悩みを抱えて生きている。 そんな中で、わたしのようになに不自由なく生きている娘が遊び半分で城下町を訪れては、それをよく思わない人がいるということだ。

「おい、話聞いてんのか」

 これまでにあったことをざっと思い出していれば、目の前にはわたしの顔を覗き込むようにして見る刹那がいた。思わず後ずさりながらも返事をなんとか口にする。

「な、なに?」

「だから、美琴のことだから、数日も待てないだろうなって」

「えっ、いくらなんでも、数日ぐらいは待てるわよ」

 二、三日ぐらいならと付け加えると、ふたりがおかしそうに笑う。なにがおかしいのか首を傾げると、尊が「さすがです」と目を細めた。

「わたし、変なこと言った?」

「さすがに、二、三日は短いだろ。あんなに自信満々に言っておいて……はあ、おかしい」

「なんでよ……そうやって笑うほうがおかしいんだから」

 湯呑をさすりながら、でも、と言葉が出ていく。

「城下町ではそんなおまじないが流行ってるのね」

「羨ましいですか?」

「……少し」

 普通のように暮らしたいと願わなかったわけではない。屋敷から出たいと思ったことは何度だってあるし、脱走したことも正直に言えばあった。その度に、屋敷とはまるで違う環境に驚き、そしてわくわくもする。

「せっかくだから今からおまじないをしましょうよ」

 まるで尊が今思いついたような顔で弾けた笑みを見せる。

「またお前は突拍子もないことを」

「いいじゃない。わたしは賛成よ。父さまもさっきお出かけになったようだし、森羅もお昼寝中だから」

「昼寝とか、爺さんかよ」

 そう話しながらも、それぞれが立ち上がり、屋敷を抜け出そうと企む顔つきへと変わる。

 わたしが願うとしたら、なにを願うだろうか。

 準備を整えながらも、頭の中では無数に浮かんでくるあれこれが泡のように消えていく。


 屋敷を南の方角へと抜けると、森に続く細い川がある。透明度が高く、手をかざすとひんやりと冷たい。

「ちょうどよさそうな石が三つありますよ」

「探す手間が省けたな」

「手間が省けたことを喜ぶって、なんか縁起悪い気がするけど」

 思い思いに願った紙を、それぞれ近場で託していく。散々悩んだ結果、強くなりたい、と書くことにした。本当は、花嫁修業なんてしたくない、とかそんなことを書こうと思ったけれど、願うとなると違うんじゃないかと書き直した。

 多くを望むわけじゃない。ただ、戦える力があれば、いつか誰かを守れるようなときがくる。もちろん、戦う必要がなければ、誰かを失うことなく、生きていけるけれど、争いとは過去を学ぶほど、消えるものではないことを知る。

 どうして人は争いを止めることはできないのだろう。そこに秘められた怒りは、一体なにから生まれたものなのだろうか。わたしは、その怒りの根源に辿り着くことはあるのだろうか。

