第60話 誰が為の理想


 半地下になっている小部屋の小さな嵌め殺しの窓からは、地上が少しだけ見える。捕縛されてからの二か月間、再兎さとは殆どの時間を往来する人の靴を眺めながらこの小部屋で過ごしていた。『鯨』では革命が成って以来、再兎を守る為に多くの構成員が寝泊まりしているが小部屋に入る人間は限られており、顔を見知っている者はそう多くはない。

「再兎ちゃん、ビデオの時間だよ」

 控え目なノックと共に緋鰤ひぶりが顔を見せた。小部屋には簡素なベッドとテーブルセットがあり、再兎は丁度朝食を食べ終えた所だった。

「これ、下げちゃうね。今日の当番、私だったの。再兎ちゃんの好きな卵焼き、どうだった?」

 優しく微笑みながら食器を重ねる緋鰤を手伝いながら、再兎は頷いた。

「そう? じゃ、良かった」

 トレーを持った緋鰤の代わりに再兎が率先してドアを開け、二人は連れ立って作業室へ向かう。解禁夜黒く染められていた髪は元の白髪へ戻り、赤い瞳と長い耳もそのままの姿で過ごしているが、衣類は『クジラ』の用意した作業服を着用している。混麻の硬い生地は絹しか纏ったことのない再兎の柔肌を粗くし、一つに纏められた白髪は上等なブラシで梳かれることは無く、艶を喪った。だが二倍の速さで年を取るウサギにとって、今やそれは何の違和感も無い日常となっていた。

「おはようございます、再兎。今日は冷えますね」

 作業室ではにこりともせず能面の様に冷たい表情で美鹿みろくが待っていた。一台しかない古い映写機に今日のフィルムを取り付け回しだすと再兎は大人しく着席した。画面にはやや昔の北街の街並みが映った。雑紙で折られた鯉幟を軒先に貼り付けた荒ら屋が並び、所々破れた衣類を纏う魚種の民が共同の水瓶で顔や足を洗っている。暫くすると映像は西街に切り替わり、上級貴族が邸宅の洗面所でたっぷりの水を使いながら優雅に朝の身支度をする様子が映った。金色の櫛で髪を梳き、絹の靴下を履く。それから麦飯と具の無い汁物だけの魚種の朝餉と果物や肉や卵が並ぶ豪華な獣種のそれが同じ様に交互に映る。

 今日のビデオは獣種の贅沢な暮らしと魚種の貧しい暮らしを対比した映像だった。『鯨』には差別撤廃運動の為の資料映像が大量にあり、再兎は正しい歴史を知る学習時間と称して毎日これらを鑑賞する。また他に魚種の子供用の絵本を読み聞かせる時間もある。これらは『鯨』が自主制作した本で、かつて最も美しい人種とされた項の鱗や広い口角を褒め称える内容だ。

 正しい歴史、というものを教えられる度に、再兎の口数は少なくなっていき、捕縛から二週間で口がきけなくなった。以来、頷くか首を振るかだけで意思疎通をしている。

「では、今日も復習しますよ。正しいのはどちらのカードですか?」

 美鹿が絵の描かれたカードをテーブルに並べていく。一枚目には黒髪に高身長、尖った耳の人間たち、二枚目には赤や黄色の色とりどりの髪と目を持つ人間たち、三枚目には広い口角とくすんだ色の髪、項に鱗のある人間たちが描かれている。

「獣種はどれですか?」

 毎日変わらない内容を美鹿が質問する。再兎は一枚目を指さす。

「鳥種はどれですか?」

 再兎は二枚目を指さす。

「魚種はどれですか?」

 再兎は三枚目を指さす。

「では、不当な差別を受け、搾取されて苦しんでいる罪なき人々は誰ですか?」

 再兎は三枚目をまた指さす。

「その人々から文化や尊厳を奪い、苦しめている悪しき人々は誰ですか?」

「……」

 再兎は、静かに一枚目を指さす。この質問が始まった頃、再兎はどうしても一枚目を指せなかった。泣いて嫌がり、時には暴れて逃げ出そうとしてこの質問が中止になったこともある。目の前にいる美鹿は獣種なのに、どうして平気な顔をしてこんなことを強要するのか分からなくて怖かった。

