第58話 エキドナ
一週間後、
「あの暗号……爵位を持つのは獣種のみですから、西街の屋敷の何処かだということまでは明白です。ただここから先は何処を目指せばよいか見当が付きません。貴方が頼りです」
粗末ながらも賑わう食堂の片隅で、鯉市はタレのかかった揚げ魚や牛の腸のスープを頬張りながら、何処か疑い深い顔で言った。向かいで蒸したパンを口にしながら青猪は小さく頷く。
庭の餌には味付けが無かったため気付かなかったが、北街の料理は安価な食材の臭みを消す為か独特の香りが強く、道中どの店の味も青猪の口には合わなかった。ただ、この街境の食堂の客の半数は獣種であることから、これは人種の問題ではなく育った環境の違いによるものだと気付けた。
初めの宿で風呂に入る前、商店で鯉市が見繕って買ってきた着替えは北街風の袍衣だった。当然、獣種の青猪には寸が足らず身頃は随分余って不格好だったが、しかし上等な誂えを纏っている鯉市の下男に見えて、かえって都合は良かった。食事と違い、こちらの方は存外体に馴染み、気に入っている。
「陛下……いえ、
「……篤志家ですか」
「はい。誰か心当たりが?」
「あ、いえ……」
鯉市は考え込む表情のまま、口に更に料理を詰め込んだ。食べることで不安を掻き消そうとしていることは明白だ。
「
鯉市の落ち着かない様子を見ていられず、青猪は思わず核心を突いてしまった。太刀に黙って邪気寄席を出てきた鯉市は、北街に戻ってきた太刀から酷い罰を受けるのだろうか。
青猪の同情する様な声音に苦笑しながら、鯉市は料理を飲み込み首を横に振った。
「……叔父貴は冷徹で狡猾な人です。例えばあのテロリスト共の組織を潰しても、東狐の首を取ったとしても、大っぴらに凱旋したり公衆伝達で勝利宣言をしたりする様なことはしません。あの人は……切り札を何枚も揃えて隠しておくんですよ。そういう人だから、魚種でありながら獅子王と蜜月関係にまで成り上がれた」
「蜜月……邪気寄席を北街の社交場に差配した時の噂は知っています」
「それだけじゃありませんよ。……違法営業も納税額も融通され、叔父貴の息が掛かった養護施設の運営も黙認されていました。叔父貴はある意味で獅子王と対等に商売をしていたと思います」
青猪は首を傾げた。
「養護施設? 貧民を救うことに何を黙認するのですか?」
「……ボクも詳しくは知りません」
鯉市はいつの間にか食べるのを止め、箸を静かに置いていた。脂塗れの皿の上で冷めた料理が固まっている。それをじっと見つめながら苦々しく眉根を寄せた。
「叔父貴は養護施設の出身です。ボクの母親もボク自身も、その施設で育ちました。その場所には今もまだ人が残っていて、叔父貴はそこを実家だと言って大事にしています」
「……太刀殿と鯉市さんに血の繋がりは無いのですか」
「おそらく。ただ、叔父貴はボクを血縁だと言うのです。そこの施設の者も皆、血縁者だと。その施設には、訪れる度、子供が増えていくんです……。外見の変わった子供や間の子や、病気の子が殆どです」
「憐れな境遇の子供たちの面倒を見るという乳児院などは他の街にも存在しますよ。助成金もある筈です」
その助成金が大人たちに搾取され全く意を成していなかった現状を、西街で散々見てきた。こんな慰めは白々しく、言い終えてから青猪は自分を恥じた。だが鯉市は分からない振りをして逃げた青猪を責めることはせず、何かを決意した顔で向き合った。
「施設の名は、エキドナハウスと言います。他所から年頃になった孤児を連れてきて、保護するのではなくこの中で赤ん坊を生ませているようなんです。ただの異種の間の子じゃない、人為的に遺伝子を操作した子供を造り続けているんですよ。これでもまだ、意義ある善行と思いますか?」
いつの間にか食堂には人が溢れ返り、夜が深くなったことを教えてくれた。獣種も魚種もごちゃ混ぜになりながら酒を飲んでいる。世は荒れ、己は貧しく、そんなことはお構いなしに一日の労を労い合う。大勢の中の自分たちもまた獣種と魚種の、目立たない一組の客でしかなかった。だが周囲の赤ら顔とは真逆に、二人の表情は昏く、青褪めている。
エキドナとはキメラの母。物語に出てくる半人半蛇の女の名だ。
「ボクも詳しいことは何も教えられてません。ただ叔父貴が商売を始め社交場の長に成り上がるまで、『兄』の支えがあったという記録がありました」
「……兄?」
青猪の声は震えていた。
「兄とは……つまり、同じエキドナハウス出身の子供……ということですか?」
北街のお仕着せを纏い恐怖に慄く獣種の貴族を前に、何処か嗜虐的な気持ちを覚えながら、鯉市は止めを刺す。
「いいえ。……エキドナハウス創設者、
鹿錬貴公爵。西街でその名を知らぬ者は居ない。
私財を投げ打って他街の整備を図り、孤児を救った著名な篤志家。獣種の良心。三種族の和平と格差撤廃を心から願った獣種一の人格者である。
馬綾の側近であるPが邪気寄席にウサギを紛れ込ませたことを知ったとき、もうこれ以上の裏切りは無いだろうと思った。だが青猪は今、それを優に超える獣種への失望、同種としての自己嫌悪を覚えていた。
「何の為に……鹿錬貴公爵は、太刀殿は……陛下は一体、何の為にそんな恐ろしいことを!」
掠れ声を荒げ、青猪はブルブルと戦慄いた。それから大声を上げそうになるのを抑えようと両手で口を塞いで嗚咽を漏らした。卓の上で干からびた臓物のスープが目に入る。見上げると鯉市が歪んだ笑みを薄っすら湛えている。この男はどうなのだろうか。遺伝子を操作されて生まれてきたのだろうか。そんなことを考え差別しようとしてしまう自分に吐きそうになる。一体何の為に彼らは人の遺伝子を操作し続けているのだろうか。社会的底辺にならざるを得ない間の子や病気の子を量産してまで何を成そうとしたのだろうか。得体の知れない人間が増えることで獅子王が得る物は何だ。
その時、青猪の脳裏に鬼の姿が過ぎった。
白い髪、赤い瞳、長い耳。どの種族の者から見ても醜い、奇異な、得体の知れない存在。
「ウサギ……?」
塞いだ口から洩れた一言に自ら驚いた様に、青猪が顔を上げる。
「その技術を使い、ウサギを量産させようとしていたとしたら?」
「獅子王は叔父貴に趣味の人体実験を容認する代わりに、ウサギを造らせようとしていた、ということですか」
鯉市は暫く目線を外した後、なるほど、と小さく呟いた。
「……亜海鼠は、そのことを知ってウサギを逃がしたのかもしれません」
「鹿錬貴邸は……三年前に何者かに襲撃され……今は廃墟と聞いています」
呆然としたまま、青猪は続けた。
「人の居ない、公爵家の邸宅。公衆伝達もあります。もしかしたらそこには、首謀者のPも居るかもしれません……」
恐らくは馬綾と共に。潜伏するには条件が整いすぎている。
「それは好都合です」
鯉市はPの名を聞いて目を細めた。懐に手を突っ込み小銃のリボルバーをゆっくりとなぞる。
「探す手間が省けますからね」
青猪の虚ろな目の前に、血の繋がりが無い筈の太刀によく似た殺人者の笑顔があった。
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