「姉さまはどんな願い事をしたのですか?」

 白い布で手を拭う尊に声をかけられる。わたしがそのまま身に着けているもので拭こうとするのをちょうど見られたタイミングでもあった。

「これを使ってください」

「……ありがとう」

「どっちが上か下かわからないよな」

 それを横目で見ていた刹那はとっくに設置したのか、近くの草むらであおむけになって寝転がる。

「……願い事は、秘密。そもそもこういうのは人に言ったらいけないのよ」

「そうでした。姉さまのおかげで僕の願いも叶いそうです」

「どうせ、腹いっぱい菓子が食べられますようにとかそんなもんだろ」

「失礼ね。もっと壮大よ」

「姉さま、壮大の意味をちゃんとご存知ですか?」

「もうなによ。ふたりしてわたしを馬鹿にして」

 幸せだった。

 たまに喧嘩もするけど、それでもこんな願い事をするのは無駄だったんじゃないかと思うほどに。

「ふたりは? どんな願い事にしたの?」

「もちろん秘密ですよ」

「お前がさっき秘密だとか言ったんだろ」


 おまじないの結果を確かめるのは、あの日から一週間後。ちょうどわたしたちの誕生日に決行することが決まった。

 翌日、何度も川に意識が向いてしまいながらも森羅からの座学を終えると、ちょうど父さまが屋敷に戻っていた。

「おかえりなさい、父さま」

「ああ、美琴。ちょうどお前に話があったんだ」

「話ですか?」

「王の儀式は来週、尊の生誕祭に執り行う」

 一瞬、なにを言われたのかわからず、父さまの声だけが頭の奥で何度も響いた。

 尊が正式に王となる。父さまの跡を継ぎ、国王となる。

「……わかりました」

 そう答えるだけ答えて、すぐに自室へと向かったが、なんだか気持ちがざわざわして、結局稽古場へと進路を変更した。ただとにかく、動いていたかった。

「そんな振り回しても、元気にはなれねえぞ」

 一心不乱に木刀を握りしめながら一人稽古をしていれば、刹那に見つかった。

「……別に、元気になりたくてこんなことしてるわけじゃない」

「じゃあショックだからひたすら稽古に打ち込んでんのか」

 汗がたらりと頬の輪郭を辿っていく。それを手の甲で拭いながら、刹那はもう父さまから聞いたんだと悟った。

「尊が、正式に国王になっちゃうんだって」

「らしいな」

 わたしの弟が。ずっと一緒にいた弟が。この国の王となる。

「今のお前の心境は?」

 刹那の足音が近づいてくる。耳を澄ませると、昨日三人で行った川の音まで聞こえてきそうだった。

「祝福したい。それだけ」

「本当に?」

 本当だった。父さまの話を聞いて、おめでたいことはわかっていたし、複雑な気持ちが湧かなかったわけでもないけれど、それでも尊が王になるということは誇らしいこともであった。

「遠い存在になることが寂しいだけ」

 きっと今までのように気安く会えるような距離にはいない。今はわたしが姉というだけで尊は父さまに話すみたいに敬った言い回しをするけど、それをしなければならなくなるのはわたしだ。

 そうやって、関係が少しずつ変わっていってしまうことに不安を覚えてしまう。

「刹那は? どう思ってる?」

「いずれこうなるってわかってたからな。時期が来た、それだけ」

 そうやって割り切れるようになれたらよかった。

 不安なんて覚えず、ただ「おめでとう」とお祝いができたらよかったのに。

「ねえ、刹那。尊になにか贈り物をしたいの」

「なんで」

「王になった記念に。だから城下町に連れて行って」

「美琴は行けない決まりだろ」

「そうだけど、今回は特別でしょう? なんたって弟が王になるんだから」

 悔しい気持ちも当然ある。けれど、尊が王になることを反対したいわけじゃない。たしかに尊は国王としての器があり、必ずや父さまと同じようにみんなを率いてくれるはず。

「言い出したら聞かないのが美琴様だからな」

「刹那に美琴様って言われるの、すっごい違和感しかない。ねえ、約束よ? 絶対に連れて行ってね」

 面倒くさそうにしながらも、へいへいとうなずく背中にようやく笑みが戻ってくる。

 ちゃんと尊をお祝いできるように。それは刹那のおかげでもある気がした。


「なにがいいと思う? あ、あの食べ物って見たことないけどなに?」

 約束通り、刹那はわたしを屋敷から連れ出して城下町へと連れて行ってくれた。

「尊の贈り物を買いに来たんだろう。食い意地を見せんな」

「ちょっとぐらいいいでしょ。ここに来るのなんて久しぶりなんだから」

 これだけは羽織っておけと黒の布を頭からかぶせられたときは、これこそ目立つんじゃないかと思ったけれど、ここに来てみてびっくり。そうしている人がチラホラと歩いていた。

「最近はあんま顔を見られたくないとかで顔を隠すことが増えたからな。嫁入り前がどうとか」

「ああ、だからか。よかった、わたしだけだったらどうしようかと思った」

 安心しながらも、あたりを見渡す。活気ある呼び込みや、酒蔵から匂う独特な香り。可愛らしい簪も売っている店があるかと思えば、怪しげな顔つきで道行く人を見ている店主もいたりする。