 しかし今、その赤い瞳に感情は無い。悲しみも怒りも憤りも、もう枯れていた。

「正解です。では、終わりましょう」

 小さく頷いた美鹿が、カードを重ねて素早く回収する。再兎はいつもそれが名残惜しかった。

 一枚目に描かれた獣種の人々は、青猪あおいと同じ黒いスーツを着ている。その絵を少しでも長く見ていたかった。毎朝この時だけ、再兎は青猪に会える。悪い人と言われて素直に青猪を指させば、また次の日もこのカードを見せてもらえる。 

「お疲れ様。それじゃあ、鱒翁ますおうさんに会いに行こっか」

 学習に立ち会っていた緋鰤が再兎の手を取って、いつもの様に会議室へ連れて行く。鱒翁との面談をするまでが午前中の日課だ。面談といっても、文字も読めず口も聞けなくなった今の再兎に対する質問は、誰かを王に指名する気持ちになったか、力が備わった様な変化はあるかといった確認をされるだけだ。

 鱚丞きすけに拘束された時の記憶があまりにも強烈で、初めは誰にも心を開けなかった再兎だが、緋鰤が根気強く部屋に通い、笑顔で優しく接した。今では緋鰤が手を繋げば再兎が取り乱すことは無くなった。

 毎日見せられるビデオの内容は、青猪には教えられてこなかったことばかりだ。青猪が再兎に与えてきた上等な服や食べ物は、北街の魚種の人々には食べられないこと。ふかふかの布団や絨毯の敷かれた清潔な家ではなく、モルタル製やベニヤ壁の古くて黴臭い建物で共同生活をしていること。その原因は獣種が魚種を虐げ、搾取し、差別しているからだということ。

 西街のスラムや北街の富裕層を無視し意図的に操作された情報も、ここでは正しい歴史、であり、青猪は緋鰤をはじめとする親切な魚種を苦しめる悪人であった。

それでも緋鰤と手を繋ぐとき、再兎はいつでも青猪の手を思い出す。

「いつまで待つつもりなんですか?」

 会議室のドアを開けると、声を荒げて鱒翁に意見する慎牛しんごの姿が飛び込んできた。

「うちにウサギがいることは、制空会も木天蓼も知っています。今は邪気寄席の太刀が北街を封鎖しているから入って来られませんが、それもいつ突破されるか分かりません。早くウサギに王を選ばさなければ、いつ奪われるか分からないんですよ!」

 再兎と緋鰤の姿を見て、鱒翁が慎牛を落ち着かせようとするが、慎牛は構う事なく再兎を指さして睨みつけた。

「お前が生きてるのは、俺たち『鯨』が守ってやってるからだ。でなけりゃ悪のウサギは今頃木天蓼や王宮騎士団に殺されてる筈なんだよ。『鯨』に王政を任せればお前だって生き延びられるんだぞ。なんで鱒翁さんを王にしないんだ」

「この子が悪のウサギかどうかはまだ分からんが」

 鱒翁が興奮した慎牛の震える肩をポンポンと叩きながら、ゆっくりと座る。

「そもそもワシは是が非でも王になりたいわけじゃない。魚種の未来の為に、再兎には我々が受けている差別や歴史を学んでもらっている。正しい事実を知れば、自ずと魚種にも平等な人権を与える者を王に選ぶだろう。これが無駄な時間とは思わんよ」

「ですが……!」

「慎牛、再兎ちゃんが怯えてる」

 緋鰤が強い口調で慎牛を諫めた。再兎は青褪めて緋鰤にしがみついている。ここでも目を吊り上げているのは獣種だ。

「少し頭を冷やした方がいいよ」

 再兎を鱒翁に預け、緋鰤は慎牛の腕を引いて部屋の外へ出て行った。再兎は毎日と同じく鱒翁の正面の古いソファに座り、お決まりの質問を聞いた。

 一方、会議室から大分離れた場所まで引っ張られ、慎牛は緋鰤の手を振り払った。

「なんで緋鰤は再兎に親切にするんだよ。俺には理解出来ない。アイツは獅子王の懐でぬくぬく甘い汁を吸って育った悪のウサギだぞ? 当然その教育も受けてる筈だろ。今更意識改革なんて出来るわけない」

