第59話 形骸の巫女


 

 革命後、Pと大瑠璃おおるりの裏切りを知ってから、犬遊犬遊は思考停止していた訳では無い。すぐに武闘派を北街へ向かわせたが邪気寄席ざけよせの破落戸共が街境の至る所を見張っており、人数で負けている『木天蓼マタタビ』が入り込める余地は無かった。

 また、王宮のウサギが『クジラ』に奪われたことも勿論すぐに報告を受けていた。人為的にせよ、善と悪、どちらのウサギも被差別の歴史を持つ北街の魚種の元に在ることがいかにも神の意志らしい。

 それでも犬遊は首を横に振り、神に真の道を教えてやると決めていた。

 作戦会議室の扉を開けると他の者は皆出払っている様だった。ただ一人、白装束の若い女が広げた地図をじっと注視している。

狸香まみか、王太女の居場所は他に思いついたか」 

 実動隊である武闘派だけでは手が足りず、犬遊は革命後、一般信徒たちも公衆伝達の発信場所特定に尽力させている。この狸香は疑り深い獅子王に掛けられた冤罪によって没落し一家離散した貴族の娘だ。西街の社交界の人間関係に詳しく、馬綾が潜伏出来そうな屋敷を幾度も進言していた。

「あら、かなり絞れたかと思っていたのに、まだ見つかりません?」

「ああ。お前が挙げた屋敷の候補には全て向かわせたが、匿ってる様子は無かった。外れだ」

 犬遊は疲れた様子で隣の椅子にドカッと腰かけ、天を仰ぎながら目を覆った。実際、もう長い間まともに眠れていない。狸香は華奢な身体を地図から起こし、犬遊の腿をゆっくりとなぞりながら

「少し休んでいらしたら?」

 と、微笑んだ。その大きな瞳の下の深い隈と皺から、狸香もまた怒りと憎しみの中、殆ど寝ていない様子が見て取れる。犬遊は鼻で嗤い、狸香の細い腰を抱き込んで引き寄せた。聖堂に立ち込める香の奥に生身の女の体臭を感じる。他の信徒よりは立派な胸に顔を埋め、深く呼吸した。狸香は黙って犬遊の項を何度か撫でた後、耳に下がるオニキスのピアスを慈しむ様に指先で転がした。

「それで? 胡蝶屋こちょうやの大旦那様はもう此処の生活に慣れたかしら?」

「さあな」

 くぐもった声で犬遊が気の無い返事をする。

「塔の牢屋にぶち込んでは居るが、身体には傷一つ付けてない。まだ使い道があるからな」

「サライの大使が入っていた、あの場所に?」

「ああ。あの貴族は何しにウチへ来たのか知らないが、今は犀太郎せいたろうが何処ぞへ連れて行った。ウサギを懐柔できるなら飼う意味もあるが肝心のウサギが居ないんじゃ、ただの穀潰しだ。それどころか東狐に取り入ろうとしたらしい。腐っても国王直属の臣下が、プライドも何も無い屑野郎だ」

「それなら何故すぐに首を刎ねて下さらなかったの?」

 幼い頃厳しく躾けられたであろう令嬢の口から昏い恨み節が零れたのに驚いて、犬遊は顔を上げた。狸香は口角を僅かに上げた慎み深い笑みを浮かべていた。

「あの子、社交場に出ていた頃の弟によく似ていたわ」

 狸香のその憎しみに満ちた静かな呟きは、扉の外に立っていた東狐とうこの耳にも届いた。ノックしようと構えていた手を下ろし、暴力によって家族を失った筈の信徒が再び暴力による復讐を渇望している衝撃に立ち尽くす。

 革命後、Pの裏切りによって露見した犬遊の画策は、東狐と犬遊の関係に歪を生み出していた。犬遊は神の意思であるウサギの行方を操作していたらしいと犀太郎から聞いた。彼は青猪を連れ出す許可を求めてきたが、それを許したのは信頼でも慈悲でもなく、再来のウサギを『木天蓼』へもたらし東狐を王にすると告げた青猪を自由の身にするために他ならない。自分もまたウサギの行方を操作する契約を結んだ不敬な人間の一人なのだ。決して犬遊を責めることは出来ない。

 それでも犬遊を避けてしまうのは、彼の射貫くような瞳の奥に居る亡くなった恋人が、自分を責めている様に感じるからだった。意を決して今後の話をしようと普段は立ち入ることもない聖堂の外まで足を運んだが、この部屋自体が犬遊の様に自分を拒否している様に思える。自分は犬遊にとって道具でしかない。真の王としての器でしかない。理解していた筈なのに、まだ心の何処かで同じ理想を求めて繋がり合えているのだと信じたかった。自分もまた犬遊を狼志ろうしと血を分けたというだけの器として見ているのだ。

 やはり出直そう。と東狐が踵を返した瞬間、廊下の奥からパンッと大きな破裂音が響いた。

「ここに居ろ! 絶対に出るな!」

 狸香に叫びながら犬遊が部屋から飛び出てきた。二人は強かにぶつかり合い、驚いた犬遊から向けられた怪訝な表情に、東狐は思わず顔を伏せる。

「……こんな場所まで何しに来た」

 犬遊は低く唸りながら閉めた戸に背を張り付け胸から護身用の小銃を出し、構えた。自陣では武装を解いている為、それしか装備が無い。そして反対の手で東狐の腕を乱暴に掴み、自分の後ろへ隠す。