 ここに来ると、わたしがいた世界がまるでちっぽけだったんだってことに気付かされる。

 外に出るだけで知らなかったことのほうが多かったんだと、身をもって体験させられるから。

「あ、刹那!」

 誰かが声をあげると、途端に周囲が慌ただしくなる。

「本当に刹那だ」「やあだ、あんた最近顔見せないから心配してたんだよ」「もう、ここに来るなら来るとそう言ってくれればよかったのに」「そうよ、もう少しちゃんと整えたわ」

 男女問わず、そして年齢も様々な人が刹那の元へと駆け寄る。

 誰彼構わず好かれる人柄ではあったけれど、ここまで人気を博しているとは思わず、何度も刹那と周囲の人たちを見比べてしまう。

 そうこうしている間にも群衆から追い出されるようにホイホイと流されかけていると、ぐいっと伸びてきた大きな手がわたしの肩を抱く。

「ごめんごめん、今日は付き添いだからさ」

 見上げた先で刹那が人懐っこそうに笑っている。こんな顔、わたしの前ではあまり見せないくせにと思いながらも、触れられているところが妙に温かい。

 女たらしでだれにでも愛想を振りまく。そんな姿も昔から変わってなくてどこか安心するところでもある。

「刹那、行っておいでよ。わたしはこの辺りをゆっくり見てまわるから」

「いや、でも」

「大丈夫だって。もう子供じゃないんだから」

 こうして城下町へ訪れるとき、付き添ってくれる刹那はいつだって、わたしを置いていこうとしなかった。みんなに囲まれるその顔は、心配だって思いっきり書いてある。だけど、わたしだってもう迷子になるような年齢じゃない。来週には十六になって、結婚やらなんやらもしなければならない歳になる。

だから、刹那がいなくても大丈夫。


「……あれ、迷った?」

 ──と思っていたのも束の間。

 見慣れない場所に出たときにはさすがに焦りが出た。

 大丈夫だと思っていた矢先、あれこれ気になる店を見つけ、最終的に尊に贈りたいものを手にしたところで、ここが一体どこなんだという状況になっていた。

「引き返せばいいよね」

 自分に言い聞かせるように来た道を戻ろうとしたとき、怪しげな男たち数人と目が合った。視線は明らかにわたしへと向けられているというのに、誰もがそこから一歩も動かない。

 次第にその顔はにたりとした表情を浮かべはじめ、わたしが誰なのかということがわかっているように見えた。

 危ない。慌てて逃げ帰ろうとした瞬間──

「美琴!」

 力いっぱい抱き寄せられるようにして刹那の腕の中にいた。

「平気か?」

「う、うん……なんともない」

 わたしが答えると、僅かに安堵を覚えたような顔を見せ、すぐさま今度は警戒心だけを露わにした瞳で男たちを見た。

 一瞬、ここで乱闘でも始まるのだろうかと構えたが、男たちのひとりが舌打ちをしたことでその空気は消え、わたしたちとは反対方向へと歩いていった。

「……よかった、帰ってくれたみたい」

「なにがよかっただよ。もう少し遅かったらって思うと……はあ、国王に合わす顔がねえ」

 頭を抱えた刹那は、どことなく息が切れているように見えた。

 稽古でどれだけ動いても、息ひとつ乱れたことなんてないのに。

「つか、なにがわたしは大丈夫だよ。全然大丈夫じゃねえだろ」

「……それは、面目ない」

 本当にひとりで大丈夫だと思った。

 それに、民から必要とされる刹那が誇らしくもあり、それでいて少し、遠い存在に見えてしまった。

 そこには、わたしが知らない刹那の時間があるような気がして、そのことが無性に悔しかったのかもしれない。

「贈り物は見つかったか?」

「うん、ペンダントにしようかと思って」

 胸の内にしまっておいた銀色のチェーンを取りだす。太陽の光でよりいっそう輝かしい。これなら、尊も喜んでくれるだろう。どれだけ遠く離れた地に行ったとしても、これを見たら思い出してくれるんじゃないかと。