「じゃあ、慎牛はどうしたら良いと思ってるの? 悪のウサギを使って、鱒翁さんを偽王になるよう勧めるなんて」

 物凄い剣幕から身を守るようにして、緋鰤は身体の前に腕を寄せた。慎牛はハッとした顔をして、一度溜め息を吐く。 

「……俺は、鱒翁さんが悪政を敷くとは思えないんだよ。偽王なんて言うけど、どんな方法で即位したって王は王だ。鱒翁さんなら絶対、魚種の為に良い政治をするに決まってる。善のウサギが何処にいるのかは分からないけど、王太女は革命が起こった日にウサギを殺せと言ってたじゃないか。今でも公衆伝達でウサギを自分の元に寄越せと騒いでいる。万が一善のウサギが見つかったとして、俺たち『鯨』が手に入れるより先に殺される確率が高いと思うんだよ。もしくは、善のウサギを使って誰かが王になってしまう。『鯨』じゃない誰かの世の中で、また差別を受け続ける気か? 今は正攻法じゃなくても力づくでもいいから、王権を奪うべきだろ」

「だから再兎ちゃんを痛めつけて、鱒翁さんを偽王にするの? 理想の為に二人を犠牲にするの? 暴力で隷従させるの?」

 緋鰤は慎牛の肩を拳で叩いた。悔しそうに何度も叩いた。

「そんなの、獣種のやり方と、おんなじじゃない……」

 そして、ひっ、としゃくり上げ、静かに泣きだした。

 慎牛は、自分の意見の何が緋鰤を傷つけたのか全く分からなかった。ウサギは人ではない。人の形をしているだけの、権力だ。最下層の人間に権力が手に入ったというこの一世一代の好機を逃す手は無い。何故、鱒翁も緋鰤も悠長に、正しい歴史だの未来への教育だのと生ぬるいことを言うのか理解出来なかった。

 こんなにも魚種のことを考えているのに、何故自分は獣種の烙印を押されなければならないのか。目の前が真っ赤に染まって怒りに打ち震えている自分に気付いた。

「……そんな甘いことを言っているから、魚種はいつまでも被差別種族なんだろ」

 慎牛の唸る様な小声が緋鰤の心臓を杭よりも強く打ち抜く。今まで飲み込めた筈の言葉がもう我慢出来なくなっていた。

「獣種のやり方? そうだよ、俺は獣種だ。傲慢で非道で、弱者を蹂躙して生きる醜い獣種の血が流れてる」

「ごめん、慎牛、ごめん」

 緋鰤が縋りつく様に慎牛を抱きしめたが、慎牛は棒立ちのまま昏い顔をして何処か遠くを見ていた。

「そうだ。俺は元々汚れてる。今更何も怖くない。俺が一人で再兎を拷問して、俺が偽王になるよ。そうすれば『鯨』は汚れないだろ」

「慎牛! やめて!」

 泣いて止めようとする緋鰤を突き飛ばすと、思いの他大きな音が立った。緋鰤が派手に倒れ、呻いて起き上がらないことに遠くで作業をしていた者たちが気付き、ちらちらと様子を伺ってくる。美鹿辺りに報告されたら煩く注意され監視を付けられるだろうと、慎牛が逃げる様に踵を返した正面に、突如女が立ちはだかった。

「うわっ! なんだお前!」

 慎牛の声に怯むことも無く、女はその手を引いてサッと近くのドアへ入る。ゲバ棒やヘルメットの詰め込まれた埃っぽい倉庫の中、よく見ると女は中年で、痩せこけて顔色も悪く、饐えた臭いがする。顔立ちは美しい部類だが、薄汚れて目ばかりがギョロリと大きく見えた。