「敵襲か?」

「わ……分かりません、何も」

 東狐は震える声で辺りを見回した。

「お前はいつも、何も分からないんだな」

 いつも通りの犬遊の軽口が、今日は岩で頭を殴られた様な痛みを東狐に与えた。私は何も分からず何も成せず何も与えられない。そう張りつめていた東狐の精神をじわじわと奈落へ落としていく。

 暫くの静けさの後、申し訳なさそうに肩を竦めながら白装束の一般信徒が奥の部屋から姿を現した。まだ少年の名残がある若者だ。

「な、なにかお役に立ちたくて……武器庫のお掃除をしていたら落としてしまいました」

 頭を下げながら東狐と犬遊に差し出した両手には軽そうな銃が乗っている。犬遊はツカツカと近づいてそれを手に取り、信徒の下げられた旋毛へピタリと当てた。

「犬遊っ!」

 東狐が驚いて悲鳴に近い声を上げても、信徒は身じろぎせずにじっと犬遊の言葉を待っている。

「こんな威嚇用の音追いピストルなんか弄って、満足か?」

 犬遊は鼻を鳴らし、銃を下ろして信徒の顔を上げさせた。信徒は青褪めながらも強い眼差しで見返す。

「本当は何しに武器庫へ忍び込んだ?」

「……僕も、僕にも何か出来ないかと思って、それで……武器さえあれば僕だって街にまだのさばっている貴族や王族を殺……」

 青年がそれ以上紡ぐより先に、犬遊はその後頭部を掴み、自分の胸に搔き抱いた。

「俺たちは大義ある革命軍だ。東狐様を王に据える為にのみ力を振るえる。そうだろ?」

 犬遊の胸の中で、青年は驚いて徐々に力を抜いていった。犬遊はそれを褒める様に背中を叩き、笑顔を作る。

「武闘派へ来い。お前の様な特別な信徒を俺たちは待っていた」

「……犬遊さん、そんな……僕、嬉しいです。どんなことでもやります! やらせてください!」

 青年はあどけない顔を上げて涙を浮かべながら感激した。頬を赤らめ高揚した様子を、東狐は白けた気持ちすら感じながら見ていた。視線だけを犬遊に向ける。犬遊は冷たい目を寄越しながら狼志に似た顔で笑ってみせた。

「もう出ても良さそうね」

 作戦室から狸香が顔を出し、東狐に一礼して犬遊の傍へ寄って行く。

「地図をもう一度見直してたら、古いお屋敷を一つ見落としていたわ」

「……それ、僕にも行かせてくれませんか? きっとお役に立ってみせます」

 まだ犬遊の胸にしがみついたままの青年が、興奮した様子で嬉々として志願した。犬遊は困った様な顔を作り

「だが獅子王政権の残党が集まっているかもしれない場所だ。いざという時は全員皆殺しにしなくちゃならない。何の訓練も受けてないお前には危険すぎるだろう」

 と窘めた。青年は自分の身を案じてくれる雲の上の存在に益々陶酔した顔で首を何度も横へ振った。

「出来ます。やらせてください! 僕に人殺しの技術を叩きこんで下さい!」

「……分かった。そこまで言うなら仕込んでやる」

 茶番劇を眺めている間に、また一人若者が両手を血で染める誓いを立てた。東狐は眩暈がする程の無力感に立っているのが精一杯だった。犬遊も狸香もこの青年も、誰も東狐のことを見てはいない。それなのに皆が東狐の為に、と命を削っている。

 自分が王になることが正しいと思って生きてきた。それは確かだ。神託を賜わることの出来る身ならば世の統べ方を間違えようもないと、獅子王の悪政によって苦しむ貧しい者たちを救えると信じてきた。サライの大使を放ち人為的にでもウサギを我が物にしようとしてまで、そのことに執着してきた。

 だが、『木天蓼』の大義であるだけの自分に、ウサギは力を与えるだろうか。

 祀り上げられただけの、猿女君の血を僅かに引くだけの、無力な傀儡である自分が、王になって一体、誰か一人でも幸せに出来るのだろうか。

 眼前の三人すら自分を見ていないというのに、三街の民をどう統べるというのか。

 崩れ落ちそうな身体を自分で強く抱き、東狐は無言で聖堂の方へ去っていく。真っ青な顔で遠ざかっていくその様子に、犬遊は声を掛けようとしたが結局何も言わなかった。

東狐が何を考えていようとも、王位継承者である馬綾を亡き者にすれば革命は達成される。首が挿げ替われば王宮騎士団も夜間警察も『木天蓼』傘下として邪気寄席の一派とぶつけられる。『鯨』は『木天蓼』と大差無い戦力だ。ウサギは一匹は確実に手に入る寸法だった。今更御託を並べても東狐の懐柔は出来ない。それならば外堀から埋めて事実上の王にする方が容易い。

「狸香、見落としていた古い屋敷とは何だ」

 犬遊が東狐から自分に視線を移したことに満足した狸香は、満足そうに口角を上げた。

「三年前に事件があって廃屋になっていたから忘れてましたの」

「事件のあった屋敷……って、もしかして」

 青年が怯えた様に唾を飲み込む。

「そう。旧鹿錬貴カネキ邸よ」

 狸香の返答は膝を打ちたくなる程の明るさで犬遊を驚かせた。公衆伝達の設備が整っている程の豪邸かつ今は廃墟だ。成程、隠れ家としてこの上ない好条件である。

 翌朝、集められた武闘派と一般信徒からの志願者を含む五十名が西街の旧鹿錬貴邸へ出立した。


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