「いいな、じゃあ一足早いけど、お前にも」

 そう言って、おかしなことに、わたしの目の前でぶら下げられたチェーンにぎょっとする。

「え……って、これ全く同じペンダントじゃない」

「これを見たとき、絶対に美琴が選ぶだろうなと思ってさ。お前らは同じもんつけてるのがいいだろ」

「……もらっていいの? まだ誕生日じゃないのに」

「まあいいだろ」

「じゃあ、刹那の贈り物は期待しててね。いいもの選ぶから」

「ハードルばっかあげんな。それで失敗するのが美琴だろ」

「うるさいわね、大人しく待ってなさいよ」

 先を歩く大きな背中に追いかける。

 さっき、刹那に触れられたところが今もまだずっと熱くて変に意識してしまう。

 気付かれていないだろうか。本当はずっと、刹那のことが好きだったということに。

 今度の誕生日には、恋人が贈ると言われている鏡を用意していると知ったら、それは受け取ってもらえるのだろうか。

 考えると少し怖くなる。もう刹那はわたしに笑ってくれなくなるんじゃないかと思ってしまうから。

 好きだと、そう言ってしまったら、この関係は変わってしまうのだろうか。


 その数日後、王の儀式が催された。

 国は歓喜に満ちていた。新たなる王の誕生に思い思いに祝福の言葉を述べている。

「やっぱり、尊が王になるのね」

「弟だろう、喜んでやれ」

「おめでとうと言ったわ。それで精一杯」

 あのペンダントを渡し、お揃いだと言ったわたしに尊は微笑んで祝福を受け入れた。それでよかったと、今はそう思うしかない。

 みんなの視線の先には王である証に贈られる剣が授けられた。代々受け継がれてきたあの剣を受け取ろうとした尊に、誰もが喜んだ──血の海になるまでは。

 尊が激しく咳き込んだとき、その口から吐き出されたものに目を疑った。

 地面に落ちた大量の血。それらが全て、尊のものだということが信じられなかった。


「結核です。長くは持ちません」

 医務室で寝かされた尊から離れ、廊下に立っていた父さまの元へと駆け寄る。医者が告げたその診断内容に耳を疑うほかなかった。

「結核って……昨日まで尊は……いえ、今朝だって、普通だったのに」

「おそらく無理をされていたのではないかと思います」

 そんなの、全く気付かなかった。尊はいつだってにこやかに笑い、王になることを夢見ていた。わたしのよきライバルでもあり、約束された王だった。

「……尊は、死ぬのですか」

 同じ日、同じ時間に、わたしは尊とともに誕生した。育ってきた環境も、見てきたものも全て同じだ。けれど、尊は結核を患い、余命宣告までされた。

 一体なにが、違っていたのだろうか。

 父さまも医者も深刻な顔で肯定も否定もしない。

「尊は……まだ生きて、王になるはずで……」

 いや、そうじゃない。

 尊は戦えない。戦わせるわけにはいかない。

 尊が吐き出した血を何度も思い出す。

「……わたしが戦います。わたしに王を継承させてください」

「お前は女だ。王と認められるのは男でしかない。それを覆すことなどできるわけないだろう」

「なぜですか! まさか尊を戦わせるのですか?」

 あの状態で戦えるわけなどない。尊が戦うことは不可能だ。

「ならばわたしが戦います!」

 その直後、頬にくらわされた痛み。父さまから平手打ちをされた。

「何度言ったらわかる! お前は戦ってはならん!」

「それでも、尊が戦えないのなら誰が戦うのですか!」

 何より、尊を死なせたくなかった。

 倒れ込む尊の姿が記憶に焼き付いて離れない。

 わたしは戦いたい。尊を守るために、民を守るために戦う必要がある。


「喧嘩して謹慎か。ずいぶんと重い罰だな」

 刹那がわたしの部屋を訪れていた。その手に握られたりんごが放物線を描き、わたしの手元へと落ちてくる。

「……尊に会うのはいいみたい。だからあとで会いに行く」

「浮かない顔をしてるな。怒られるのはいつものことだろ」

「尊が……死んでしまうかもしれない。ずっと一緒だったのよ、刹那と三人で、ずっと一緒に過ごしてきたの」

 こんな日々が永遠に続くものだと思っていた。笑い合い、時には喧嘩をし、それでも仲直りのためにあれこれ動いて、また普通を過ごして。そんな生活に終わりがくるなんて思いもしなかった。