「誰だ……新しく加入した同志か?」

「はい」

 女は慎牛の腕をいつまでも強く握って離さない。

氷魚こまいと言います。さっきの話、聞こえてしまいました」

「……いや、あれは、例え話をしただけで……。再兎は厳重に管理されていて、俺に付け入る隙がそもそも無い」

 妙な奴に絡まれたなと慎牛が言葉を濁して部屋を出ようとしても、氷魚は腕を引っ張って動こうとしない。女の異様さに先ほどまでの怒りは鳴りを潜め、恐怖心が勝った。扉の外の緋鰤の怪我も気になる。自分が鱒翁や美鹿に何と報告されるのかも不安になった。頭の中が様々な思考で混乱している慎牛の様子を鼻にも掛けず、氷魚はじっとこちらを見てくる。

「……もう行かないと」

「私をウサギの世話係にしてください」

 ギョッとして氷魚を見返すが、表情はまるで読み取れない。

「そんなことは無理だ。世話係は鮒未と緋鰤が交互にやっていて間に合っているし、再兎があなたに懐くとは思えない」

「緋鰤……? ああ、さっきの」

 氷魚はパッと手を離し勢いよく倉庫を出て行った。呆気に取られた慎牛が慌てて追いかけると、先ほどの場所に蹲ったまま腰をさすっている緋鰤の姿があった。氷魚はその背後から思い切り振りかぶってゲバ棒で緋鰤の頭を殴り飛ばした。ボゴン、という鈍い音がして緋鰤がその場に再び転がった。後頭部から血が滲んで床に流れていくのが見える。助けを呼ぼうと咄嗟に辺りを見渡すが、先ほどの野次馬はとっくに作業へ戻っており、ここには緋鰤と氷魚と自分しかいなかった。

「死んではいません。でもあなたとこの人が喧嘩していたのは見られています。あなたが殴ったと思われるでしょう」

「……一体、どういう……正気じゃない……」

「私をウサギの世話係にしてください。そうすれば、これは事故だと目撃証言をしましょう。あなたの危険思想も黙っておきます」 

 氷魚が上を指さす。廊下の隅にうず高く重ねられたバリケード用の重たい椅子の上には更に木製のプラカードが積まれている。これが落ちてきた体にしてやるということだろう。

「……目的は何なんだ。ウサギの世話係になって何かを吹き込む気か? 魚種が王権を握るのを邪魔するつもりならば、こちらこそお前を上に突き出す」

 氷魚は暫く考えた後、静かに答えた。

「私はあなたの意見に賛成なんです。今のやり方では手緩い。一刻も早くウサギを懐柔し、魚種が王権を握る世の中を実現させるために協力します」

 床に転がる緋鰤を見やると、僅かに身動ぎして唸っている。確かに緋鰤に懐いている再兎を自分の思う通り動かせるとは思えない。この得体の知れない女を利用した方が遥かに成功率は上がる。緋鰤の意識が戻れば自分のことを上に報告するだろう。決めるなら今しか無いと思った。これは魚種の人権と安寧を守るという大義の元、伴わねばならない痛みだ。

「……分かった。但し」

 慎牛が氷魚の手から血の付いたゲバ棒を取る。そしてそのまま緋鰤の額に勢いよく振り落とした。頭から血が噴き出し、僅かに動いていた緋鰤の身体がピタリと止まる。それから積まれた椅子の根本を思い切り蹴り上げ、緋鰤の上に雪崩を起こした。ガシャーンという大きな音を立てて、廊下は一面椅子が散乱し、足の踏み場も無い程広がった。

 慎牛は作業着の腹側の布でゲバ棒の血を拭き取り、投げ捨てた。カンと音を立てて椅子の下敷きになった緋鰤の脇に落ちる。プラカードに混ざって転がった角材は直ぐにその場に馴染んだ。

「理想の為には甘えは許されない」

 二人は弾かれた様に走り出し、大きな騒音に驚いて駆け付けた構成員たちに見つかる前に姿を消した。椅子の下敷きになって頭から血を流した緋鰤が発見された時、彼女は息絶えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

再来のウサギ 斉藤朔久 @saitosaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