「元気を出せ」

 頬を無遠慮につねられる。王の娘であるというわたしにこんなことができるのは刹那だけだ。

「姉のお前が辛気臭い顔をしていたら、尊がもっと無理をするだろう。お前ぐらい、あいつの弱音を受け止める存在になれよ」

「刹那は?」

「俺はお前らの近くにいただけで兄弟ではなかったからな」

「刹那だってわたしたちの立派な兄弟よ」

「……そうかよ」

 一緒にいたのだから。これからも一緒にいられたらいい。


「尊、入ってもいい?」

 控えめにノックをすると、やわらかな声が聞こえてくる。扉を開けると、穏やかに微笑んだ尊がベッドの上からわたしを迎え入れた。

「いつもならノックもせずに入ってくるではありませんか」

「それはそうだけど……でも」

「そう気を遣わないでください。思っていたよりも元気なんです。それに姉さまには、いつも通りでいてほしいんです」

「……わかったわ」

 もらったりんごを見せると、尊は食べたいとうなずいた。その顔はどことなくこけているように見えた。疲れを感じやすくなったのかとは思っていた。どこかから戻ってきても、すぐに自室へと寄ることがあったから。

 けれどまさか、病を患っていたなんて……無理を、していたなんて。

「父さまに怒られたと聞きました。その顔は、刹那にも喝を入れられたのではないですか」

 刃の先端をりんごに差し込むと、尊が言った。

「どうしてわかるの?」

「姉さまは昔から、父さまに怒られるよりも刹那に怒られたほうが悲しそうですから」

「……ほんと、思ってたよりも元気ね」

「そう言ってるではありませんか」

 けれど、また激しく咳き込み、りんごを落としたことにも構わず尊の背中をさする。しかし、その背があまりにも薄く、手を引いてしまいそうだった。

 いつから、この背中はこんなにも小さくなったのだろうか。わたしよりも大きくなった身体だったのに。

「姉さまには、本当のことを言ってもいいですか」

 少しだけ空いた間に、その先を聞くことに躊躇いを覚えそうになった。しかし、押し隠すようにりんごを拾い、また手元だけを動かし続けた。

「ええ、もちろんよ」

「本当は……ずっと怖かったのです。戦わなければならないということが」

 その言葉が尊から発せられたものだということが信じられなくて、思わず顔を上げる。天井を見上げていたその顔は、どこか遠くを見つめていた。

「姉さまは昔から僕より強かった。剣術も、今も僕よりうまいことを知っています。それでも、姉さまには戦ってはほしくなかった」

「守りたかったからでしょう?」

「いいえ、僕の存在理由がなくなるからです」

 ナイフの手が止まった。その声音はあまりにもいつも通りだったから。

「……どういうこと」

「僕は王の息子であり、男です。戦わなければならないとずっと自分を鼓舞して生きてきました。けれど、本当は怖かったのです。戦うということは、死の最前線に立つということです」

 こんな話を、尊から一度も聞かされたことはない。

 いつだって勇敢で、誰かのために戦える人だと思っていた。

「病気だとわかって、僕は安心してしまったんです。だってもう戦わなくてすむ。僕は男だということが苦しかったのです」

 尊はいつだって、国のためにと頑張っていた。弱音なんかひとつもこぼさす、そうすることが使命だと疑わなかったはずなのに。それでも尊は人知れず戦い続けていたのだ。恐怖を抱く自分という存在に。

「姉さま、僕は王にはふさわしくない。それでもふさわしい人間になりたいと思っていた」

「これからなればいいじゃない」

「姉さま。ごめんなさい、約束を破ってしまいそうです」

「約束って一体……」

「お団子、三本。必ず買うと、そう約束したのに。許していただけますか」

 それが、尊と交わした最後の会話だった。

 その晩、容態が急変し、帰らぬ人となってしまった尊を前に泣き叫び、何度もこれが夢であってほしいと願った。

 それでも尊は二度と、目を覚ますことなどなかった。


「目を冷やせ」

 暗闇の中、刹那が差し出したタオルだけがとても白く見えた。

「……ありがとう。そういえば、誰かがさっきも来てくれたようだけど」

「森羅だろう。話しかけてもボーっとしてるって言ってたからな」

「そう……悪いことをしたわね」

 少し濡れたタオルが、いつしか川で尊が貸してくれた布と重なって、枯れたと思った涙がまたぽろぽろと頬を伝い始めた。

「尊が……もういないなんて、嘘でしょう」

 刹那は何も言わなかった。もうそれだけで、これは全て夢ではなかったのだと知らされる。

 あまりにも呆気なかった。数日前、あれだけ笑い合いお団子を食べていたのに。

「美琴」

 記憶でしかもう会えない尊のことを思い出していると、刹那の手がわたしの頭にのる。

「……お前は死ぬな。どんなことがあっても」

 それだけを言い残し刹那が部屋を出ていく。呼び止めようとしたその先で、森羅が入ってくる。

「美琴様、よかった」

「ああ、森羅。さっきは来てくれたみたいなのに気付かなくてごめんなさい」

 しかし、その様子はいつもとは違い、緊迫感を背負っていた。

「ここから今すぐにお逃げください! 中つ国が何千という兵を連れてきます」

「え……?」

「国王もすでに前線へと向かわれております。ですから美琴様はすぐにここから──」

 どうして……?

 尊がいなくなって、どうして戦争になるの?

 なんで、今なの?

 居ても立っても居られなくて、自室にこっそりと隠しておいた木刀を握る。

「美琴様!」

「わたしも戦う! 逃げてなんかいられない!」


 屋敷を出る前から、嫌なことだけが脳裏に浮かんでいた。

 遠くで見える黒煙が、炎が、確実にこの屋敷を攻め入ろうとしている。けれどいざ屋敷から出てしまえば、想像以上にそこが──戦地と化したここが、いかに地獄か受け入れるほかなかった。

 辺り一面に広がる焦げ臭い匂い。みしみしと燃えるソメイヨシノ。逃げ惑う人々。

 戦いという場所を目の当たりにして、一瞬、足が竦んでしまった。

 これは、戦えない。

 遠くで悲鳴が聞こえる。女中たちの声だと思うと、耳を塞ぎたくなった。

 逃げたい。でも、ダメだ。ここにはまだ尊がいるというのに。

 どんどん送り込まれてくる軍隊が、一斉に屋敷を荒らしていく。

 木刀では到底戦えるはずがない。後ずさりした先に、なにかが足の裏に当たる。そこに、この屋敷で仕えていたものの亡き骸だと知ったとき、声にならない叫びが出ていきそうになった。

 殺されている。

 ここで、この場所で。

 平和だと疑わなかったこの場所で、今、戦争が起こっているのだ。

 自然と木刀を握っていた手が緩むと、その場で音を立てることもなく地面に転がる。それから、亡き骸のそばにあった刀剣を手に取る。その重みに負けてしまいそうになった。

「国王様が……!」

 その直後、聞こえた誰かの声に衝撃が走った。

 父さま? 父さまがどうしたというの。涙が出てくる。最悪なことを想像し、けれどもそれがおおよそ当たっているのかと思うと、全身から煮えたぎるような力が沸いた。怒りだけで動かされている。気付けば、声にならない声で叫び続けながら、戦の中へと飛び込んだ。

 なんで、なんで、なんで!

 今、一体なにが起こっているの。どうして尊を失い、父さままで失わなければならないの。

 どれだけ戦っても、どれだけ前に出ても、だれかが命を落としていく。守りたくとも、この手では、この身体では、守れる命があまりにも少なすぎる。

 父さまが……そう考えるだけで、殺さなければならない対象への怒りが強くなる。

 まだ尊を送りだせていないのに。まだ、この国には守らなければならない命がたくさんあるというのに。

 わたしは戦わなければならない。戦い続けなければならない。

 手を止めるな。足を止めるな。相手から目をそらすな。

 消えていく命は、わたしたちの命を狙う者なのだから。殺していい。殺さなければならない。

「美琴様!」

 気付けば城壁だった。その先には気が遠くなるほどの兵がそびえ立つようにいる。

 そこに立ち尽くすわたしを森羅が呼び止める。

「森羅……どうしたらいい。このまま、みんな、死んじゃうの?」

 このままでは本当に、この国を守ることができない。

 なんのために必死で剣術を磨いてきたの。こういうときのために、戦えるために強くなりたいと願ってきたことでしょう。わたしはどうしてこんなにも弱いの。

「……刹那」

 中つ国。その軍の一番最前線にいる背中を見つけたとき、崩れ落ちそうになった。

 今まで何度もその背中を追いかけた。その背中が今、こちらに振り向いたとき、夜の闇の中で光る紅い瞳に射貫かれた。

「なにを……しているの?」

 中つ国の兵たちが、刹那の前に膝まずく。

「お待ちしておりました、刹那様」

 その光景を一体どう受け止めたらよかったのか。

「刹那……?」

「これぐらいでいいだろう。王はもう死んでいる」

 わたしが知っている声ではない。

 これは、誰?

「何これ……なんなの」

「言っただろう。お前は戦う必要などないと」

 心臓が激しく胸を叩いていた。息が、できない。

「殺さなければならない人間を殺すことになる。それにお前は耐えられるのか」

 刹那が、中つ国の馬に乗る。まるで乗り慣れたその姿には違和感がない。

「……わたしを殺すの?」

「いずれな。お前が、この国の王になるなら。だから交渉しろ、我が国である中つ国にお前の国を引き渡すと」

 炎が広がり続けていた。

 屋敷がなくなってしまいそうで、その悲しみを、絶望を前に、動けない。

「よく考えるんだな」

 刹那が高つ国から離れていく。中つ国の兵とともに、まるでその先が自分の戻る場所とでもいうような背に、またひとつ、涙がこぼれていった。


「美琴様」

 屋敷は朝まで燃え続けた。もう誰がどこにいるかなんてもう、わからなかった。

 翌日は、真っ黒になった屋敷をただ眺めていることだけで一日が終わってしまった。そんなわたしに、森羅は何度かこうして声をかけてくれる。

「……今晩はひとりさせて。尊とお父様に別れを告げたいの」

「ええ、そうですね」

 とても静かな夜だった。こんなとき、こっそりと抜け出して剣の稽古をした。

 そんなとき必ずといっていいほど刹那が相手をしてくれたことを思い出す。一緒に稽古をして、だけど一度だって刹那に勝てたことはない。昔はあんなにも弱かったのに。尊と一緒に悔しそうにしていたのに。

「……もう、会えない」

 あのころには戻れない。どれだけ願っても、刹那はこの国に戻ることはないだろう。

「なくなっちまったな」

 もう聞くことはないと思っていたその声に顔を上げた。いるはずがない。だというのにその男は──刹那は当たり前のようにわたしの隣に立っていた。

「どうしてここに……っ! どんな顔をして!」

「恨むな。言っただろ、戦うということは、誰かが命を失うと」

「それでも、尊が……父さまが……あなたのせいで!」

 燃えてしまった屋敷の中で、わたしがどんな想いでふたりを探したか。張り裂けそうになる気持ちと、どう向き合い続けたか、刹那にはわかるはずもない。

 この屋敷を燃やしたのは、刹那だ。

「刹那は……誰なの」

「中つ国の王──なんて、自分で言うのもなんかださいな」

 信じられない。

 本当に刹那が中つ国の王?

 だとしたら、今までの時間はなんだったというの。王自ら、高つ国に潜入していたなんていうの。そんなの考えられない。

「……わたしを殺すの?」

「お前がこの国の王になるならな」

 油断すると、膝から崩れてしまいそうだった。

 刹那に命を奪われる未来など考えたこともなかった。

「尊が……もういないの。死んでしまった、わたしを置いて。この国を置いて」

「いいじゃないか。お前が王となった」

 心の底から生まれた憎悪に、体が突き動かされた感覚だった。

 近くにあった石を投げると、それは大きな音を立てて床へと落下した。

「尊が死んだ! 父さまも一緒に! そんなときに、どうしてわたしたちは争わなければならないの」

「それを選んだのはお前だ。俺はこのときをずっと待っていた」

 感情の見えない顔。なにも見えない。なにも聞こえない。刹那の心なんて最初からなかったみたいに。

「いつから騙していたの?」

「最初からだ。ここに来てからずっとな」

 笑い合った日々も、あの全てが幻だったというの?

「刹那が王なら、私はあなたを殺さなければならない。復讐しなければならない。それは刹那も同じでしょう?」

「ああ、俺は王としてお前を殺さなければならない」

「どうして?」

「それが王としての定めだ」

 殺したくなどない。それはわがままなのだろうか。

「あれだけ戦いたいと言っていたじゃないか」

「刹那だとわかっていたら……言わなかったわ」

「それだとお前は死ぬぞ」

 死ぬ。わたしは死んでしまう。

「俺以外にもこの国を狙う者たちは多い。感情に振り回されて選択していけば、いずれ犠牲者を出すことになる」

「感情をなくせというの?」

「そうでなければ、大事なものを失うことになる」

「大事なものなんてとっくになくなったわ」

 尊も、刹那も、わたしから離れていった。

「王としての仕事はなんだ」

「……民を、守ること」

「そうするには、俺を殺す必要がある」

「殺せない」

「それでも殺せ。俺もまたお前を殺す。王としての義務だ」

 なぜ殺さなければならないの?

 平和に暮らせる日はこないの?

「幸せになるために、人は戦争を繰り返すのさ。それが愚かな選択の上で成り立っていてもな」

「けれど──」

 刹那の手がわたしに伸びる。身構えたというのに、あっさりと刹那の腕へと引き込まれる。

「戦い続けろ。何があっても。たとえ、腕がなくなり、視界を閉ざされ、足が使い物にならなくなったとしても、お前が王となる選択を選ぶのなら戦い続けろ」

 初めて聞くような刹那の声だった。

「お前を殺さなければならない日が本当にくるとはな」

「……ねえ」

「初めてだよ、殺したくない人間ができたのは」

「刹那!」

 離れていくその背中に、思わず縋ってしまいそうになった。

 許されるのなら、あの腕の中にずっといたかった。これまでは全て嘘だったと言ってほしかった。殺すはずなどないと笑ってほしかった。

 わたしが知ってる刹那はもうどこにもいなくなったと思ったのに。

 あの温もりを痛いほど知っていた。そして求めている。

 隠し持っていた鏡を取り出す。これを刹那に渡すつもりだった。

 好きだった。

 初めてわたしに笑いかけてくれた日から、ずっと刹那のことだけが好きで、その隣に立つことがふさわしい人になりたかった。

 たとえ結ばれなくとも、刹那の近くにいられればそれだけでよかったのだ。

 いつだって穏やかに笑ってくれる尊も、馬鹿だなと呆れながら笑ってくれる刹那も、もういない。そんな人生を歩んでいかなければならない。

 求めたのは、ただ平和に過ごせる日々だけ。

 戦争なんて、遠い国の誰かがしているもので、わたしには関係ないと、そうやって生きていくものだと信じて疑わなかった。そんな願いが、跡形もなく壊されていく。

 刹那、刹那、刹那。

 わたしはあなたが好きだった。ずっとずっと好きだった。

「わたしはあなたを殺す! 絶対に」

 必ずこの手で殺す。それが幸せになるためだというのなら、わたしはあなたを必ずこの手で殺さなければならない。

 刹那が一瞬振り返ったとき、胸元でなにかが光った。それは尊に渡したものとよく似ていた。

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高つ国の姫物語 茉白いと @mashiroito

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